[#表紙(img/表紙.jpg)] 百人一首の世界 久保田正文 目 次  ㈵ 小倉百人一首  1 まなびとあそび──序に代えて  2 小倉百人一首 〈1〉秋の田の………天智天皇 〈2〉春すぎて………持統天皇 〈3〉あし曳の………柿本人麿 〈4〉たごのうらに…山部赤人 〈5〉おくやまに……猿丸大夫 〈6〉かささぎの……中納言家持 〈7〉あまの原………安倍仲麿 〈8〉わが庵は………喜撰法師 〈9〉花のいろは……小野小町 〈10〉これやこの……蝉  丸 〈11〉わたの原………参議 篁 〈12〉あまつ風………僧正遍昭 〈13〉つくばねの……陽 成 院 〈14〉みちのくの……河原左大臣 〈15〉君がため………光孝天皇 〈16〉立わかれ………中納言行平 〈17〉ちはやぶる……在原業平朝臣 〈18〉すみのえの……藤原敏行朝臣 〈19〉難波潟…………伊  勢 〈20〉わびぬれば……元良親王 〈21〉今こむと………素性法師 〈22〉吹くからに……文屋康秀 〈23〉月みれば………大江千里 〈24〉このたびは……菅  家 〈25〉名にしおはば…三条右大臣 〈26〉をぐら山………貞 信 公 〈27〉みかのはら……中納言兼輔 〈28〉山ざとは………源宗于朝臣 〈29〉心あてに………凡河内躬恒 〈30〉ありあけの……壬生忠岑 〈31〉朝ぼらけ………坂上是則 〈32〉山がはに………春道列樹 〈33〉久かたの………紀 友 則 〈34〉たれをかも……藤原興風 〈35〉人はいさ………紀 貫 之 〈36〉夏の夜は………清原深養父 〈37〉しら露に………文屋朝康 〈38〉わすらるる……右  近 〈39〉あさぢふの……参議 等 〈40〉忍ぶれど………平 兼 盛 〈41〉恋すてふ………壬生忠見 〈42〉ちぎりきな……清原元輔 〈43〉あひみての……権中納言敦忠 〈44〉あふことの……中納言朝忠 〈45〉あはれとも……謙 徳 公 〈46〉由良のとを……曾禰好忠 〈47〉八重葎…………恵慶法師 〈48〉風をいたみ……源 重 之 〈49〉みかきもり……大中臣能宣 〈50〉君がため………藤原義孝 〈51〉かくとだに……藤原実方朝臣 〈52〉あけぬれば……藤原道信朝臣 〈53〉なげきつつ……右大将道綱母 〈54〉わすれじの……儀同三司母 〈55〉滝のおとは……大納言公任 〈56〉あらざらむ……和泉式部 〈57〉めぐりあひて…紫 式 部 〈58〉ありま山………大弐三位 〈59〉やすらはで……赤染衛門 〈60〉大江山…………小式部内侍 〈61〉いにしへの……伊勢大輔 〈62〉夜をこめて……清少納言 〈63〉いまはただ……左京大夫道雅 〈64〉朝ぼらけ………権中納言定頼 〈65〉うらみわび……相  模 〈66〉もろともに……前大僧正行尊 〈67〉春の夜の………周防内侍 〈68〉こころにも……三 条 院 〈69〉嵐ふく…………能因法師 〈70〉さびしさに……良暹法師 〈71〉ゆふされば……大納言経信 〈72〉おとにきく……祐子内親王家紀伊 〈73〉たかさごの……権中納言匡房 〈74〉うかりける……源俊頼朝臣 〈75〉契り置きし……藤原基俊 〈76〉わたの原………法性寺入道前関白太政大臣 〈77〉瀬をはやみ……崇 徳 院 〈78〉あはぢ嶋………源 兼 昌 〈79〉秋風に…………左京大夫顕輔 〈80〉ながからむ……待賢門院堀河 〈81〉ほととぎす……後徳大寺左大臣 〈82〉おもひわび……道因法師 〈83〉世の中よ………皇太后宮大夫俊成 〈84〉ながらへば……藤原清輔朝臣 〈85〉よもすがら……俊恵法師 〈86〉なげけとて……西行法師 〈87〉むらさめの……寂蓮法師 〈88〉なにはえの……皇嘉門院別当 〈89〉玉のをよ………式子内親王 〈90〉みせばやな……殷富門院大輔 〈91〉きりぎりす……後京極摂政前太政大臣 〈92〉わが袖は………二条院讃岐 〈93〉世の中は………鎌倉右大臣 〈94〉みよし野の……参議雅経 〈95〉おほけなく……前大僧正慈円 〈96〉花さそふ………入道前太政大臣 〈97〉こぬ人を………権中納言定家 〈98〉風そよぐ………従二位家隆 〈99〉人もをし………後鳥羽院 〈100〉百しきや………順 徳 院  ㈼ 小倉百人一首の成立ち  1 その成立まで  2 その構成  ㈽ 藤原定家とその時代  1 乱世の記録『明月記』  2 定家の生涯  3 文学者・藤原定家  ㈿ 和歌史上の小倉百人一首  1 「歌よみに与ふる書」  2 万葉集歌風と古今集・新古今集歌風  あ と が き [#改ページ]  ㈵ 小倉百人一首   1 まなびとあそび──序に代えて  私たちがいま、ふつうに「百人一首」と言っているものは、もうすこし正確に言えば、「小倉百人一首」である。ということは、「百人一首」なるものはそれぞれに肩書きがついて、他に数多くのそれがあるということである。戦争中に、日本文学報国会がつくった「愛国百人一首」などもさっそく思いうかぶ。あれをつくるときは、関係者のたいへんな力こぶが入ったものであるが、民衆からはほとんど見向きもされず、はかなく終った。斎藤茂吉なども当時、むりに俄かごしらえでつくっても、小倉百人一首ほどによろこばれることはあるまいという意味の感想をのべていたものである。そればかりではない。百人一首という発想はよほど日本人好みとみえて、戦後になっても、「平和百人一首」などがつくられた。これも、愛国百人一首と似たりよったりで、いまではそういうものがつくられたことすら忘れているひとが多かろう。  法律学者の穂積|重遠《しげとお》博士の、百人一首類書に関する蒐集は有名な話であるが、昭和三年に穂積氏が『日本文学講座』第十九巻(新潮社刊)に発表した研究によると、主なもの九十七種が数えられている。しかしその後も新種の発見がぞくぞくとあり、もっとも古いところでは、文明十五年(一四八三)足利|義尚《よしひさ》のつくった「新百人一首」をはじめとして、「愛国百人一首」や「平和百人一首」に至るまで、模倣書・末書・もじり(パロディ)の類を含め、一千種をこえるに至っているということである。一千種をこえる、何某百人一首のなかから、「百人一首」といえば、ふつうに「小倉百人一首」ということになったのだから、やはりそれはもっともすぐれたもの、もっとも民衆に愛されたものと言うべきであろう。  とくに、小倉百人一首が、かるたになって、民衆のあそびと結びつくようになって、その普及力はつよく広くなっただろう。尾崎紅葉の「金色夜叉」の幕あきが、かるた会であることは誰でも知っている。明治から大正期の、ロマンスの多くは、かるた会からはじまったふしがおおいにある。自然は芸術を模倣する、ということもある。尾崎紅葉の小説は、かるた会の普及に大いに貢献したかもしれぬ。  しかし、現代の私たちにとってはすでに古典的なあの時代に、小倉百人一首やかるた会は、かならずしもあえかにうつくしく、あるいは哀れにものがなしいロマンスのためだけに、民衆の生活とつながっていたわけではない。中勘助の「銀の匙」には、明治二十年代の、学齢前の少年が、毎晩床に人ってから、オールド・ミスの叔母さんから、百人一首の歌をひとつずつ暗誦させられる話が出てくる。病弱な、神経質な、眠りぎわのわるい少年であった。つまり、彼のばあいは、意味のわからぬままにとなえさせられる、あれらの平安朝時代の貴族的な男女のものがなしい恋のなやみをうたった三十一文字《みそひともじ》は、一種の睡眠儀式として役立ったわけである。  大正期も、半ばすぎのかるた会になると、これはまた「金色夜叉」時代とはだいぶちがってくる。昭和四十年に、網野菊氏が発表した短篇小説「カルタ会」(『群像』九月号)は、大正十年ころ、カルタ会の名目で、東京の目白の上り屋敷に集まった、男女の大学生たちの会合は、社会主義者たちの演説で終始したという話である。  ついでに、時代を逆にたどって、江戸時代末期、十八世紀なかごろ、本居宣長の青年時代まで行ってみれば、百人一首は学問のはじめでさえもあった。二十歳すぎたころ、宣長は医学の勉強をするために京都へ出た。あるとき、「百人一首の改観抄《かいかんしよう》を、人にかり見て、はじめて契沖《けいちゆう》といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、餘材抄《よざいしよう》、勢語臆断《せいごおくだん》などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ」と、『玉勝間《たまかつま》』のなかでかいている。契沖の『百人一首改観抄』は、現在でも、百人一首を論ずるほどのひとは、かならず立ちもどってみなくてはならぬ研究書のひとつである。契沖(一六四〇─一七〇一)は、江戸時代の国学者で、寛永十七年に生れ、死んだのは元禄十四年である。俗姓を下川と言い、十一歳のとき僧となった。従来の伝授的な学問の方法を排し、仏典や漢籍に関する広い知識をつかいこなし、書誌学・語学などを含めて古典研究に新しい自由な立場からの学問の道をひらいた。『万葉|代匠記《だいしようき》』『古今《こきん》餘材抄』(古今集の註釈)、『勢語臆断』(伊勢物語の註釈)などの他多くの著書、歌集がある。  小倉百人一首が、かるたになって、民衆のあそびと結びつくようになったのも、江戸時代からのようである。中島悦次氏が「小倉百人一首序説」(『跡見学園紀要』第三)のなかでのべているところによると、元禄時代には百人一首が歌がるたとしてさかんに行なわれていたらしいという。元禄十一年(一六九八)の『壺の石ぶみ』という書物に、「歌《うた》骨牌《がるた》といへば当時百人一首に限りたることとす」とあるということである。その他、江戸時代の文献にいろいろ歌がるたのことはあらわれている。寛文六年(一六六六)刊行の『人倫訓蒙図彙《じんりんくんもうずい》』には、京都で歌がるた札が木版刷りにされてうり出されたとか、貞享五年(一六八八)刊の『正月揃』に歌がるたの名がみえるとかいうことも知られているが、それらがすべて、現行の小倉百人一首とおなじものであったかは、かならずしも明らかではない。けれども、江戸時代末期にかけて、小倉百人一首がもっともさかんに行なわれることになったのは明らかなようである。  もっとも、かるたそのものの歴史は、さらに古い起源と歴史をもっている。『嬉遊笑覧《きゆうしようらん》』(喜多村|信節《のぶよ》著、文政十三年・一八三〇刊)では、つぎのように説明している。歌の上句をあげて、下句をあてさせる「ついまつ」(「続松」)のあそびのことは『伊勢物語』にも『枕草子《まくらのそうし》』にもみえていて、江戸時代の「歌がるた」の発生はそのあたりとみることができる。「かるた」というのは、「軽板《かるいた》」の略だという説があるが、これは誤まりで、それは「蛮名にて博の具なり(ポルトガル紅毛にてしか云ふ)それに形の似たるから歌かるたと云ひたるが……」とかいている。博の具というのは、賭博の道具という意昧であろう。さらに、「貝覆《かいおおい》」と歌がるたとはちがう、というのが『嬉遊笑覧』の意見である。かいおおいは、貝合《かいあわせ》とも言って、蛤の貝殻を分けもって、右貝と左貝を合わせるあそびで、のちには合わせる便宜のために貝の内側ヘ一首の歌の上句と下句を別々に書いたものである。やがてそれは、歌の贈答あるいは歌の記憶のためにつかわれるようになったらしい。  百人一首といえば、小倉百人一首という常識は、ほぼ江戸末期から形成されはじめたらしいことは、明治六年三月に、黒川|真頼《まより》が、文淵堂《ぶんえんどう》から小倉百人一首をローマ字で書いた『横文字百人一首』を出版していることや、おなじ八月には、総生寛《ふそうひろし》の撰で、『童戯百人一首』なるものの刊行されていることからも推測される。これは、椀屋《わんや》喜兵衛他十二の書店から発行されたもので、小倉百人一首の上句だけをつくりかえて、当時の文明開化風俗を諷刺したものである。序文はつぎのようにユーモラスな文章でかかれている。 「定家卿小倉の山荘に在《あり》て百人一首の名歌を集む 僕《やつがれ》は東京《とうけい》市街に僑居《きようきよ》して百首の狂歌を詠ず李白が詩百篇は一斗の酒を飲尽《のみつく》す時間《ひま》に賦《ふ》せり 此《これ》は書肆《ふみや》の需《もと》めに応じて洋酒|一硝子罎《ひとびん》を傾くる間に時世《このせつ》の模容《ありさま》を吐露《はきいだ》せり 其潤筆《そのへんれい》僅に一杯|飲《のみ》て余物《あまり》なし 依《よつ》て標題を百人一酒《ひやくにんいつしゆ》といふて允当《よし》又|百人一銖《ひやくにんいつしゆ》と称するも可なり」  歌はつぎのようなものである。行分けに書かれ歌にそえて漫画ふうなカットがついている。これも、例の一千種をかぞえるパロディのひとつとして加えられるものである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○金巾《かなきん》の 蝙蝠傘《こうもりがさ》を 物数奇《ものずき》に 我|衣手《ころもで》は 露にぬれつつ  天智天皇  ○黄昏《たそがれ》の 調練場所に |喇※[#「口+巴」、unicode5427]《らつぱ》ふく 声聞く時ぞ あきは悲しき  猿丸大夫 [#ここで字下げ終わり] 「金色夜叉」の発表されたのは明治三十年であるが、すでに、明治二十六年には、総ひらがなの「標準かるた」がつくられて、全国に競技団体や研究団体がうまれる機運が目立ちはじめていた。黒岩|涙香《るいこう》が、じぶんの経営する新聞『万朝報《まんちようほう》』(明治二十五年創刊)によって、このうごきを激励し、普及させて、「東京かるた会」をつくって全国のこの種の会合、競技に指導的な立場をとるようになったのは、明治三十七年である。その年二月十一日に、第一回のかるた競技会をひらいていらい、年二回か三回ずつ行なっている。大正二年一月五日には、第一回全国大会をひらいている。黒岩涙香は、「巌窟王」(アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」による)や「噫《ああ》無情」(ユーゴー「レ・ミゼラブル」による)の翻案者としてよく知られた作者でもある。  大正十四年に、東京かるた会は、「公定かるた」を制定し、万朝報社遊技部及び東京かるた会から発行することにした。それまで、新橋堂(野村鈴助)が版権をもっていた「標準かるた」には、歌の表記に多少の誤まりがあり、かつ変体仮名が混入していたから、それらの点をすべてあらためたものであった。「『公定かるた』は裏紙が緑色仙花紙で、都鳥の模様を刷り込み、又函にも都鳥が刷り込んであります」と広告にしるしている。  大正十五年一月三日には、東京放送局からラジオによる、かるた放送がおこなわれ、おなじ時間に、ラジオ新聞社主催の、放送による百人一首競技会が、日本橋東美|倶楽部《クラブ》でおこなわれた。大正十五年十二月に、東京かるた会編の『百人一首・かるたの話(かるた大観)』という書物が刊行されていて、当時のことがこまかくしるされている。  戦後は、東京かるた会のほか、東日本かるた連盟、日本かるた協会、京都かるた協会などがつくられて、それぞれにうごきを示している。新かなづかいで小倉百人一首を書きなおそうという議論なども出てきている。  あそびに結びついた小倉百人一首の歴史の大ざっぱな流れは右のようなところであるが、その鑑賞・註釈・研究・批評の歴史も、前にしるした契沖や本居宜長(一七三〇─一八〇一)の時代からさらにさかのぼって、古く永い蓄積が存在する。十五世紀から十六世紀にかけての|宗祇《そうぎ》(一四二一─一五〇二、連歌を大成した人)の『百人一首抄』や、細川幽斎(一五三四─一六一〇)の『百人一首抄』をはじめとして、江戸時代に入れば、名の知られたものだけでも五十書を下らず、近代に至ってはさらに数えきれぬほど多い。書物にならぬ雑誌論文などに至っては、目のくらむほどの数がある。戦後も、ここ十年ほどの間に、主として文法解釈に重点をおいて、いわゆる学生参考書ふうな組みたてで刊行されている註釈書だけでもおどろくほどの数にのぼる。  私は、専門の小倉百人一首学者でないことは言うまでもないが、国文学そのものについても、古代・中世和歌についても、まして国語文法について、専門の研究を積んでいるものではない。そこで、私のかんがえたことは、この書では、大衆的な鑑賞者のひとりとして小倉百人一首につきあおうということであった。専門の研究書・論文が、|汗牛 充棟《かんぎゆうじゆうとう》ただならぬ形でひしめいているからこそ、私のような立場で、時には独断をおこなうたのしさをも含めて、小倉百人一首をよんでゆくことが許されるだろうというほどのところである。  全国の古書店が好意で送ってくれる目録のなかから、主として江戸時代の註釈書などもとりよせた。駿河台下の古書展などへも何回か出かけた。しかし、和とじの、あちこち虫くいのある木版本の毛筆つづけ文字にはまったく閉口した。明治以後の活字本になっているものが多いから、それでよめばよいのだけれども、契沖の全集や賀茂真淵《かものまぶち》(一六九七─一七六九)の全集さえ、いまはなかなか手に入らぬ。友人のつとめている研究所の図書館や、若い友人にたのんであちこちの図書館などをしらべてもらって、ようやくすこしずつよむことができた。活字本は楽によめるが、そうかと言ってそれならまったく疑問がおきないというわけではない。元はあの木版本なのだから、活字本も一種の翻訳に似たようなところがあるということもわかった。江戸時代の学者といっても、かなづかい、送りがなの方法はおそろしくじぶん勝手だということは、かならずしも今度はじめて知ったことではないが、相当な学者でも、なんとも意味のとれぬような、あやしげな文脈の文章をあやつったりしていることは、こんどつくづく思い知った。  しかし、もっとたいせつなことは、現代の専門学者は、じつに精細にそれらの先輩国学者たちの註釈や研究をよみつくし、利用しうるところはたっぷり利用もし、引用もしているということがわかったことである。なるほど、学問というものは、こういうものかとおもった。私などが今さら、虫くいの変体がな手がき木版本などをのぞいてみるまでもないのである。つまり、そこでも私は、素人の特権をぞんぶんに発揮し、安心して現代の専門学者の蓄積を利用してさしつかえないという確信をえた。そういう形で利用させてもらった書物については、そのつど文中で、書名、あるいは著者名をあげることにする。ただ、文法解説については、著者によって意見のちがうものもある。品詞のよびかた、助動詞の分類など、現代の文法学に諸説があるから、そこも素人の特権で適宜裁断することにした。  かくて、あらゆる面で素人の特権をぞんぶんにふりまわしながら、以下私じしんの小倉百人一首の鑑賞と批評に立ちむかいたい。ただ、これは古典に関しても現代作品についてもおなじであるが、なるべく主観的先入観念をおさえての鑑賞のうえに、はじめて批評が成立するというのが私のかんがえである。同時に、批評をひきださぬ鑑賞は、鑑賞そのものとしても不完全なものにすぎないというところまで、私のかんがえは欲ばっている。古典のばあいはさらに、鑑賞のために正確な文章理解が、欠くことのできぬものとして前提される。束縛のないところに自由は成立しないという原則がある。つまり、玄人の何百年かにわたる、巨大な専門的蓄積が、おのずから私の素人主義と独断の自由とを許してくれるわけであろう。  歌の表記は、主として北村|季吟《きぎん》(一六二四─一七〇五、号を拾穂軒・湖月亭などと称し、和漢の学に通じていた。契沖の同時代人であり、芭蕉は彼の門下である)の『百人一首|拾穂抄《しゆうすいしよう》』(天和元年・一六八一刊)の方式に主としてよりながら、『契沖全集』本(大正十五年、朝日新聞社刊)「百人一首改観抄」を参考にしたが、かなづかい、送りがなについてはそれにこだわらなかった。漢字のつかいかたなどでも、あまりに現代ばなれしているとおもわれるごくわずかのものを書きかえたものがある。詞書《ことばがき》は、それぞれもとの勅撰集現行活字本にしたがって添加した。ルビは、よみやすくするためのものであるから、現行かなづかいによった。解説文中の、諸家の引用文のうち、口語文のもので、歴史かなづかいによっているものは、現代かなづかいに書きなおして引用した。このことについては原作者の諒承をえたい。 [#改ページ]   2 小倉百人一首 〈1〉天智天皇《てんじてんのう》 [#5字下げ]後撰集 巻六・秋  題しらず [#1字下げ]秋の田の かり|ほ《お》の庵《いお》の とまをあらみ わが衣手《ころもで》は 露にぬれつつ  秋の田のほとりの仮小屋にいると、屋根を葺《ふ》いた苫《とま》の網目が荒いので、私の衣の袖は露のためにぬれにぬれる。  かりほ、は仮庵《かりいお》のつまったもので、刈穂の意ではないというのが古くからの定説になっている。それゆえよみかたもここは「カリオノイオ」とよんで、重詞《かさねことば》とするわけである。北村季吟の『百人一首拾穂抄』では、「ほ」のところへ「ヲ」とルビをふってよみかたを示している。とま、は藁や萱を編んで作った屋根を葺くむしろ。あらみ、荒いためにの意。「風をいたみ」「夜を寒み」などの用例がある。衣手、は袖のこと。古いよみかたでは「衣」を「そ」と訓み、衣《そ》の手《て》のある所だから、袖をコロモデと言う。ぬれつつ、であるから、ここはくりかえし又は継続の様を示しているわけである。  万葉集巻十、作者不詳の「露を詠む」と題する九首のなかの一首の誤まり伝えられたものだという説は後の章で紹介する。農民の労苦をあわれんだ歌という解釈は、徳川時代から行なわれている。仁徳天皇が「民のかまどはにぎわいにけり」とうたったという話と似たような解釈になる。「民のかまど」はすでに藤原俊成の『古来風体抄《こらいふうたいしよう》』などにもみえるが、話としては後世のつくりものであることは明らかである。もちろん歌としては「秋の田の」の方がすぐれているが、後撰集にこの歌が誤載されたころから、すでに農民をあわれんだという意味が托されていたのだろうか。細川幽斎に、斉明《さいめい》天皇|諒闇《りようあん》に仮庵でもの忌み服喪したときの作とする説があるが、それならば仁慈押しつけにならなくてすっきりする。万葉集にみえる天智天皇の歌は、たとえば巻一の香具山《かぐやま》と耳梨《みみなし》の畝火《うねび》あらそいの歌のように、素朴雄大で、どこかユーモラスでもある。荷田在満《かだのありまろ》(一七五一年没)の『国歌八論』はこの一首を徹底的に批判している。 [#1字下げ] 天智天皇[#「天智天皇」はゴシック体](?─六七一) 第三十八代の天皇。生年については諸説がありさだかでない。葛城皇子《かつらぎのみこ》・中大兄《なかのおおえ》皇子ともいう。大陸帰りの|南淵 請安《みなみぶちのしようあん》の影響を強く受け、大陸の文物制度を積極的にとり入れた。青年時代に藤原鎌足らとはかって蘇我氏を倒し、孝徳天皇の皇太子として大化の改新を断行した。斉明天皇のときもひきつづき皇太子となり、天皇を輔佐して律令的中央集権国家のもとをひらいた。六六七年都を大津に移して翌年即位、官制の改定や戸籍の作成などの業績を残している。作品は『万葉集』に四首(一説に三首ともいう)、『日本書紀』に一首がみえる。万葉集第一期の歌人。策謀力にとみ非情な性格のひとであったといわれる。 〈2〉持統天皇《じとうてんのう》 [#5字下げ]新古今集 巻三・夏  題しらず [#1字下げ]春すぎて 夏来にけらし しろた|へ《え》の 衣《ころも》ほす|てふ《ちよう》 天《あま》のかぐ山  春がすぎて、いつの間にか夏になったらしい。香具山に、いつもの年のようにまた白い衣を干しならべている風景がながめられるということである。  夏来にけらし、は夏が来にけるらしで推量の意味になる。しろたへ、は白妙で衣・袖・袂・雪・雲など白色のものにかかる枕詞《まくらことば》でもあるが、ここでは同時に白布の意をももち純白の色彩効果を印象づけている。ほすてふ、は干すといふ、のつまった形。天のかぐ山、は奈良の大和三山の一。天智天皇が「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相《あい》あらそひき……」とうたった山。  万葉集巻一の、原の形は「夏|来《きた》るらし」「衣ほしたり」である。この万葉の形が直接的で写実的であることは明らかである。「来るらし」も、「来にけらし」もおなじ推量の語法であるが後者の方が装飾的である。しかし何と言っても原形のつよさは、二句目で推量の形で句切れにしておいて、四句でもう一度切り、「天のかぐ山」という結句を独立させ体言で止めた技巧にあるだろう。つまり、二句、四句、五句と三回、終止形になるわけであるが、短かく区切られながら相互によくひびきあって、ダイナミックな調和的一体感を実現している。二句で、R音をよく利かせながら意味のうえで余韻を残す推量としながら、四句で断定する構成法が成功しているわけである。風景のえらびかたにも女性作者らしい個性が出ている。  天、は万葉集では「アメ」とよみ、新古今集では「アマ」とよむのがふつうになっている。香具山、は「カクヤマ」と清《す》んでよむべしとの説がある(拾穂抄)。下句を、衣を干すという天の香具山に衣が干してあると解する説も古くからあるが、すなおな解とは言えまい。荷田在満は、この一首についても点数がカラい。 [#1字下げ] 持統天皇[#「持統天皇」はゴシック体](六四五?─七〇二) 第四十一代の天皇。幼名を|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野讃良皇女《うののさららのひめみこ》といった。叔父の大海人皇子《おおあまのみこ》(天武天皇)に嫁し、皇太子草壁皇子を生んだ。壬申《じんしん》の乱では夫とともに行動している。草壁皇子|夭折《ようせつ》のため、天武没後みずから即位し、懸案であった唐の都城制にならって藤原京をつくり、律令政治にあたった。故天武の陵を築くため多数の農民を使役し、また政権をまもるために腹ちがいの子、大津皇子を殺すなど、その性格は非情であったらしい。作品は『万葉集』に長歌二首、短歌四首があり、うち長歌二首と短歌二首は、夫・天武への哀切な挽歌《ばんか》である。なおこの時代は、人麿や高市黒人《たけちのくろひと》など多くのすぐれた歌人がでて万葉の最盛期であった。 〈3〉柿本人麿《かきのもとのひとまろ》 [#5字下げ]拾遺集 巻十三・恋  題しらず [#1字下げ]あし曳《びき》の 山どりの尾の しだり尾の ながながしよを ひとりかもね|む《ん》  山鳥のしだり尾のように永いながい秋の夜を、私はただひとりで眠るよりほかはあるまい。  あし曳、は山にかかる枕詞。山どり、は山の鳥ではなく、雉科《きじか》に属するヤマドリである。長い尾をもつ。しだり尾、はしだれた尾、つまり垂れ下った尾の意。しだれ柳なども同じ意味の「しだる」(下に垂れる意)という動詞から出ているが、活用形に四段活用と下二段活用とある(しだり尾が四段活用形)。三句までは「ながながしよ」の序である。ひとりかも、の「か」は疑問の助詞、「も」は詠歎の助詞。  万葉集巻十一にみえる原歌ならびに左註歌との異同、ならびに作者の問題については後章で述べる(㈼ 小倉百人一首の成立ち 2 その構成)。拾遺集で恋の歌に分類しているのはもっともなところである。かなりつよく技巧的なうたいぶりであるけれどもイヤ味ではない。三句までの序が、よくリズミカルに流れながら意味も難解でなく、徐々に細かくふるえながら四句へつらなってゆく技巧には思わずよむもののこころをひき込んでゆく調子がある。あし曳、という枕詞が単に装飾的でなく山へ結びつきながら、山のイメージがうかび、山どりの姿があらわれ、やがてその長い尾に集中されると、しだいに永い秋の夜という抽象的な観念へ転位したところでたちまち恋情にもだえるものの心情へ集約される。ゆるやかな流れがすこしよどみはじめたところで、すかさず滝へなだれるというおもむきである。  あし曳、は万葉集では「アシヒキ」と清んでよんでいる。山どりの尾、は山どりの雄というべきかという古人の説を『拾穂抄』は紹介している。ながながし夜、は「ながながしき夜」というのが文法的には正しいが、この種の用例も多いということも古くから論じられている。ヤマドリを婚礼の祝いに送ってはならぬという俗信はこの歌から出たといわれる。 [#1字下げ] 柿本人麿[#「柿本人麿」はゴシック体] 生没年未詳。持統・文武朝ごろ(七─八世紀)のいわゆる白鳳《はくほう》時代に活躍した歌人。すぐれた作品によって後世、歌聖とあおがれるが、その生涯についてはほとんどつたわらない。天皇や皇子にしたがって吉野・泊瀬《はつせ》などへおもむき、また官吏として九州や四国など各地を旅行している。行幸の歌や皇族に対する挽歌が多いところから宮廷歌人であったと思われる。叙事から抒情への推移点に立ち、荘重雄大な調べで『万葉集』に多くの秀歌を残している。晩年、石見国《いわみのくに》の役人となって赴任し、その地の鴨山《かもやま》で没したといわれる。万葉集第二期の歌人。ちなみに兵庫県明石には人麿を祭った神社があるが、これは和歌の神としてまつったものではなく、ヒトマロ神社を〈火止まる〉と解した火よけの神社である。斎藤茂吉に膨大な著書『柿本人麿』がある。 〈4〉山部赤人《やまべのあかひと》 [#5字下げ]新古今集 巻六・冬  題しらず [#1字下げ]たごのうらに うちいでて見れば 白妙《しろたえ》の ふじの高ねに 雪は降りつつ  田子の浦に出て眺めると、富士の高嶺《たかね》にまっ白に雪がつもっている。  たごのうら、は現在の静岡県田子の浦とおなじ。白妙、はここではただ、白いという意味に解する説が多いが、富士にかかる枕詞、雪にかかる枕詞とする説もある。降りつつ、は形式的にいえば前出の「ぬれつつ」のように継続・進行の状態をあらわすことばであるが、ここでは遠くから眺めているのだから降り積りつつある状態がみえるわけではない。石田吉貞氏は『百人一首評解』で、新古今時代の用法には、「つつ」を、「つ」又は「た」と同じにつかった例があるから、ここでも積っていると解してさしつかえないとしている。しかし、こういう点についても、万葉集のもとの形のように「降りける」ならば矛盾がないわけである。  この歌に関する限り、どちらから観ても新古今集転載作は改悪になっていて、弁護の余地はない。田安宗武(一七七一年没)は、「国歌八論余言」で語法についてくわしく論じている。「目前の景色」を詠んだ歌だから「ふりける」とよむべきであった。「ふりつつ」と言えば、また他に意を含んでいるようで浅くない。「げに意余りて、詞《ことば》足らざることとなりぬ」と言い、さらに「白妙の」は「特に特に」悪い。もとの歌の「真白にぞ」ならば、雪の色を言っているのだということは明瞭である。しかし「白妙の」になると、富士山の色がもともと白いというふうにきこえる。どうして、富士山の山そのものが白いことがあるものか。「この歌は、いとめでたき歌なれど、後人なほしたれば、いといとあしうなりぬ」と書いている。荷田在満も「国歌八論再論」で、右の宗武説に賛成しつつ「白妙の」についてさらにくわしく分析している。 [#1字下げ] 山部赤人[#「山部赤人」はゴシック体] 生没年未詳。伝記についてもくわしくはわからない。奈良時代のひと。聖武天皇にしたがって紀伊や吉野など各地を旅しており、人麿と同じように宮廷歌人であったらしい。駿河や下総、播磨などにも官吏として旅をし、歌をよんだ。官位はひじょうに低いものであったろう。古くから人麿とともに「山柿《さんし》の門」といわれ、しばしば流動の人麿、浄勁《じようけい》の赤人と並称される。「人麿は赤人がかみに立たむこと難《かた》く、赤人は人麿がしもに立たむことかたくなむありける」と、古今集序で言われている。自然を詠んだ歌にすぐれ、その観照的で清澄な歌境は、たとえば、近代になっても島木赤彦らの作品や歌論に深い影響をあたえている。 〈5〉猿丸大夫《さるまるたゆう》 [#5字下げ]古今集 巻四・秋  これさだのみこの家の歌合《うたあわせ》のうた [#1字下げ]おくやまに 紅葉《もみじ》ふみ分け なく鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき  散ったもみじの葉を踏みしだいて、奥山に鳴く鹿の声が遠くきこえてくる時になった。ああ、秋はもの悲しい季節だ。  おくやまに、は「なく鹿」につづくか、「声きく時」にかかるかで諸説がある。本居宣長は後者、金子|元臣《もとおみ》(一九四四年没)は前者。宣長の解だと人間も山奥にいることになり、元臣の解だと人間は人里にいて遠い鹿の声をきいているわけである。私は元臣説をとる。人間も山奥にいることになるとさらに、紅葉ふみ分けも二様にかんがえなくてはならぬことになる。つまり、ふみ分けるのは鹿なのか、人間なのか。これについても古くから両説あり、真淵・宣長は鹿がふみ分けるとし、在満は人がふみ分けるとし、契沖は鹿・人ともにふみ分けるとかんがえた。現代の註釈書も、鹿が紅葉をふみ分けて鳴くのを、じぶんも山奥にいてきくというふうに解しているものが多い。しかしこの歌は、鹿の声がかなり遠くからきこえてくるときの感情であろう。奥山といっても、人里からそれほど離れた深山幽谷とかんがえることはなかろう。さして高くない奈良か京都あたりの山の、山ふところで鳴く鹿の声が山ひだに反響して、夜ふけの人里まできこえてくる。そこで「秋はかなしき」という実感がわく。鹿の住む山奥まで入りこんでしまったら、悲しいどころか恐ろしくなるだろう。時ぞ、のところは意味がそこで終止するのではなくて、「かなしき」にかかるとする説もある。しかし、四句切れの歌と観ても、結句は安定してもちこたえている。  古今集では、これさだ(是貞)家の歌合の歌と題しているが、作者は、よみ人しらずである。しかし異本では「題しらず」となっているもの多く、その方が正しいらしいという。 [#1字下げ] 猿丸大夫[#「猿丸大夫」はゴシック体] 三十六歌仙(一条天皇の時、藤原|公任《きんとう》が選んだという)のひとりで、元明天皇のころの人といい、元慶《がんぎよう》年間(八七七─八八四)のひとともいうが、生没年伝記ともに不詳。天智天皇の皇子|施基皇子《しきのみこ》とか、聖徳太子の孫|弓削王《ゆげのおおきみ》の別名とか諸説があるが、伝承上の人物とする説が強い。その作品も『猿丸大夫集』にあつめられている歌はほとんど読人知らずのものばかりであり、勅撰集にも一首もはいっていない。猿丸大夫の名は『古今和歌集』真名《まな》序にみえ、鴨長明『方丈記』には近江の田上川にその墓があると記されているがはっきりしない。長野や富山、神戸および京都の周辺には、猿丸の子孫とか屋敷跡とか称するものがある。 〈6〉中納言家持《ちゆうなごんやかもち》 [#5字下げ]新古今集 巻六・冬  題しらず [#1字下げ]かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきをみれば 夜ぞふけにける  七夕の夜 鵲《かささぎ》が天の川にかけるといわれる橋のように美しい地上の橋に霜が降りて真白なのをみると、夜のふけた思いがせまる。  かささぎのわたせる橋、は中国の七夕伝説で、その夜カササギが羽を並べて天の川に橋を渡し彦星を渡らせると言われる。ただしこの橋を宮中の階段《きだはし》と見たてる説は真淵の『百人一首初学《ひやくにんいつしゆしよがく》』いらいの説であるが、北村季吟の『拾穂抄』などは普通の地上の橋とかんがえ、契沖や戸田茂睡《とだもすい》(一七〇六年没)は天上の空想上の橋とかんがえ、香川|景樹《かげき》(一八四三年没)その他は霜の白さに重点をおいて橋の存在を無視する説である。私は、季吟説がすぐれているとおもう。作者が大伴《おおともの》家持であるかは疑問の残されているところで、『家持集』には入っているが(この集では、結句「夜はふけにけり」である)、万葉集にはない。家持作でないにしても、万葉集時代の歌人の作としてみれば、宮廷の階段にむりに関係つけてよむよりは、ふつうの橋の姿をよんだとみることの方がしぜんである。  この作品のすぐれているところは夏の風物をとって冬の季に生かし、白い霜とのとりあわせで幻想的な美をつくりあげたことにある。毒舌家の正岡子規もこの歌は上手に嘘をついているから面白いと、「五たび歌よみに与ふる書」のなかで言っている。萩原朔太郎の『恋愛名歌集』での批評は、この作品をローマ字に書きなおしてみて、その音韻効果をつぎのように説明している。 「この歌を読むと不思議に寒い感じがして、霜に更ける夜天の冷気が身にしみてくる。その効果はもちろん想の修辞にもよるけれども、声調がこれに和して寒い音象を強くあたえる為である。即ちこの歌の音韻構成を分解すれば、主としてKとSとの子音重韻で作られて居る。そして此等の歯音や唇音やは、それ自身冷たく寒い感じをあたえるからだ」。  芭蕉の批評はもっとも特徴的で、これはかささぎの橋の白に対照させて夜の暗さを詠んでいるのだという説が「くろさうし」(黒冊子)に記録されている。 [#1字下げ] 中納言家持[#「中納言家持」はゴシック体](?─七八五) 大伴家持。父は大伴旅人。旅人晩年に妾の子として生れた。はじめ奈良で官吏生活を送り、のち諸国の官を歴任して延暦《えんりやく》三年(七八四)持節征東将軍《じせつせいとうしようぐん》になった。その間延暦元年|氷上川継《ひかみのかわつぐ》の謀叛に関係ありという理由で官位を奪われた。当時大伴一族は、新興勢力である藤原氏から絶えず圧迫されていて、その政治的陰謀は家持にもおよんでいたのである。家持の没した延暦四年、藤原種継暗殺事件では、大伴一族の主要人物はことごとく処分され、家持も死後二十日、遺骨のままその子永主とともに隠岐島に流され官位を剥奪された。和歌は二十歳代からつくり、初期の作品は模倣もみえるが、のちしだいに独自の歌境をひらき、とくに自然観照の歌にすぐれ、繊細幽情の表現に特徴がある。『万葉集』の編纂にも力をつくし、歌数は集中もっとも多い。万葉集末期の代表的歌人で、三十六歌仙のひとり。 〈7〉安倍仲麿《あべのなかまろ》 [#5字下げ]古今集 巻九・羇旅《きりよ》  もろこしにて月を見てよみける [#1字下げ]あまの原 ふりさけみれば かすがなる 三笠の山に いでし月かも  目路《めじ》はるかに大空を眺めると、そこにうかんでいる月は、遥かに過ぎ去った日、故国の三笠山に出ていた、あのなつかしい月なのだな。  あまの原、は天の原で、空の意。ふりさけ、の「ふり」は意味をつよめる接頭語、「さけ」は離《さ》くまたは放《さ》くの連用形。ふりさけみる、は見はるかす姿。かすが、は今の奈良市。  古今集には長文の左註(本文の左側につける註)がついている。昔仲麿を唐の国へ留学生として派遣した。永年帰って来なかったが、改めて派遣されたものと連れだって帰途についた。途中明州というところの海岸で、中国の先輩友人たちが送別会をしてくれた時、夜になって月が美しく出たから、それを見てよんだ歌だ、とその註で解説している。紀貫之《きのつらゆき》の『土佐日記』にもこの話が出てくる。ただし、頭の初句は「青海原《あおうなばら》」である。留学生として行ったのが十六歳のときで、この歌をつくった時はそれから三十五年のちと言われる。仲麿の、このときの帰国の旅はけっきょく船の難破でまた中国へ帰り、その地で生を終ったと伝えられているが、香川景樹の『百首異見《ひやくしゆいけん》』では、この歌について、送別会の酒の席での作とはかんがえられぬから、なにかの折に望郷の思いをうたったものとみるべきだという説。中島悦次氏も「百人一首歌出典私考」で景樹説に同調しつつ、『土佐日記』の「青海原……」の形は口伝えによって日本に伝えられる間に変化したもので、もとの形は「天の原……」であっただろうとかんがえ、万葉集の「天の原 ふりさけ見れば 白真弓《しらまゆみ》 張りて懸《か》けたり 夜路は吉《よ》けむ」など例歌のあることをあげている。仲麿の歌は、この一首しか伝わっていない。この作者まで七人は奈良朝歌人である。 [#1字下げ] 安倍仲麿[#「安倍仲麿」はゴシック体](七〇一─七七〇) |中務 大輔《なかつかさのたいふ》船守の子といわれる。十六歳で遣唐留学生となり、翌年|吉備真備《きびのまさび》とともに渡唐した。古代国家の隆盛期、有名な玄宗皇帝の時代である。名を朝《ちよう》(晁)衡《こう》とあらため、左補闕《さほけつ》として玄宗に仕え、のち粛宗・代宗にもつかえて安南都護その他の大官をつとめた。学才非凡といわれ、李白・王維・儲光儀ら著名な詩人と親しく交遊している。七五三年、惜しまれながら帰国の途についたが、海上、暴風にあって安南に漂着、ついに帰国を断念し、ふたたび唐朝につかえた。遭難の報を受けて李白は、「日本ノ晁卿《ちようけい》帝都ヲ辞シ 片帆百里|蓬壺《ほうこ》ヲ繞《めぐ》ル 明月帰ラズ碧海ニ沈ミ 白雲秋色|蒼梧《そうご》ニ満ツ」と詠じている。宝亀元年唐土に没した。 〈8〉喜撰法師《きせんほうし》 [#5字下げ]古今集 巻十八・雑  題しらず [#1字下げ]わが庵《いお》は 都《みやこ》のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はい|ふ《う》なり  私の庵は、都の東南の宇治山のほとりに在って、私はこのように平然と住み暮しているのだが、世間の人々はこの世を憂《う》しとして住むところだなどと言っている。  たつみ、は辰巳《たつみ》で、十二支を方位にあてて東南をさす。しかぞすむ、は然《しか》ぞ住むである。しか、に「鹿」の意を掛ける古い解もあるが、現在は一般に採らない。すむ、は「澄む」に掛けていると説く解もある。うぢ山、は宇治山であるが、「憂《う》し」に掛けている。  上の句と下の句を対立させて、世を憂しとして住む所と世間の人は言うが、私はそのうぢ山にこのように楽しく住んでいると解する説が多いが、真淵や景樹は、世の人の言うようにこの憂き世にこころをわずらわせながら住んでいると解している。平安朝期の世相や思潮に対する仏教者の思想傾向をかんがえあわせると、真淵らの解の方が正しいようにも思われる。前のように解すれば、いくらか楽天的にアイロニカルな調子にもなり、その意味で知的な発想が見られるが、後のように解すれば隠遁者《いんとんしや》のペシミスティックな思想・感情がモティーフになる。もっとも、喜撰法師という人物は、歌舞伎所作事の「六歌仙」では、祇園の桜の下で茶汲女を相手に洒脱《しやだつ》にユーモラスなエロティシズムを程よく発揮しながら、賑やかなチョボクレから住吉踊りまで演じながらあざやかに立ち去ってゆくことになっている。あんがいおもしろい坊主であったのかもしれない。伝も作品も正確には伝わらぬが、六歌仙のひとりと目されているだけに、この作品は掛詞《かけことば》の技巧などもイヤ昧でなく、それなりの思想内容ともいうべきものも把握されていて、印象にのこる歌である。 [#1字下げ] 喜撰法師[#「喜撰法師」はゴシック体] 生没年・伝記不詳。基(喜)泉・窺詮(仙)といい、喜撰・僖※[#「言+巽」、unicode8B54]とも書く。出家して醍醐山《だいごさん》にはいり、のち宇治山に隠れて仙人となり、雲に乗って飛び去ったなどとつたえられる伝説的なひとでその生涯は不明。山城国|乙訓《おとくに》郡のひととか、桓武天皇の子孫とかいわれるが確かでない。古今集序には「詠める歌多く聞えねば、かれこれをかよはしてよく知らず」とあり、すでにこのころから多くはわからなかったようである。六歌仙のひとりにあげられ数首の作品が知られるが、確かなのは「わが庵は……」一首のみである。|役 行者《えんのぎようじや》系統の道術士、民間の巡遊芸人とする説もある。 〈9〉小野小町《おののこまち》 [#5字下げ]古今集 巻二・春  題しらず [#1字下げ]花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに  長雨にうたれて桜の花の色はむなしく褪《あ》せてしまった。私の身のうえにも、生きてゆくためのわずらわしいことのくさぐさが降りそそぎ、桜の花盛りを眺めている暇もなかったが、そう言えば私の容色もあの花のようにいつの間にかおとろえてしまった。  花のいろ、は桜の花。じぶんの容色の意も含めている。うつりにけりな、は「に」が完了、「けり」は詠歎の助動詞、「な」が詠歎の助詞である。いたづらに、はむなしくの意で、「うつりにけりな」へかかるのが倒置されたかたち。世にふる、は生きてゆく過程の意であるが、同時に男女の語らいの意を含んでいる。ふる、は「経る」と「降る」に掛けながら、同時に下の、ながめ、に「眺め」と「長雨」の両意を托し、長雨の降る姿をも通わせている。掛詞の技術をよくつかいこなして、三十一文字のなかにかなり複雑な内容をうたいこむことに成功している。  定家はこの歌をかなり高く評価していたらしく、『定家十体』の「幽玄様」の項にこの歌を例としてあげている。古今集序では彼女の作風を「あはれなるやうにて強からず」とし、真名序では、「艶にして気力無し、病婦の花粉を著けたるが如し」と、かなり批判的である。萩原朔太郎は『恋愛名歌集』にこの歌と「侘びぬれば 身を浮草の 根を絶えて さそふ水あらば 往《い》なむとぞ思ふ」の二首をあげ、「媚《こび》あまって情熱足らず、嫋々《じようじよう》の姿態があって、しかも冷たく理智的である。こうした性格の女であるから、生涯恋愛遊戯をして真の恋愛を知らなかった」と、これもかなり点数がカラい。  彼女は、絶世の美人であったという伝説によって文学的にはソンをしているらしいふしもあるが、「思ひつつ ぬればや人の みえつらん 夢としりせば さめざらましを」(古今集 巻十二)などは、「ゆめと知りせばなまなかに/さめざらましを世に出でて/うらわかぐさのうらわかみ/……」とうたった、島崎藤村の詩「昼の夢」などで新しいいのちをよみがえらせている。 [#1字下げ] 小野小町[#「小野小町」はゴシック体] 生没年・伝記ともに不明。小野|篁《たかむら》の孫で、父は出羽国の郡司小野良真とする説のほか、小町は三条町・三国町と同じく、宮中の局町に住んだ采女《うねめ》の通称で、特定個人ではなく多くの小町がいたとする説、また小野良実が大和守となって赴任の途中、美少女にあい、これを養子としたとする説など、諸説がある。遍昭(〈12〉の作者)・業平(〈17〉の作者)・康秀(〈22〉の作者)らと歌を贈答しているところから、文徳天皇から清和天皇ころのひとであろうといわれる。業平とともに六歌仙時代の代表歌人にあげられ、勅撰集にはいる歌は六十二首におよぶ。情熱的で優艶な作風をしめし、恋の歌が多い。ちなみに彼女の人間像・伝記については、絶世の美女であったが晩年は乞食、美貌で薄幸の漂泊歌人、零落した公卿の娘、色好みの遊女など、さまざまにいいつたえられている。またその生涯は後世、御伽草子・謡曲・浄瑠璃・歌舞伎・舞踊など多くのジャンルにとりあつかわれてもいる。植木学「花のいろいろ」(『文學界』昭和四十年九月号)は、小野小町をあつかった考証的伝記小説である。 〈10〉蝉《せみ》 丸《まる》 [#5字下げ]後撰集 巻十五・雑  逢坂の関に庵室を造りて住侍《すみはべ》りけるに行《いき》かふ人を見て  これやこの 行《ゆ》くも帰るも わかれては しるもしらぬも |あふ《おう》坂の関  これこそが、東へ行く人も西へ帰る人も、知る人も知らぬ人も、別れたり逢《あ》ったりしているという、あの逢坂の関なのだな。  これやこの、「や」は軽い疑いのこころを残す詠歎の助詞で、「これやこの 大和にしては わが恋ふる 紀路《きじ》にありとふ 名に負《お》ふ背《せ》の山」(阿閉皇女《あべのひめみこ》作、万葉集巻一)、「逃げまどふ、焔の底に これやこの わが肉親の 顔をかぞへつ」(土岐善麿)などの用例多く、古くから愛用された語法である。  調子よくはずみのつく詠歎調を第一句にすえて、残り四句を二分して、行く人・帰る人、知る人・知らぬ人が、それぞれに別れたり逢ったりする、逢坂の関というふうにバランスのとれたうたいかたをしているわけである。したがって、意味のうえでは行く人・帰る人が別れ、知る人・知らぬ人が逢うというふうに二分されるのではなく、それらの組がともに別れたり逢ったりするというふうに解するべきである。あふ坂の関、は大津市の南、近江と山城の境の逢坂山の関所。もちろん人に逢うの意を掛けてある。  音韻の重ねかたや、同音のことばの反復の技巧のみならず、一首ぜんたいの組みたてのうえでも往復交錯の印象を与えるように意識的につくられていて、歌のおもしろさになっている。萩原朔太郎は、「これやこの」というせきこんだ調子でうたい出して、「も」の音をいく度も重ねて脚韻し、一句から三句までに子音のKをいくつも響かせて畳んでいる、「こういう歌は明白に『音象詩』と言うべきであり、内容をさながら韻律に融かして表現したので、韻文の修辞として上乗の名歌と言わねばならぬ」と言っている。なお、後撰集の原歌では、三句が「別れつつ」になっている。詞書によれば、作者じしんその地に住んだことが知られる。 [#1字下げ] 蝉 丸[#「蝉 丸」はゴシック体] その生涯はさまざまに伝説化され、諸説があってはっきりしない。『今昔物語』によれば、宇多天皇の皇子|敦実《あつざね》親王の雑色《ぞうしき》(雑役に服した無位の職)といい、『平家物語』および中世以後の語り物では醍醐天皇の第四皇子としているが、いずれも確かでない。盲目で和歌と琵琶《びわ》にすぐれ、逢坂山に草庵を結んで住んでいたとつたえられる。姉の逆髪宮《さかがみのみや》が、盲目のためにすてられた弟の蝉丸をたずねて、逢坂山で琵琶の音をたよりにめぐりあい、お互いの身の不運を歎き語りあうという世阿弥《ぜあみ》の能楽や近松門左衛門の人形浄瑠璃など、その生涯はしばしば脚色されている。蝉丸の名は一説に、蝉の鳴声ににたしぼり出すような声、つまり蝉声《せんせい》・蝉歌でうたう者の意味から名づけられたものだろうという。 〈11〉参議《さんぎ》 篁《たかむら》 [#5字下げ]古今集 巻九・羇旅  おきのくににながされける時に、ふねにのりていでたつとて、京なる人のもとにつかはしける [#1字下げ]わたの原 八十島《やそしま》かけて こぎ出《いで》ぬと 人にはつげよ 蜑《あま》のつりぶね  漁舟の釣りびとたちよ、私はいま海の上をつぎからつぎとたくさんの島をながめながら漕ぎ出して行ったと、都の親しい人びとに伝えてください。  わたの原、は海原。「わた」は海の古語。わだ、と濁るは不可。八十島、はたくさんの島。八十は数の多い有様。かけて、は諸説あり。目にかけて(見て)の意に解するのがもっとも適当で、意味も明瞭である。この時作者は大阪から出帆して、瀬戸内海を通って隠岐への航路をとった。蜑は漁夫。  小野篁は遣唐副使に任ぜられたが乗船のことで不満をもち、任に就かなかったので、承和五年(八三八)隠岐に流された。そのときの歌である。このときの主張は、篁の方に理があったから同情も集まっていたようである。  悲劇的な内容をもった歌であるが、作者のうたいかたは主観的に感傷的にならず、むしろ傍観者のようなうたいぶりをつらぬいたから、おしつけがましさがなく、余韻をのこした。藤原俊成は、『古来風体抄』で、ひとにはつげよと言ったところが「心たぐひなく侍《はべ》る也《なり》」とほめ、北村季吟も「此歌五句ながら皆々哀をふくめり」と言っている。作者が平安朝初期のひとであったということもあろうが、修辞のうえで、掛詞その他の技巧などひとつもつかわず、さすがに体験の悲痛を思わせる。主観的に感傷的な表現になるのをおさえて、見知らぬ漁舟の釣りびとにさえもよびかけないではいられなかった姿は、おのずから作者の孤独感をつたえている。 [#1字下げ] 参議篁[#「参議篁」はゴシック体](八〇二─八五二) 小野篁。岑守《みねもり》の長男として生れ、少年のころは学業を怠り、乗馬にふけったという。のち漢学にはげんで|文章 生《もんじようしよう》となり、諸官を経て参議となった。漢詩文・書道にすぐれ、和歌も非凡で気力ある現実的な歌をつくり、六歌仙にさきだつ代表的歌人といわれる。承和元年遣唐副使となり三年に出発したが、風に遭って還り四年再出発にあたって大使藤原|常嗣《つねつぐ》が、破損した船に篁を乗せようとしたことから仮病をつかって乗船せず、さらに遣唐諷刺の詩文を書いたため、その咎《とが》で官位を剥奪され隠岐島に流された。「わたの原……」はこのときの作といわれる。その性格は狷介《けんかい》で多感、直情的な言動が多く、世に野宰相《やさいしよう》とよばれ野狂といった。勅撰集にはいる歌は十二首。後人の作であるが篁の歌を中心とする歌物語に『篁日記』(『小野篁集』ともいう)がある。 〈12〉僧正遍昭《そうじようへんじよう》 [#5字下げ]古今集 巻十七・雑  五節《ごせち》のまひひめをみてよめる [#1字下げ]あまつ風 雲のかよ|ひ《い》路 吹きとぢよ をとめのすがた しばしとどめ|む《ん》  天空に吹く風よ、雲のなかの通路《かよいじ》を吹き閉《とざ》してしまってくれ。あの少女たちが天上の住み家へ帰ってしまわないようにして、もうしばらく彼女たちを、ここに留めておきたいのだ。  あまつ風、は天の風。「つ」は「の」にあたる古い格助詞。「外《と》つ国」「沖つ風」などとおなじ用法。雲のかよひ路、は雲の往来する通路と解する説もあるが、宣長説に従って雲の中を通って天へ行く道と解するのが適当である。詞書にあるように、五節《ごせち》の舞(陰暦十一月に行なわれる|豊 明節会《とよのあかりのせちえ》の舞)の折に舞姫をみて、彼女らの美しさに魅入られて詠んだという仕掛けの作品である。彼女たちは天女のように美しい。天女ならば雲の通路を通って帰ってゆくはずだが、もうすこしひきとめておきたいという願いから、天つ風に向って注文する(文法上では、「吹きとぢよ」は命令形である)ことになるわけである。三句切れの歌である。  古今集では、作者名を「よしみねのむねさだ」(良岑宗貞)と俗名でしるしている。出家以前の作である。巧みに趣向をこらして、幻想的な美しさをある程度実現はしているが、一言で言えば比喩が大げさすぎる。古今集序が、作者について「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女《おうな》をみて、いたづら心をうごかすがごとし」と批判している。歌舞伎の所作事「六歌仙」では、最初に僧正遍昭が小野小町を口説きにきてみごとに失敗するシーンがつくられている。喜撰といい、遍昭といい、当時から聖職者もなかなか人間的であったというべきか。  異本に、三句「吹きとめよ」、五句「しばし見るべく」となっているものもあり。むろん原作の方がすぐれている。 [#1字下げ] 僧正遍昭[#「僧正遍昭」はゴシック体](八一六─八九〇) 良岑安世《よしみねやすよ》の子で、桓武天皇の孫にあたる。素性《そせい》の父。出家するまでの名は良岑宗貞。仁明天皇の信任を厚く受け、従五位|蔵人頭《くろうどのとう》、左近衛少将となって、良少将とよばれた。美男子であったという。嘉祥三年(八五〇)三月天皇が山城国深草山に葬られた夜、その死を悲しんて比叡山にのぼり、剃髪して遍昭と号した。僧侶として諸国修行ののち雲林院に住み僧正の位となった。また花山に元慶寺《がんぎようじ》を創設して座主《ざす》となり、花山僧正といわれた。軽妙洒脱の人柄で、人びとから深く信頼されたといわれる。和歌は『古今集』以下の勅撰集に三十余首あり、ほかに出家後の行状を歌物語風にした家集『遍昭集』がある。小野小町との贈答歌は『大和物語』や『後撰集』などにみえる。六歌仙のひとり。 〈13〉陽成院《ようぜいいん》 [#5字下げ]後撰集 巻十一・恋  釣殿のみこに遣《つか》はしける [#1字下げ]つくばねの 峯よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる  筑波山の峯から流れおちるわずかな水は、やがて集まってみなの川となるのですが、私の恋もしだいにつもって、今は淵のように深くなってしまいました。  つくばね、は現在の筑波山。峯が、男体・女体に分れていて、そこに源を発する男女川《みなのがわ》は霞ケ浦にそそぐ。恋ぞ、の係りを、「なりぬる」と、連体形でうけている。  詞書にみえる「釣殿のみこ」は、光孝天皇皇女|綏子《やすこ》で、陽成院の後宮になった。恋愛感情を、あふれ深まる水にたとえるのは古くからある常識的な比喩で、この歌も特にとりたてて言うほどの特徴はない。契沖は、万葉集巻十四の「筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水 世にもたゆらに わが思はなくに」によった作ではないかと言っている。もちろん、作者が実際に筑波山を見た経験はなかろうし、筑波山そのものをうたった写実的な歌でもないのだから、どこの山でもどの河や淵でもよいわけである。ただ、「つくばねの峯よりおつるみなの川」で、「つ」「ね」「み」の音を重ねてひびかせる必要から、その山と川の名が都合が好かったわけである。その音韻効果に注意したのは萩原朔太郎で、「全体が序みたいな歌で、想としては無意味極まる空虚な歌だが、調律上の押韻は巧みに出来てる」と言い、こういう歌は「ただ耳だけで聴くべきである」と言っている。木俣《きまた》修氏も、下二句は3・4、3・4の音律で「ゆったりとおおらかに運ばれ」ているところを注意しているが、歌そのものとしては、「常凡の域を脱してはいない」とみている。なお、五句は、後撰集その他では「淵となりける」である。 [#1字下げ] 陽成院[#「陽成院」はゴシック体](八六八─九四九) 第五十七代の天皇。名は貞明《さだあきら》。清和天皇の第一子。母は藤原|長良《ながよし》の女《むすめ》高子、有名な二条の后《きさき》で藤原基経の妹。天皇は蛇に蛙をのませる、犬と猿を戦わせる、はては人に切りつけるなど異常な行動のつづいた病もちであった。十歳のとき即位し、外戚の摂政基経が実権をにぎり政治にあたった。在位八年、光孝天皇に譲位し、陽成院へ隠退させられた。『神皇正統記』には「此天皇性悪ニシテ人主ノ器《うつわ》ニタラズミエ給《たまい》ケレバ、摂政ナゲキテ廃立《はいりゅう》ノコトヲサダメラレニケリ」とある。歌人としての名はなく、勅撰集には「筑波嶺の……」の歌以外一首もみえない。退位後も、琴の絃で女を縛って水に沈めるなど依然として狂暴な行動は絶えなかった。 〈14〉河原左大臣《かわらのさだいじん》 [#5字下げ]古今集 第十四・恋  題しらず [#1字下げ]みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆ|ゑ《え》に みだれそめにし 我ならなくに  私のこころは、陸奥《みちのく》のしのぶのもじずり模様のように乱れはじめてしまったが、それというのもひたすらにあなたのためなのですよ。  みちのくのしのぶもぢずり、は福島県|信夫《しのぶ》郡に産する摺り染めで、忍草の色素でもじれた模様に染めたものを言うとの説があるが、他にも諸説あり、解釈不安定。芭蕉の『奥の細道』にもしのぶもぢ摺の石を尋ねることが出てくる。宣長の『玉勝間』にも「しのぶもぢずり」の章がある。みちのく、は今の東北地方の東の地域、宮城・岩手・青森の諸県までを含み、陸奥《むつ》ともいう。修辞的には「しのぶ」に掛けて「みちのく」と言っている。そしてこの第二句までの全体が「みだれ」をひき出すための序である。みだれそめにし、は「乱れ初《ぞ》め」に、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」のあとへ、過去の助動詞「き」の連体形「し」が重なったもの。したがって「みだれそめにし我」とつづく。「そめ」には「染め」の意も含ませている。我ならなくに、は我にあらぬに、の意になる。「みだれそめにし」、と「ならなくに」はともに、「我」を主語とした述語である。  この歌は、文法的にきわめて複雑で、直訳ふうに散文化することはほとんど不可能である。前述の訳は、意訳のようなものである。下三句の語法などは、極めて技巧的にまがりくねって、行ったりもどったりするわけである。古今集でのもとの歌は四句が、「乱れむと思ふ」となっている。じつは私はだいぶん永い間、百人一首の形のものも四句で切って、じぶん勝手に逆の意味に解していたことがある。みちのくの、しのぶもじずりよ、お前はいったい、誰のために乱れはじめたのだ。まさかこのおれのためではあるまいな、というふうに。今は左大臣となった老人が、青春時代のどこかの田舎の少女との無責任なたわむれを思いだして、気がるにうたい捨てたというところかとおもっていた。文法的に理づめにしてゆくと筋が通らなくなるし、こういう発想は平安朝期好みでもないから、これは全く私の思いちがいであった。けれども、「誰ゆゑに」が疑問の問いかけの形だから、読者は何となく解答を求めたくなる。のみならず、歌のテーマとしては、私の解の方がずっと良さそうだ。どうもやはり独断にわれながらみれんが残る。「みだれそめにし」が「みだれそめにき」となっていれば、終止形だから私の解のようになるのだが、一字のちがいではあっても、「き」となった写本・異本は存在しないから問題にならぬ。けれども、「乱れむと思ふ」の形は前述のように存在し、この形は「思ふ」が連体形でもあるが、終止形でもあるから、後者に解すれば、私の解も成り立つということにならないだろうか? [#1字下げ] 河原左大臣[#「河原左大臣」はゴシック体](八二二─八九五) 源《みなもとの》 融《とおる》のこと。嵯峨《さが》天皇の子で、仁明《にんみよう》天皇の養子となり臣籍にくだって、源の姓となった。官位は中納言、大納言などを経て、従一位左大臣まですすんだ。その間元慶八年(八八四)陽成天皇(〈13〉の作者)が狂病で退位したとき、かれは身うちとしてその継承を望んだが、摂政藤原基経から源姓の臣籍を理由に拒絶された。東六条に陸奥塩釜の勝景をまねた宏大な邸宅、河原院をつくりそこに住んだので、河原左大臣とよばれる。楼閣、庭園など贅沢の限りをつくし、ことに難波《なにわ》の浦から毎月海水を運ばせ、日々塩を焼いて風流を楽しむなど、その生活は豪奢をきわめたという。古今集にみえる紀貫之の「君まさで 煙絶えにし 塩がまの うら淋しくも 見えわたるかな」は、融の没後、河原院の跡をたずねて詠んだもの。恵慶法師作の「〈47〉八重葎しげれるやどの……」には河原左大臣死後百年ちかく経ったその邸の荒廃の様がうたわれている。 〈15〉光孝天皇《こうこうてんのう》 [#5字下げ]古今集 巻一・春  仁和のみかど、みこにおましましける時に、人にわかなたまひける御うた [#1字下げ]君がため 春の野に出《いで》て わか菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ  あなたにさしあげるために春の野に出て若菜をつむとき、私のきものの袖に雪が降りかかるのです。  君、は天皇ではなくふつうのひとである。衣手、ふりつつ、はともに〈1〉の天智天皇の歌とおなじつかいかたである。表現、語法ともに平易で、百人一首のなかでもっとも素直なくせのないうたいぶりの作品のひとつ。萩原朔太郎は『恋愛名歌集』で、万葉集に出ている歌とかんちがいして説明しているが、歌柄としては古今調であるよりは万葉調にちかい。「明日《あす》よりは 春菜採《わかなつ》まむと 標《し》めし野に 昨日《きのう》も今日《きよう》も 雪は降りつつ」(万葉集・巻八、山部赤人)が思いあわされる。  詞書は、仁和《にんな》の帝《みかど》(年号でよんでいるわけで、光孝天皇のこと)が親王の時代に、ひとに若菜を与えるときに附けた歌ということである。歌ではじぶんが若菜をつんだようにうたっているが、これは香川景樹説のように、じぶんで摘んだというわけではあるまい。佐佐木信綱の『百人一首講義』もおなじかんがえかたである。  天皇の歌だから、古くからもったいぶって大げさな解釈がいろいろついている。細川幽斎などは、皇族がみずから辛苦して人民の苦労を思いやった歌で、治世撫民の君徳の表現されたものと解して、賀茂真淵らにたしなめられている。春といっても、ここは正月で、七日の七草であるから、現代ふうに言えば、男性が七草なずなを女性に贈るというのはすこし不自然だが、この時代にはそういうこともありえたのではないか。萩原朔太郎も、恋人におくった歌とみなくては歌の情趣が生きてこないとみている。 [#1字下げ] 光孝天皇[#「光孝天皇」はゴシック体](八三〇─八八七) 第五十八代の天皇。名は時康。仁明天皇の第三子。小松殿で生れ、そこで育ったので小松の帝といい、年号によって仁和の帝ともいう。はじめ常陸《ひたち》太守、のち|中務 卿《なかつかさきよう》・太宰権帥《だざいのごんのそつ》・式部卿などに任じられ、元慶八年(八八四)二月陽成天皇の後をうけ、藤原基経の擁立により即位した。以後一切の政治は、まず事前に基経によって内閲され、奏上されることになる。いわゆる関白のはじめである。在位三年余、五十八歳没。和歌は『古今和歌集』以下の勅撰集に十四首がみえ、『仁和御集』がある。 〈16〉中納言行平《ちゆうなごんゆきひら》 [#5字下げ]古今集 巻八・離別  題しらず [#1字下げ]立わかれ いなばの山の 峯にお|ふ《う》る まつとしきかば 今帰りこ|む《ん》  私は今あなたに別れて因幡《いなば》の国へ行くのですが、その国の稲羽山の峯に生えている松にちなんで、あなたが待っていてくださるというのならすぐにまた帰って来ましょう。  いなばの山、は因幡の国(鳥取県)稲羽山。「去《い》なば」の意も掛けている。作者が斉衡《さいこう》二年(八五五)因幡守《いなばのかみ》に任ぜられて京から出発のときの歌。まつ、は松と待つを掛けている。稲羽山は松山として有名。峯におふる、は峯に生《お》ふるで、「生ふる」は「生ふ」の連体形だから「松」へつづく。  俊成は『古来風体抄』で、「此歌あまりにぞくさりすぎたれど、姿おかしきなり」と言っている。「あまりにぞくさりすぎ」の意味はよくわからぬが、ほめことばでないことは確実であろう。おなじ作者の歌としてはむしろ、同集巻十八の「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩垂れつつ わぶとこたへよ」などの方が「姿おかし」と言うべきであろう。特定のひとりのひとを対象としてうたったものではなく、みなさんが待っていて下さるならば、というふうに見送りの人びと大勢へのこしたあいさつのようなものともみえる。九鬼周造は「日本詩の押韻」で人麿や、躬恒《みつね》や、芭蕉の作品などとともに掛詞の例としてこの歌もあげ、「掛詞はいわば止揚された韻である」と言い、萩原朔太郎も『恋愛名歌集』で、「音律に屈折と変化があり、朗吟して飽きない秀歌である」と、もっぱら音響効果をほめている。謡曲「松風」のフィナーレにもつかわれている。丸岡明の小説「靴音」にはこの「松風」を踊る現代の青年能役者の悩みがあつかわれている。私の郷里では、猫が行方不明になったとき、この歌を三度となえると無事にもどってくるという言い伝えがある。 [#1字下げ] 中納言行平[#「中納言行平」はゴシック体](八一八─八九三) 父は阿保《あぼ》親王(平城天皇の子)。臣籍にはいって在原の姓となった。業平の異母兄である。因幡守・蔵人頭・太宰権帥などを経て中納言となり、民部卿を兼ねたが、仁和三年(八八七)請うて辞任した。学問を好み、とくに経済の才があったという。弟業平と同じく情熱的な人物であったらしい。一説に文徳《もんとく》天皇のころ事情あって、須磨に流されたといわれ、『源氏物語』の須磨の巻は、この行平がモデルであるという。この話は謡曲や御伽草子の『松風村雨』にも、かれが須磨の浦で、松風・村雨という二人の若い海人《あま》を愛した物語としてつたえられている。現存最古の歌合といわれる『在民部卿家歌合』は、仁和元年行平の家で催されたもの。勅撰集にはいった歌は十一首。 〈17〉在原業平朝臣《ありわらのなりひらのあそん》 [#5字下げ]古今集 巻五・秋  二条の后《きさき》の春宮《とうぐう》のみやす所と申しける時に、御屏風《おびようぶ》に竜田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる [#1字下げ]ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは  竜田川にさかんに紅葉の流れているのをみると、水をくくり染めにしたようにみえる。このようなことは、いろいろ奇妙なことのあった神代にも、あったためしを聞いたことがない。  ちはやぶる、は「神」の枕詞。「ぶる」と濁ってよむべきことは契沖の考証があり、宣長の『古今和歌集|遠鏡《とおかがみ》』にも特に濁ってよむよう註記している。竜田川、は奈良県生駒郡を流れる川、上流は生駒川。ただし、宣長の『玉勝間』における立田川の説によれば、大和の立田は山で、川はあることなしと言っている。〈69〉の解説参照。からくれなゐ、は深紅色。「から」ははじめ唐・韓から渡来のものに冠した接頭語。くくる、は「括る」で、「潜《くぐ》る」ではない。くくり染め(絞り染め)の技巧で、「纐纈」の文字をあてている。『遠鏡』はここのところを「とんと紅鹿子《べにかのこ》紅しぼりと見えるわい」とくだいて説明している。ただし、宗祇、季吟、契沖らは「くぐる」と訓《よ》んでいて、真淵が「くくる」説をとなえ、宣長がほとんど決定的に論証した。  古今集の詞書は、二条の后(藤原高子)が、東宮の御息所《みやすどころ》と言われていた頃、屏風に書かれた、竜田川に紅葉の流れる絵を題にしてつくった歌というわけである。素性法師の一首とともに録されているが、業平の作品の方が達者である。典型的な二句切れの歌で、この形式の作品を散文に訳す時には、下句から逆に解してゆくとわかりやすい。現実に風景をみているわけではないから、観念的に材料を処理する技巧と、思考の流れと転換の操作に作者の腕の見せどころがあるわけである。川に紅葉の流れるのを、くくり染めに見立てた発想は、作者も得意であっただろう。斎藤茂吉も「在原業平論」でこの歌に言及し、「一首としては何処かに渋い声調があっていい。また枕詞などを用いて一首が割合に単純に出来ているのもいい」と言っている。 [#1字下げ] 在原業平朝臣[#「在原業平朝臣」はゴシック体](八二五─八八〇) 父は阿保親王(平城天皇の子)、母は伊登《いと》内親王(桓武天皇の子)。行平の異母弟。天長三年(八二六)在原の姓となり、臣籍にはいった。別称は在五中将。在は在原氏、五は在原氏の五男、中将は近衛中将の意である。官は、右馬頭《うまのかみ》・右近中将などを経て、元慶《がんぎよう》三年(八七九)蔵人頭。美男で天才肌の人物であったが、時代の趨勢は藤原氏にあり、官位の昇進など政治的にはあまりめぐまれなかった。性格は多感で奔放、伊勢|斎宮《さいぐう》をはじめ多くの女性との多彩な恋愛がつたわるが、入内《じゆだい》以前の高子(藤原長良の子、二条の后)との関係は、かれの官位昇進の遅れた原因であったろうといわれる。のちに東国に下ったのも、この密事が露見したためという。このような実話と虚構をたくみに織りなす業平一代記が『伊勢物語』であり、後世その美貌と恋愛は、謡曲や狂言、歌舞伎などにも数多く作品化された。和歌は、古今集の序に「心あまりてことば足らず」と評され、情熱的で詠歎が強く余情をふくんだものが多い。作品は『古今集』に三十首、『後撰集』以下に五十七首のほか、伊勢物語のもとをなす『業平朝臣集』がある。六歌仙時代随一の歌人。須田作次氏に、小説「異本在原業平」がある。 〈18〉藤原敏行朝臣《ふじわらのとしゆきのあそん》 [#5字下げ]古今集 巻十二・恋  寛平《かんぺい》の御時《おんとき》きさいの宮の歌合のうた [#1字下げ]すみのえの きしによる浪 よるさ|へ《え》や 夢のかよ|ひ《い》ぢ 人めよくら|む《ん》  昼間、恋人に逢うために人目をはばかるのはやむをえぬことだが、夢で逢おうとおもう夜にさえも、私は夢路でおどおどと人目を避けて、思うように彼女に逢えないのはどうしたことなのであろうか。住の江の岸にうちよせる夜の波を見てさえも、それが歎かれる。  すみのえ、は大阪の住吉海岸。よる浪、は寄る波であるが、つぎの「よる」を引き出すための効果としてつかわれている。よるさへや、は夜までという程の意。「や」は疑問の助詞で、末尾の「らむ」と係結びをなす。人め、は他人の眼。よくらむ、は避けるのだろうかの意。「よく」と清《す》んで読むのが一般的である(『遠鏡』も「清」と註している)が、『日本古典文学大系』本では、「よぐ」と濁って表記している。  寛平は宇多天皇の時代の年号。この歌合は皇后藤原温子の主催とも、光孝天皇の皇后班子(宇多天皇の母)主催とも言われる。「恋ひわびて うちぬるなかに 行きかよふ 夢のただぢは うつつならなむ」と、二首が古今集に録されている。音律の美しさで賞讃される歌で、久松潜一氏も、『八代集選釈』で、「想としては唯々これだけのことで、大した面白味もないが、その調律がいかにも巧みである」と評し、「よ」「る」「ら」などの音の呼応に注目している。金子元臣も『古今集評釈』で、「白玉の盤上を走るに似ている」と評している。上二句、すみのえのきしによる浪が、つぎの「よる」を呼び出すための音律上の効果のためにしか役立っていないので、そのあたりに「想として」の空虚感が残る。「あし曳の山どりの尾のしだり尾の……」などの徹底した修辞主義にくらべても中途半端ということになるだろう。 [#1字下げ] 藤原敏行朝臣[#「藤原敏行朝臣」はゴシック体](?─九〇一?) 父は陸奥出羽按察使《むつでわのあぜち》富士麿。母は紀名虎《きのなとら》の女《むすめ》。生年未詳。没年については、延喜《えんぎ》七年(九〇七)説もあるが、延喜五年以前であることが明らかにされ、若死にであったろうといわれる。清和より陽成・光孝・宇多・醍醐の五朝に仕え、官位は大内記《だいないき》、蔵人頭などを経て、従四位上|右兵衛督《うひようえのかみ》までになっている。能書家として知られ、閻魔《えんま》の庁で法華経《ほけきよう》浄写の願を立てたため生れ返ったとか、村上天皇が小野道風に「古今の妙筆は誰をか最上とする」と問うたのに対し、道風は、空海と並ぶものとして敏行をあげたなど、能書家としてのかれに関する逸話は多い。歌人としては三十六歌仙のひとりに数えられ、古今集の「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」が有名。『古今集』以下の勅撰集に三十余首とられ、ほかに『敏行朝臣集』もある。 〈19〉伊《い》 勢《せ》 [#5字下げ]新古今集 巻十一・恋  題不知《だいしらず》 [#1字下げ]難波潟《なにわがた》 みじかき蘆《あし》の ふしの間も あ|は《わ》で此世《このよ》を すぐしてよとや  私はあなたのことをこんなにひたすらに思いつめているのに、あなたは難波の潟に生えている蘆の節《ふし》の間ほどのわずかな時さえも逢って下さろうとしないでこの世を過ごし果てよと言われるのですか。  難波潟、は今の大阪湾の一部、みじかき、はもちろん「蘆」にかかるのではなく「節の間」にかかる。すぐしてよ、過ごせの意。「てよ」は完了の助動詞「つ」の命令形。とや、は「と言うのか?」の意。「や」は疑問の助詞で、「とや言ふ」と係結びになるのを略した形。  難波潟という広い自然のイメージを冒頭にあたえて、しだいに点景を細かくしながら畳みかけてきて、結句で強烈に主観的な抗議になるところが、この歌の生命である。幽斎や真淵は、恋人のつれなさを恨んでひとりでなげいているというモティーフで理解しているが、景樹は相手に「さしむけてつよく言へる」歌としている。『伊勢集』に収録されているものには「秋の頃うたての人の物言ひけるに」と詞書のついている連作であるところからみると、景樹説のように理解する方が発想の実情にちかいだろう。万葉集の相聞《そうもん》のこころが生きている形とみられる。人生そのものを、短かくはかないものと観る思想に、王朝貴族の世界観が反映しているものではあるが、それだからこそ、せめて恋愛において生を充実させるのでなければいよいよむなしいと思う論理が一首の底に生れはじめている。一途な女性の思いが、そういう強さへ反転してゆくものとして観賞しうる作品である。  萩原朔太郎は一首をローマ字に書きあらためてみて、「上三句までは母音AとIとの対比的な反覆押韻で構成され」、「下四句は主として母韻Oを重韻し」、かつ初句の主調母韻Aと、「蘆」「あはで」のAと「三度畳んで対韻して居る」ことに注目している。 [#1字下げ] 伊 勢[#「伊 勢」はゴシック体](八七七?─九三九?) 生没年について正確には不明。伊勢守藤原継蔭の子で、父の官名によって伊勢とよばれた。宇多天皇の后、七条の宮温子につかえ、宇多の寵愛をうけてその子を生んだので、伊勢の御とか、伊勢の御息所《みやすどころ》ともいわれた。これにより前、温子の弟藤原仲平とも契ったが、まもなくそむかれ、仲平の兄時平から求婚されている。美人で、つつましやかなひとであったため多くの男性に愛されたという。後年、宇多天皇の第四子で好色無双といわれる敦慶《あつよし》親王と恋愛し、一女|中務《なかつかさ》を生んだ。晩年についてはあまり明らかでないが古今集に、「飛鳥川 ふちにもあらぬ わが宿も 瀬に(銭)変りゆく ものにぞ有ける」とよんでいる。落魄《らくはく》して、自分の家まで売るにいたったらしい。この歌はそのとき柱に書きつけたものだという。古今集時代の代表的女流歌人で、家集に『伊勢集』があり、勅撰集にはおよそ百八十首がとられている。三十六歌仙のひとり。貫之・躬恒などの歌人と並び称された。 〈20〉元良親王《もとよししんのう》 [#5字下げ]後撰集 巻十三・恋  事いできて後に京極御息所《きようごくみやすどころ》につかはしける [#1字下げ]わびぬれば いまはたおなじ なに|は《わ》なる みをつくしても |逢は《あわ》むとぞ思|ふ《う》  あなたとの恋愛のことがあらわれてしまってわびしくせつない思いをしているのですが、今はもうどうなろうとおなじことですから、命をかけてもあなたにお逢いしたいとおもいます。難波の海の澪標《みおつくし》を見てさえも、そのようなことがおもわれるのです。  詞書に言う、京極の御息所、は藤原時平の女|褒子《やすこ》、宇多天皇に寵せられた。元良親王については『大日本史』に「甚だ色を好む」とあるように、乱脈な恋愛関係があったが、京極御息所とも通じていて、それが発覚して、憂鬱な思いをしていたときの心情をうたったものである。いまはた、は今もまたの意。おなじ、については瑣末な解釈があって、難波の「な(名)」につづけて、一度立った浮名は同じの意であるとか、今逢って再び名を立てても同じ名であるとか、古くから説があるが、要するに今はもうどうなろうと同じことだというほどの、恋の破綻者《はたんしや》の必ず陥るデスペレートな、御当人にとってはいくらか感傷的に陶酔的な心情が表現されているわけである。みをつくしても、は難波の海の澪標を、「身を尽し」に掛けている。澪標、は舟の通り路を案内するための水路標識。  作者はドン・ファンでもあったが、それだけに美男子でもあったらしく、『大和物語』にはこの作者についての説話が多い。『元良親王集』には七百六十首の作品が残っているから当時としては多作な方である。この一首は拾遺集にも「題しらず」として収録されている。久松潜一氏は、「今はたおなじ なにはなる」と、「な」音を重ねて畳んで行った所などに、いかにも切迫した苦しい気持がよく現わされている、と評している。 [#1字下げ] 元良親王[#「元良親王」はゴシック体](八九〇─九四三) 父は陽成天皇、母は主殿頭《とのものかみ》藤原遠長のむすめ。三品兵部卿《さんぽんひようぶきよう》まで進み、天慶《てんぎよう》六年、五十四歳て没した。家集に『元良親王御集』があり、女性との贈答歌が多い。『大和物語』などに多くの逸話がつたえられている。『元良親王御集』にも「陽成院の一宮もとよしのみこ、いみじき色このみにおはしければ、世にある女のよしと聞ゆるには、あふにもあはぬにも文やり歌よみつつやり給ふ」とあり、評判で美しい女性と聞けば必ず言いよっていたらしい。兼好の『徒然草』には、元日、元良親王が大極殿で奏賀する声は、鳥羽の作り道まで聞えたと記しているから、相当、声高の男でもあったのだろう。 〈21〉素性法師《そせいほうし》 [#5字下げ]古今集 巻十四・恋  題しらず [#1字下げ]今こ|む《ん》と い|ひ《い》しばかりに なが月の 有明《ありあけ》の月を まち出《いで》つる哉《かな》  あなたが、間もなく行こうとおっしゃったばかりに、秋の長夜を待ちに待って、とうとう有明の月の出るまでむなしく時をすごしてしまったのですよ。  作者は男性であるけれども、女性の立場をとってうたっている。作歌技術のうえに、こういう虚構があらわれたというところに、この時期の方法意識のうえでのひとつの特色と進展がみられるわけである。もっとも、久松潜一氏のように、「男の怨を含んだ述懐」(『八代和歌集選釈』)とする説もある。  なが月、は陰暦九月。有明の月、は十五夜より後を言うが、ここではずいぶん永い時間が経ってようやく月が出るのだから二十日より後の月であろう、と『遠鏡』は註している。まち出《いで》つる哉、はあなたを待っていて、待ちもしない月を出してしまったという言いかたである。歌がるたになった小倉百人一首などでは、ここを「まちいづる」「まちでつる」などと読ませているものが多いが、江戸時代の百人一首などの多くは「まちいでつる」とよんでいる。この語感を、口語散文訳するために多くの註釈書が苦心している。私の訳は、そのニュアンスにこだわらないで意味だけとった。  石田吉貞氏は、『百人一首評解』において、『顕註密勘』という歌論書における、藤原定家じしんの、この歌についての解を紹介している。間もなく来るという人を、数カ月来待って、秋になり、九月の月も有明になってしまったと、定家は解した。北村季吟の『拾穂抄』なども、この定家の解を支持しているが、契沖が、古今集の歌の配列のしかたなどから類推して一夜説をほぼ動かぬ解とし、現代の註釈書はほとんどすべてそれによっている。石田氏も、解釈としては契沖説に賛成しているが、定家の月来説《つきごろせつ》の方が「余情は深」く、旅にでも出たひとを数カ月間待ったとする浪漫的・物語的なみかたは、定家の歌論、文学意識からもうなずくことができるとかんがえている。 [#1字下げ] 素性法師[#「素性法師」はゴシック体] 生没年未詳。古今集や家集によって、貞観《じようがん》(八五九)から延喜(九二三)ころまでのひとと思われる。父は僧正遍昭。遍昭が出家する前、良岑宗貞といったころに生れた子で名は玄利《はるとし》。はじめ清和天皇につかえて、近衛|将監《しようげん》であった。『大和物語』によれば、それを父遍昭が、法師の子は法師になるのがよいといって、無理に出家させたとある。出家後は、雲林院に住み、権律師《ごんのりつし》に任ぜられ、のち大和国|石上《いそのかみ》の良因院の住持となった。貫之集に、素性の死を悼む貫之・躬恒の贈答歌があるから、かなり有力な歌人であったのだろう。作品は『古今集』に三十六首、『後撰集』以下に二十五首はいっているほか、家集に『素性法師集』がある。三十六歌仙のひとり。 〈22〉文屋康秀《ふんやのやすひで》 [#5字下げ]古今集 巻五・秋  これさだのみこの家の歌合のうた [#1字下げ]吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしとい|ふ《う》ら|む《ん》  その風が吹くとすぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほどそれだから山風を嵐というのだろう。  吹くからに、は吹くと直ちにの意。むべ、は「うべ」ともいう。なるほど、もっともだの意。ここで、なるほどと肯定する対象は何かというと、㈰山風が荒すから、|あらし《ヽヽヽ》ということ。㈪山と風と組み合わせて嵐という一字になること。ところで、古くからこのどちらを採るかで諸説があるが、茂睡や季吟らの古い説は㈰をとり㈪を否定するが、契沖以後は㈰㈪双方を共に認めてゆく解釈が多い。後者の方がやはりおもしろい。おなじ種類の、文字の組みたてを歌にした例は、古今集に紀友則《きのとものり》作で「雪ふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれを梅と わきて折らまし」がある。他の勅撰集にも例歌あり。  この作品は、機智を弄してのことばのあそびにすぎないとして、かなり否定的な評価が多い。もっとも、萩原朔太郎はかなり擁護的で、古今集一流の理窟があり、稚拙な悪趣向歌の典型とも見られるが、素直によめば「意外にさらさらとした好い歌で、秋風一陣、蕭颯《しようさつ》として嵐の過ぎ行く情象を感じさせる」と言っている。古今集歌風の特色のひとつはこういう歌にあるわけで、和歌が知的なあそびとなったところに、その病もあるが美も宿っているのである。病んでいるものは悪いものだとするのは、たいへんわかり易い論理であるが、こういう常識論に対しては、病める貝が真珠をそだてるという、これも負けず劣らず常識的なことばがすぐはねかえってくるのである。私じしんは、それほどほめるつもりもないが、それほどくさす必要も感じない。なお作者は康秀でなく朝康であろうとする契沖説がほぼ正確であろう。 [#1字下げ] 文屋康秀[#「文屋康秀」はゴシック体] 生没年未詳。平安初期の人。字《あざな》を文琳《ぶんりん》といった。伝記について多くは不明である。天武天皇の子、長《なが》親王の末裔であるという。貞観《じようがん》二年(八六〇)に刑部中判事《ぎようぶちゆうはんじ》となり、のち三河や山城の地方官を歴任、元慶三年(八七九)逢殿介《ぬいどののすけ》となった。小野小町と交渉があったらしく、三河にくだるとき彼女をさそっている。六歌仙のひとりにあげられ、その作風は『古今集』の序で「文屋康秀は言葉は巧みにしてそのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらむが如し」と批評されている。言葉はたくみであるが、歌のすがたが俗であり、卑しいところがあるというのである。家集は無く、勅撰集にはいる歌は、『古今集』に四首、『後撰集』に一首である。文屋朝康はその子である。 〈23〉大江千里《おおえのちさと》 [#5字下げ]古今集 巻四・秋  これさだのみこの家の歌合によめる [#1字下げ]月みれば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど  月をみるとあれこれと限りなく、ものごとが悲しく感じられる。何も、私ひとりのために秋が来たのではないのだけれども。  ちぢに、は数限りなくの意。ち、は千、ぢは、「はたち」「みそぢ」などの「ち」「ぢ」とおなじ助詞。この、ちぢには、下句の「ひとつ」に対称させている。物こそ悲しけれ、は「もの悲しい」とはすこしニュアンスがちがう。「こそ」と、物をつよめて表現しているわけである。こそ……けれ、と係結びをなす。  三句切れの歌である。秋の月をみて、なんとなく感傷的になるというのは、むかしも今もある少女趣味で、歌にもそれほど特色があるというわけではない。『遠鏡』も、「月を見ればおれはいろいろと物が※[#小書きの「さ」]悲しいわい。おれ独りの秋ではなけれど」と、あっさり口語訳している。「物が※[#小書きの「さ」]のところに、「物こそ」のニュアンスを生かして訳しているわけであろう。同書の頭註に、「白氏文集《はくしもんじゆう》に『燕子楼中霜月《えんしろうちゆうそうげつ》ノ夜 秋来只一人ノ為ニ長シ』とあるを千里は儒士なればおもひよりてよめるにや」とある。格別の感動もよばぬかわりに、それほど渋滞もなくすらっとできているのは、モティーフがそういうところにあるためであろう。 「上三句はすらりとして難無けれども下二句は理窟より蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。此歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申《もうすべく》、若し我身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥り申候」と、例によって痛烈にやっているのは、正岡子規の「四たび歌よみに与ふる書」である。「厳格に言はば此等は歌でも無く歌よみでも無く候」ということになっている。 [#1字下げ] 大江千里[#「大江千里」はゴシック体] 生没年については未詳。平安朝の人。参議大江|音人《おとひと》の子。一説に音人の孫、右京大夫玉淵の子ともいう。父音人は阿保親王(平城天皇の子)の子で、在原行平・業平は千里の叔父にあたる。文章生であった父に似て、かれもまた学問を好み、博学能文、とくに漢学にすぐれ、漢詩や和歌にもたくみであった。官位は、|備中 大丞《びつちゆうのだいじよう》等を経て、延喜三年(九〇三)兵部大丞までなっている。勅撰集にはいる歌は、『古今集』以下に二十五首。家集に『大江千里集』がある。 〈24〉菅《かん》 家《け》 [#5字下げ]古今集 巻九・羇旅  朱雀院《すざくいん》のならにおはしましたりける時に、たむけ山にてよみける [#1字下げ]このたびは ぬさもとりあ|へ《え》ず 手向山《たむけやま》 紅葉《もみじ》の錦 神のまにまに  この度の旅行では、いそがしくて幣《ぬさ》も用意する暇もなく出かけて来ましたが、こちらへ到着してみると手向山の紅葉がたいへん美しく色づいていて、私の貧弱な幣などより余程りっぱですから、どうぞこの紅葉の錦を幣として、神の御こころのままにお受け下さい。  詞書によれば、宇多上皇の奈良行幸(昌泰《しようたい》元年〔八九八〕の吉野行きの途上であろうと言われる)のときよんだ歌である。このたび、は「度」と「旅」をかけている。ぬさ、は幣で、錦又は色絹を細かく刻んだもので、袋に入れて持参し、打ち散らして神にたむけたもの。とりあへず、については御供の準備にいそがしくて持参しなかったの意と、紅葉の美しさに対してじぶんの持っている幣の見すぼらしさを恥じてとり出しえないの意とに解する説がある。とりあへず、にはいそいだ感じがあるし、一首ぜんたいとしては紅葉の美をたたえるのがテーマでもあるから、その両方の気持を生かして解することもムリではないだろう。手向山、は若草山の南麓に手向山神社があるが、当時の吉野旅行の道順からかんがえると、それではない。したがってこれは固有名詞ではない。もともと、峠《たうげ》(とうげ)ということばは、「手向《たむけ》」ということばが語源と言われるくらいで、ここも特定の山でなく、当時の奈良のどれかの山とみるべきところ。なお、契沖の説に関連して石田吉貞氏にもくわしい考証がある。まにまに、はままにの意。『遠鏡』頭註では「神は御心まかせにと存じて」と口語訳している。  菅家は菅原道真で、彼も漢学の大家であった。この旅行のとき、おなじく紅葉の美を詠じた漢詩なども残している。秋の色づいた木の葉を幣にたとえる歌は、たとえば「たつたひめ たむくる神の あればこそ 秋のこのはの ぬさとちるらめ」(古今集巻五)などもあり、当時の類型的な発想になっていた。 [#1字下げ] 菅 家[#「菅 家」はゴシック体](八四五─九〇三) 菅家は菅原道真の尊称。文章《もんじよう》博士菅原|清公《きよきみ》の孫で、参議|是善《これよし》の子。幼名を阿呼《あこ》といった。菅原氏からは著名な学者が多く出ているが、かれも幼少より慧敏《けいびん》、文才は抜群であった。元慶元年(八七七)文章博士となり、のち藤原氏の権勢を抑えようとする宇多天皇の信任を得て、蔵人頭・参議などを経、昌泰二年(八九九)ついに醍醐天皇の輔佐役として、右大臣となった。学者としては異例の昇進であったが、まもなく延喜元年(九〇一)左大臣藤原時平を中心とする藤原氏の政治的陰謀にかかって、九州太宰府に流された。天皇の廃立をはかったという理由である。延喜三年その地で没、年五十九であった。死後、天満天神として京都北野に祭られたが、これは道真の怨霊《おんりよう》の祟《たた》りとして、当時京都において関係者の変死や災害が頻発したためといわれる。すぐれた詩人・学者として、その編著書に『新撰万葉集』『菅家文草《かんけぶんそう》』『類聚国史《るいじゆうこくし》』『三代実録』等がある。なお遣唐使の廃止が、寛平六年(八九四)道真の議によっておこなわれたことも有名である。 〈25〉三条右大臣《さんじようのうだいじん》 [#5字下げ]後撰集 巻十一・恋  女のもとにつかはしける [#1字下げ]名にしお|は《わ》ば |あふ《おう》坂山の さねかづら 人にしられで くるよしもがな  逢坂山のさねかずらは、蔓を手繰《たぐ》って逢いにくると言われていますが、ほんとにそうならあなたもそれにあやかって、人に知られないように通ってくる方法があるとよいのですがね。  名にしおはば、は名前のとおりならば。さねかづら、は佐那葛《さなかずら》。「ね」は音転である。五味子《ごみし》の和名で、美男葛《びなんかずら》のこと。「さね」は「さ寝」の意味を含むという解は多くの註釈がとっている。万葉集巻二の、「玉くしげ みむろの山の さなかづら さ寝ずはつひに ありかつましじ」などにもその用例あり。また、その草は蔓草でつるを手繰るところから、結句の「くる(来る)」、に意をひびかせている。しられで、の「で」は「ずて」のつづまった助詞。くるよしもがな、の「がな」は願望の終助詞。よく知られているように、この時代の風習は男が女のもとへ通ってゆくのがふつうであったから、この場合のように男から女へ贈った歌で、こちらへ来いというのはムリになるという理由から、江戸時代いらいこの部分の解釈に諸説あり。香川景樹は、相手が女でも、来てほしいという場合がないわけではないとの説である。三句までは「くる」の序である。作者は藤原定方。  萩原朔太郎は例によってローマ字に書きなおしてみて、上三句までは母音にA音を用いてリズミカルに押韻し、第四句において、第一句をうけてI音に転調させたところに「最も優美な音楽」があるとし、「想は平凡な贈答歌にすぎないけれども、何となく懐かしい魅力があるのはこの為である」と批評している。久松潜一氏も、想は極く平凡だが、音調的構成が巧みだと評している。それほどいっしょけんめいに研究したり、論じたりするほどの歌とも思えない。 [#1字下げ] 三条右大臣[#「三条右大臣」はゴシック体](八七三?─九三二) 藤原定方のこと。右大臣で京の三条にその邸があったのでこういわれた。勧修寺家《かじゆうじけ》の祖。内大臣藤原高藤の二男で、母は宮内大輔宮道弥益のむすめ、兄に泉大将藤原定国がある。はじめ内《う》舎人《どねり》、のち参議兼右中将となり、中納言、大納言と進んで、延長二年(九二四)右大臣となった。なかなかの才人であったらしく兄定国とともに「才卿にて天下におもき人」(勧修寺縁起)といわれ、管絃をもよくしたとつたえられる。「〈44〉あふことのたえてしなくば……」の作者中納言朝忠はこの定方の子である。家集に『三条右大臣集』。勅撰集にはいる歌は十六首である。 〈26〉貞信公《ていしんこう》 [#5字下げ]拾遺集 巻十七・雑秋  亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふに、ことのよし奏せむと申して [#1字下げ]をぐら山 峯のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆきまたな|む《ん》  小倉山の峯のもみじ葉よ、お前たちに心があるならば、もう一度行幸があるはずだから、その時まで散らないで待っていようではないか。  詞書は、亭子院《ていじのいん》(宇多法皇)が大井河に行ったとき、紅葉がたいへん美しいから、もう一度天皇の行幸もあるべきだと言ったので、そのことを作者が天皇(醍醐天皇)に奏上しようというのでつくった歌という意味である。「御幸」は、上皇(法皇)や皇族のばあいにつかい「行幸」は天皇のばあいにだけつかうことばというきまりがあった。小倉山、は京都の嵯峨にある山。大井河にちかく、嵐山と向きあっている。今ひとたびのみゆき、はもう一度の行幸の意。なむ、は願望をあらわす終助詞。  この宇多法皇の大井河御幸はいつのことかというふうに、細かなところまで、百人一首の文献的研究は古くからすすんでいる。北村季吟の昌泰一年九月十一日説、香川景樹の延喜四年十月十日説、井上文雄の延喜七年九月十日説などが主なものである。井上説は、「大堰河《おおいがわ》行幸和歌考証」(大堰河は大井河に同じ)で、『日本紀略』(神代より後一条天皇に至る編年体の歴史書)の記録を典拠とし、天皇の大井河行きはその翌十一日としている。佐藤球『大鏡註解』も同意見。景樹説は『百首異見』にみえるもので、おなじく『日本紀略』の別項の記録により、この方は天皇の行幸を十月十九日としている。近来は、もっとも新しい井上説がもっとも有力になっているが、こういうセンサクは和歌作品の鑑賞と批評にとってそれほど重要なことがらというわけではない。  作者貞信公というのは、小一条太政大臣藤原忠平である。従駕の歌人ということばがあって、天皇や上皇の旅行先きへお伴して行って、歌をつくってごきげんをとり結んだり、座興に供したりする職業歌人のことを言う。この作者は職業歌人ではなかったが、歌そのもののできばえは従駕の歌らしく、お座なりに儀礼的なきれいごとにすぎぬ。 [#1字下げ] 貞信公[#「貞信公」はゴシック体](八八〇─九四九) 藤原忠平のこと、貞信公はその諡《おくりな》である。小一条に住んだので小一条太政大臣ともいう。関白藤原基経の四男で、兄の時平・仲平とともに三平とよばれた。中納言・大納言を経て、延喜十四年(九一四)右大臣となり、醍醐天皇を輔佐して、延長二年(九二四)に左大臣、同八年に朱雀天皇の摂政、天慶四年(九四一)関白となっている。摂政十二年、関白八年と長期にわたる政権の掌握によって、藤原氏の政治力を安定させたひとである。延長五年に時平のあとをうけて『延喜格』十二巻、『延喜式』五十巻を修撰している。幼時より聡明で、性格は温厚であったらしく、兄時平によって讒言《ざんげん》され左遷された太宰府の菅原道真と、配流後も音信を通じていたといわれる。『大鏡』には、この忠平がある夜、南殿の御帳のうしろを通ろうとして、奇怪な鬼にあい、太刀を払ってこれを一喝し、退散させたという話がみえる。 〈27〉中納言兼輔《ちゆうなごんかねすけ》 [#5字下げ]新古今集 巻十一・恋  題不知 [#1字下げ]みかのはら わきてながるる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるら|む《ん》  甕《みか》の原に湧いて流れてゆく泉川のように、いつ見たというのでもないのに、どうしてこのように恋しく思われるのだろうか?  みかの原、は京都府|相楽《そうらく》郡にある。聖武天皇が此所に一時都をおいた。いづみ川、は今の木津川。「泉川 ゆく瀬の水の 絶えばこそ 大宮どころ うつろひゆかめ」(万葉集巻六)、「みやこいでて けふみかの原 いづみがは 川かぜさむし 衣かせ山」(古今集巻九)などがある。三句までは、つぎに「いつみき」というための序。いつみきとてか、は何時見たというのであろうか、一度も会っていないの意になる。恋しかるらむ、は恋しくあるらむの意。「か」を係りとして、推量の助動詞「らむ」を連体形で結びとしている。  作者については、契沖が『改観抄』で、兼輔作ではなく、作者不明の歌であるとしてめんみつに文献学的に検証して以来、ほぼ動かぬところとなっている。会ったこともないひとに恋するというテーマについてもいろいろ議論のあるところで、『西鶴置土産』のなかの、「思はせ姿今は土人形」に出てくる、京の女嫌いの大臣が江戸の遊女|濃紫《こむらさき》を、まだ見ぬうちから恋するくだりに出てくる「見ぬ恋するといふはむかし、今の世にはなき事なるに」ということばなども、この歌に関連させて解釈されている。  古くから評判の良い歌で、為家の「詠歌一体」では、「すべて少(し)さびしきやう」にうたっているのがよい歌で、「詞すくなくいひたれど、心のふかければおほくの事どもみなそのうちにきこえる」例として、この歌をあげている。「昔の歌は、一首のうちに序のあるやうによみなして、をはりに其事ときこゆる」というふうにもつけくわえている。宣長の「石上私淑言《いそのかみささめごと》」にも、テーマは二句にだけ表現し、残り三句はみな詞のあやでムダのようだが、その技巧によって「二句のあはれがこよなく深くなるなり」と言っている。 [#1字下げ] 中納言兼輔[#「中納言兼輔」はゴシック体](八七七─九三三) 姓は藤原、左大臣藤原|冬嗣《ふゆつぐ》の曾孫にあたり、父は左近中将利基。すなわち、冬嗣─良門《よしかど》─利基─兼輔となる。官位は参議などを経て、延長五年(九二七)従三位中納言に進み、同八年、右衛門督《うえもんのかみ》をかねた。鴨川の堤に家があったので、堤中納言ともいわれた。〈25〉の「名にしおはば……」の作者藤原定方とは従兄弟のあいだがらで、定方の娘を妻とした。兼輔が晩年に住んだ粟田の家には、貫之・躬恒など多くの歌人が出入りし、集会所の観があったという。家集に『兼輔集』があり、古今集以下の勅撰集に五十六首の歌がとられている。有名な「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」は、『大和物語』によると、醍醐天皇の後宮にはいった娘|桑子《くわこ》への愛情があせないようにと醍醐天皇におくったものだという。三十六歌仙のひとり。 〈28〉源宗于朝臣《みなもとのむねゆきのあそん》 [#5字下げ]古今集 巻六・冬  冬の歌とてよめる [#1字下げ]山ざとは 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬとおも|へ《え》ば  山里の寂しさはいつものことだが、ことに冬はその思いがひとしおである。人も訪ねて来なくなったし、草も枯れてしまったなあと思うから、いよいよ寂しさがつのる。  冬ぞ、の「ぞ」は強勢で、山里はいつも寂しいが殊に冬は、というところである。かれぬ、は草が枯れると、人目が離《か》れるの両義がかかっている。ただし人目が離れるには反対意見もある。結句のおもへば、は、たとえば『遠鏡』では「ただ枯れぬればといふに同じ。思ふに意なし。此の例多し」と註して、「今まではたまたま見えた人目もかれる、草も枯れたによつてさ」と軽く訳している。三句切れの歌で、この句法の歌が多くそうであるように、意味は倒置されている。異本には、第二句「冬ぞわびしさ」となっているものあり。  小倉百人一首に数すくない冬の歌のひとつである。この時代の歌としてはクセのないすらっとしたうたいぶりで、そこがもの足りぬとも言いうるが、冬のわびしさがすなおに表現されているところとも言いうるのではないか。冬の歌だから地味にうたえばよいというわけではないけれども、人めも草もかれぬ、というところの掛詞の技巧なども、とくにとりたてて目立つほどのことはない。西行の「さびしさに たへたる人の またもあれな いほりならべむ 冬の山里」という作品などの思いあわされる調子がある。特にすぐれた作品というほどではないにしても、好感のもてるものである。 [#1字下げ] 源宗于朝臣[#「源宗于朝臣」はゴシック体](?─九三九?) 没年については天慶三年(九四〇)とする説もある。平安朝の人。光孝天皇の第一子|一品式部卿是忠《いつぽんしきぶきようこれただ》親王がその父である、寛平六年(八九四)に臣籍にはいり源の姓となった。延喜のころ三河や相模、信濃などの地方官を転々とし、承平三年(九三三)に右京大夫となった。是忠親王の子であるが、昇進はおそかった。『大和物語』に、かれが紀州から石についた海藻、水松《みる》を宇多院へおくったとき、身の不遇を歎いてよんだという歌がみえる。三十六歌仙のひとりで、家集に『宗于朝臣集』がある。『古今集』以下の勅撰集にはいる歌は十五首。 〈29〉凡河内躬恒《おおしこうちのみつね》 [#5字下げ]古今集 巻五・秋  しらぎくの花をよめる [#1字下げ]心あてに をらばやをら|む《ん》 初霜の おきまど|は《わ》せる 白菊の花  あて推量で位置をさぐりあてて、折るならば折ってみるよりほかあるまい。なにしろ初霜があたり一面を真白にしてしまい、白菊の花がどこに在るのかわからなくなってしまったのだから。  心あて、はあて推量の意。をらばやをらむ、には諸説があるが、要するに「や」を詠歎の助詞とみるか、疑問の係助詞とみるかのちがいで、後者の方が妥当であろう。契沖は、折るならば折ってみようかと言いながら、やはり折るまいの意を含んでいるとみている。初霜のおきまどはせる、は初霜が置き、白菊の位置をまどわせるという語法と解する説が多い。このばあいは、意味のうえで「初霜のおき」(「の」は主格を示す助詞)と、三句から四句へ跨がるわけで巧みな句法とは言いがたい。もちろんまたここは、「おきまどはす」という四段活用の複合動詞とも解しうるわけで、ほとんどすべての註釈書はここのところを、両方の意味に解している。しかし、「初霜のおき」は、どうみても不自然で、「おき」は「まどはせる」へ附けてよむべきであろう。  正岡子規がこの歌を徹底的に否定したことはよく知られている。平安朝期の美意識は、写実的なものより観念的なものを重くみるようになったのであり、その点を充分考慮に容れるとしても、こういうフィクションは、いかにもそらぞらしいものというほかない。精巧を極めた人工の美というものとは本質的にちがうだろう。五味智英氏は『古代和歌』で、おなじ作者の「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えぬ 香やはかくるる」「月夜には それとも見えず 梅の花 香を尋ねてぞ 知るべかりける」をあげ、ともに作者の興味が「紛《まぎ》れ」にあることを指摘し、「景が直接に人に迫らない」と評している。 [#1字下げ] 凡河内躬恒[#「凡河内躬恒」はゴシック体] 生没年未詳。父祖についてもあきらかでない。寛平年間に甲斐、のち丹波・和泉などの地方官を歴任しているが、官位は低かった。ときにその憂悶の情を「わび人の 思ふ心を ちる花に そへて雲ゐに ふきつけよ風」などと歌っている。三十六歌仙の一人にあげられ、紀貫之・紀友則・壬生忠岑《みぶのただみね》らとともに古今集の撰者である。宇多法皇の大堰河行幸や春日参詣に従っているので、宮廷歌人であろう。歌合・屏風歌などいろいろな場で作歌しているが、特に即興的な技巧を得意としたらしい。あるとき醍醐天皇が、月を弓張というのはどういうわけかと問うたのに対し、躬恒は「照る月を ゆみ張としも いふことは 山の端さして 入(射)ればなりけり」と即興の歌で答えたという。家集に『躬恒集』があり、勅撰集にはいる歌は百九十四首、貫之とならんで古今集時代の代表的歌人である。 〈30〉壬生忠岑《みぶのただみね》 [#5字下げ]古今集 巻十三・恋  題しらず [#1字下げ]ありあけの つれなくみえし 別《わかれ》より 暁《あかつき》ばかり うき物はなし  無愛想な有明の月がつれなく空に残っていた時、愛する女性との後朝《きぬぎぬ》の別れをしたのであったが、それ以来、暁ほど私にとって憂鬱に思われるものはない。  ありあけ、は有明の月。別より、は別れた時以来の意。暁ばかり、は暁ほどの意。  この歌の解についても諸説がある。「ありあけの」は、単に「つれなく」の枕詞的なつかいかたと考える(真淵・景樹等)、つまり月に関係なし。これには用例もなく、ムリな解である。つぎには、つれなかったのは有明の月であって、女性がつれなかったわけではないと解する説(定家・宣長)。つまり、名残りはつきぬのに、人目は忍ばねばならぬというわけである。もうひとつは契沖がめんみつにかんがえた説で、古今集での歌の配列位置のこと、『古今|六帖《ろくじよう》』に「来れど逢はず」という題のところにのっていることなどからの推定で、月も女もつれないとかんがえる説。現代の註釈は多く、この第三説によっている。  宣長は『遠鏡』で、特に註をして、上句を女性につれなくされて帰るとするのは、歌の配列場所に拘泥《こうでい》した誤まりであって、定家の説のように、逢って別れているのである。古今集の配列は「ふと所を誤れるなり。六帖も此集によりて誤れり」と、契沖説を否定している。文献的には証拠がないから、宣長説も独断のようなものだが、久松潜一氏の『八代集選釈』も、この解をとっている。情緒的にはこの解がもっとも余韻があるように思われるので、私もかりに、それに従った。  定家はこの歌を極めて高く評価し、これくらいの歌ひとつよむことができれば「この世の思ひ出に侍《はべ》るべし」(顕註密勘)と言っている。すこしほめすぎではないか? [#1字下げ] 壬生忠岑[#「壬生忠岑」はゴシック体] 生没年不明であるが、貞観年間から延喜末年ころまで生存したひとと思われる。はじめ左近衛番長《さこんえのばんちよう》として泉大将藤原定国の随身《ずいじん》となり、のち右衛門府生・摂津大目《せつつのだいもく》などをつとめて六位に進んだ。躬恒と同じように下級官であったが、歌人としては早くから歌合・屏風歌などに実力を示したひとで、若いころは貫之の門人であったといわれる。三十六歌仙のひとりで、古今集の撰者、家集『忠岑集』のほか、『忠岑十体』という歌学書がある。『大和物語』に忠岑が藤原定国の随身であったころの話として──ある夜おそく酒に酔った定国が左大臣藤原時平の邸へ押しかけた、時平はおどろいて、どこにいった帰りかとたずねた。そこでお伴の忠岑は松明をもちあげながら、即座に他へ行ったついでに来たのではなく、この寒い夜をわざわざたずねて来たのだという意味を「かささぎの 渡せる橋の 霜の上を 夜半に踏みわけ 殊更にこそ」と詠んだので、時平は大いに喜び、忠岑の機智を激賞して、夜明しの酒宴をしたという。 〈31〉坂上是則《さかのうえのこれのり》 [#5字下げ]古今集 巻六・冬  やまとのくににまかれりける時に、雪のふりけるをみてよめる [#1字下げ]朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪  ほのぼのと夜の明けそめるころ、気がついてみると有明の月の光かとおもわれるほどに吉野の里に白々と雪が降っていた。  とくに難解なことばもなければ、ことさらな形式や技巧をこらしているところもなく、体言止めであるけれども、固い強い調子にならず、静かに落ちついている。一読そのままに理解しうる、すなおな歌である。詞書からも、作者じしん、吉野へ旅行したときの実景をうたったものとみることができる。思いがけない雪景色に、一種の旅情のようなものを感じてよんだらしい作者のこころのたたずまいすら感じられる。大げさな身ぶりや、誇張した表現や技巧にならなかったところにさえも、作者の感動の深さと着実が思われる。和歌の平安朝様式は装飾的であり、観念的に技巧的であることを特色とするけれども、「〈28〉山ざとは」の歌や、この歌などのように素直な歌の良さをも見のがさなかったところに、定家の晩年の和歌観が反映していると言いうるかもしれない。  有明の月の光と見まごうほどの雪であるから、ここはうっすらと降った雪、重く深くない雪とみたいところである。久松潜一氏も、薄雪と解している。宣長は、しかし『遠鏡』で独特な解釈をして「かう(このようにの意)夜のくわらりと明けた時に見れば、恰度《ちようど》有明の月の残つた影と見える程に吉野の里へ雪が降つた」と口語訳している。さらに、山崎美成の頭註は、この歌を薄雪だなどというのはまったくの心得ちがいで、古今集での配列位置をみれば深い雪をうたっていること明らかであるとしている。配列位置のことは契沖も注意したところであったが、彼は深い薄いにかかわりなく、ただ見たままをよんだのであろうとしている。宣長説は、すこしムリなようにおもわれる。 [#1字下げ] 坂上是則[#「坂上是則」はゴシック体] 生没年未詳。勇将坂上田村麻呂四代の孫好蔭の子といわれるがたしかではない。はじめ御書所《ごしよどころ》につとめる下級官であったが、延喜八年(九〇八)|大和権 少 掾《やまとのごんのしようじよう》となり、のちしだいに昇進して少内記《しようないき》・大内記《だいないき》などとなり、延長二年(九二四)加賀介《かがのすけ》に昇進した。多芸多才のひとで、特に蹴鞠《けまり》にたくみであったといわれる。延喜五年三月醍醐天皇が仁寿殿で蹴鞠の会をひらいたとき、是則は二百六回連続蹴りつづけ一度も落さなかったという話が『西宮記』にみえる。歌人としては、貫之や躬恒、忠岑らと詠歌し宇多法皇の有名な大堰河御幸にも加わったひとで、三十六歌仙のひとりにあげられる。勅撰集にはいる歌は三十九首、家集に『坂上是則集』がある。『後撰和歌集』の選者のひとり坂上望城は彼の子である。 〈32〉春道列樹《はるみちのつらき》 [#5字下げ]古今集 巻五・秋  しがの山ごえにてよめる [#1字下げ]山が|は《わ》に 風のかけたる しがらみは ながれもあ|へ《え》ぬ 紅葉《もみじ》なりけり  山川に風がはこんできて柵《しがらみ》を掛けてあるようにみえるものがあるが、あれは流れてゆかないで止っている紅葉である。  しがの山ごえ、は京都から志賀へ出る山越えの道。志賀寺(崇福寺)参りで人がよく通った。山がは、は山の川で、「が」と濁ってよむならわしである。「ヤマカワ」とよむと山と川の意になるというのは真淵の説であるが、現代の註釈書には、濁らないでよませているものもある。やまがわと、やまかわとに意味のうえで区別があるなどというのも、どこまで根拠があるのか疑問で、国語学者の一種の職業的瑣末主義のようなものが働いてできあがってゆく説のようなものではないか? 「山峡」は、ヤマカイとよむのが古く美しい形で、ヤマガイはよくないということは谷崎潤一郎が言っているが、斎藤茂吉などは両方つかっていて、ヤマガイが山の峡で、ヤマカイが山と峡とであるなどという区別はない。しがらみ、は水流を堰《せ》き止めるために杙《くい》を打ち並べ、木や竹を横に組んだもの。ながれもあへぬ、は流れようとして流れきらぬ形。  風を擬人化して、着想のおもしろさを誇った歌である。詞書からすれば、実景に即しての作であろうが、実感をすべて捨象して絵模様のようなものにしたところにこの時代の様式的な好みが反映しているわけである。紅葉がせきとめられている姿ではなく、ひっきりなしに散り落ちて、水も流れていないほどに見える風景と解する説も古くからあるが、やはり誇張にすぎるだろう。 [#1字下げ] 春道列樹[#「春道列樹」はゴシック体](?─九二〇) 生年未詳。主税頭《ちからのかみ》(一説に雅楽頭ともいう)|新名宿禰《にいなのすくね》の子であるという。延喜十年(九一〇)文章生となり、のち太宰典《だざいのすけ》を経、延喜二十年|壱岐守《いきのかみ》となったが、任地の壱岐国(現在の長崎県壱岐郡)に出発する前に死んでしまったといわれる。作品は古今集に三首と『後撰和歌集』に二首があるのみで、家集などもなく、名のある歌人ではなかったと思われる。 〈33〉紀友則《きのとものり》 [#5字下げ]古今集 巻二・春  さくらの花のちるをよめる [#1字下げ]久《ひさ》かたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるら|む《ん》  日の光ののどかな春の日なのに、どうしてこのように落ちついて静かなこころもなく花が散っているのであろうか。  久かたの、は天・空などにかかる枕詞であるが、ここでは空の日の意味につかっている。  古今集巻十八に、「久方の なかにおひたる 里なれば 光をのみぞ たのむべらなる」(伊勢)のような例もある。このばあいは月を意味している。しづ心なく、は静かな心・落ちついた心の意。心は、花の心で、これも擬人法である。花のちるらむ、のところの「らむ」は元来推量の助動詞だから、どうして花が散るのだろうというふうに疑問の形にかんがえることはできぬし、そうすると歌が理窟におちいって歌としての価値をそこなうから、ここは詠歎の意に解さなくてはならぬとして、古今集の他の用例を調べているのは、『小倉百人一首の講義』における金子武雄氏の説である。金子氏は、結論的には「作者の真意を、なおよく考えたい」としているが、傾聴すべき意見である。  萩原朔太郎は例によってこの歌の音韻的流暢をつぎのように説明している。「ハ行H音を主調として、各句の拍節毎に頭韻し、且つ no(の)の母韻を韻脚として毎節ごとに重韻している。そのため全体の音楽が朗々として、いかにも長閑《のど》かな春の気分を音象している。古今集の歌の中でも、この歌の如きは特に韻律の構成を重視しており、音象詩として典型的のものであろう」。  近藤忠義氏は、『日本文学原論』において、本歌取《ほんかとり》の問題を論ずるために、定家がこの歌を本歌としてつくった「いかにして しづ心なく ちる花の のどけき春の 色と見ゆらむ」をあげている。  桜の花の心というふうな擬人法も、どぎつくは目立たず、感情移入もスムーズで、ものういような春の情緒を傍観的にうたって、程よくとらえている。 [#1字下げ] 紀友則[#「紀友則」はゴシック体](?─九〇五?) |宮内少輔《くないのしようゆう》紀有友の子(紀有常の子ともいう)で、貫之とは従兄弟(一説に甥ともいう)のあいだがらという。四十歳すぎまで任官しなかったといわれ、寛平九年(八九七)土佐掾《とさのじよう》となったのが最初と思われる。のち少内記を経て、延喜四年(九〇四)大内記となった。翌年古今集撰者のひとりにあげられたが、延喜五年ころ完成を見ずに没したろうという。古今集にその死を悲しむ貫之と忠岑の歌がみえている。家集に『友則集』があり、勅撰集にはいる歌は六十四首。三十六歌仙の一人である。寛平年間宮中で秋の初雁《はつかり》を題として歌合の会があった際、かれはその歌の第一句に「春霞……」とよみ入れ、一座の人々から、秋の題の初雁に「春霞」はふさわしくないと失笑をかったが、第二句以下を「かすみて去《い》にし 雁がねの 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に」とつけたのを聞いて、先に笑ったひとたちは、ついに黙り込んでしまったという話がつたわる。 〈34〉藤原興風《ふじわらのおきかぜ》 [#5字下げ]古今集 巻十七・雑  題しらず [#1字下げ]たれをかも しる人にせ|む《ん》 高砂《たかさご》の 松もむかしの 友ならなくに  今はもう誰を相手としようか。知りびとはつぎつぎと亡くなって、高砂の松だけは年久しいものだけれども、それも昔からの友ではないから話し相手にはならぬものを。  たれをかもしる人にせむ、は私は誰を昔からの知りあいにしようかなあ、という詠歎。古い友人がみな死んでしまって、孤独に残された老人のなげきである。「か……む」で係結びをなしている。二句切れの例である。むかしの友ならなくに、は昔からの友ではないものを、の意。だから話し相手にはならぬというこころ。ならなくに、は「〈14〉みちのくのしのぶもぢずり」の項参照。  高砂の松、は幽斎や宣長のように普通名詞とかんがえる説もあるが、兵庫県加古川市にある松の名所の高砂と解するのがふつうである。契沖も真淵もこの説で、古今集序の「たかさご、すみのえのまつも、あひをひのやうにおぼえ……」のくだりを引いている。住古の松をうたった作品は、古今集にこの歌とならんで二つ収録されている。謡曲の「高砂」は、高砂の松が尉《じよう》と姥《うば》の老夫妻に化すという伝説をもとにしたものであるが、この作者の時代にはまだその伝説はできていなかっただろう。冒頭の「た」音と、第三句「高砂」の「た」音との反復による効果については、多くのひとが言及している。音韻効果という点で言えばさらに、「松もむかしの」の部分におけるM音の反復「ならなくに」における「な」の反復などによって、もつれまつわる調子を心理的に残すものとも言えよう。「高砂の 松もかひなし 誰をかも あはれ歎きの 知る人にせむ」(続拾遺集)などは、この作を本歌としている。 [#1字下げ] 藤原興風[#「藤原興風」はゴシック体] 生没年未詳。別に院の藤太とも号した。相模掾《さがみのじよう》藤原道成の子。歌学書『浜成式』の著者といわれる参議藤原浜成の曾孫にあたる。相模掾を経て、まもなく治部少丞《じぶしようじよう》となり、延喜十四年(九一四)下総大掾となったが、官位は低かった。三十六歌仙のひとり。『寛平御時后宮歌合』『亭子院歌合』などに貫之や躬恒らと、ともに加わり屏風歌などもつくっていて、かなり名のあった歌人と思われる。歌風は、古今調にくわえて、写実には遠い繊細華麗な美的世界を表現する、新古今的趣きもそなえている。作品は古今集以下に三十八首がとられ、家集に『興風集』がある。なお、かれは管絃にもたくみで琴の師でもあった。 〈35〉紀貫之《きのつらゆき》 [#5字下げ]古今集 巻一・春  はつせにまうづるごとに、やどりける人の家に、ひさしくやどらで、程へて後にいたりければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる [#1字下げ]人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞむかしの 香にに|ほひ《おい》ける  人はどうなのか、こころも変ったのか変らぬのか知らぬ。しかし古くから私の馴染《なじ》んできたこの土地の梅の花こそは、昔のとおりに変らず匂うのである。  詞書が、この歌の理解にはつよい関係をもつ。初瀬(いま奈良県桜井市|初瀬《はせ》所在の寺、長谷寺ともいう)に参詣するたびに宿泊していた人の家に、しばらく疎遠になっていて後再び訪ねてみると、宿の主人が、このように家は変らないでありますよと皮肉に言ったから、そこにあった梅の花をとって、それにことよせて詠んだ、というわけである。  人はいさ、人間についてはどうであろうかの意。「いさ」を「いざ」と読むは不可。下に必ず打消の述語を求める副詞。ふるさと、は古くから人の住んでいる里・古くから馴染の里・生れた里の三義あり。ここはもちろん第二の意。終りの「ける」は、「花ぞ」を受けて係結びとなる、詠歎の助動詞「けり」の連体形。第二句の「も」も詠歎を含む助詞である。 『遠鏡』頭註には、「あるじが詞のくねくねしきにこたへたるなり。かたみにをかしき風流なりける」としるしている。このやりとりは、かなり心理的で、いわば小説的《ロマネスク》でさえもある。梅の枝にそえてこたえたから、いくらか情緒的にやわらげているとはいうものの、「人はいさ心もしらず」とは、なかなか大胆なしっぺがえしにもきこえる。久しく疎遠になっていた原因と事情に読者のこころはおのずからさそわれる。  宿の亭主もクセ者だが、貫之の頭脳の回転もなかなか好調である。単なる題詠では、これだけの鋭さは出ないだろう。技巧的でありつつ同時にリアリティを確保しているところを注目してよい作品である。 [#1字下げ] 紀貫之[#「紀貫之」はゴシック体](?─九四五?) |武内宿禰《たけのうちのすくね》の子孫で、父は紀望行《きのもちゆき》。歌人としてはもちろん、評論家として、また和文日記の創始者として文学史上大きな位置を占めるひとである。幼名を内教坊の阿古久曾といい、早くから漢学的素養を身につけ、『論語』の「吾ガ道一ヲ以ツテ之ヲ貫ヌク」の句によって貫之と命名したという。延喜年中|御書所 預《ごしよどころのあずかり》となりのち大内記・右京亮《うきようのすけ》などを経て、延長八年(九三〇)土佐守となり、承平五年(九三五)任を終えて京都に帰った。女性に仮託して書かれた和文日記の先駆的傑作『土佐日記』は、この帰路の舟旅を記したものである。帰洛後、従五位上・木工権頭《もくごんのかみ》に進んだが、天慶八年(九四五)ころ七十歳過ぎで没したろうという。 [#1字下げ] 歌人としてはすでに二十歳代に『是貞親王家歌合』や『寛平御時后宮歌合』の作者となり歌壇に頭角をあらわしている。延喜五年(九〇五)友則・躬恒・忠岑らとともに『古今和歌集』の編纂に従事し、また不朽のその「仮名序」を書いて作家を論評し、当代歌壇の最高の地位を確保した。和歌理念として、後代しばしば万葉調と対比される、理知的・反写実的ないわゆる古今調はここにおいてつくりだされたものである。三十六歌仙のひとり。勅撰集にとられている歌は四百四十四首、定家についで第二位である。万葉集の人麿とともに歌聖と称される。 〈36〉清原深養父《きよはらのふかやぶ》 [#5字下げ]古今集 巻三・夏  月のおもしろかりける夜、あか月がたによめる [#1字下げ]夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるら|む《ん》  短かい夏の夜は、まだ宵のうちだと思っている間にもう明けはじめてしまったが、こんなに夜が短かくては、月が西の山まで行きつく時間はあるまい。あの暁の雲のどのあたりに宿っているのであろうか。  宵ながら、は宵のままでの意。事実のうえではなく、心理的な実感を言っている。日暮れから夜明けまでの経過を、むかしのひとはだいたい夕・宵・夜・暁・朝というくらいに分けて表現している。月やどるらむ、の「らむ」は推量の助動詞。ここのところは、どこに宿るのであろうかと解する説と、どこかに宿をとったのであろう(今は見えない)と解する説と二つある。『遠鏡』では「あの暁の雲のどこらにとまつたことやら」と訳しているから月がみえていない姿としている例である。景樹は前説のように解している。『古来風体抄』には、「夏の夜は まだよひながら 明《あけ》にけり 雲のいづこに 月かくるらむ」となっている。  いわば童謡的発想で一首をまとめているわけであるが、ちょっとした思いつきという程度を出るものではない。萩原朔太郎の批評は、かなり辛辣《しんらつ》に否定的で、着想としてはなかなか面白いが、言い回しが古今集一流の理窟に落ち、印象を直接に表出しないで、子供らしい趣向であると説明している。「こうした表現は古今集独特の稚態であり、芸術意識の不充分な未熟さを証明している」と。 [#1字下げ] 清原深養父[#「清原深養父」はゴシック体] 生没年未詳、伝記もくわしくはわからない。清原氏は『日本書紀』の撰にあたった舎人《とねり》親王《しんのう》の末裔で深養父は豊前介清原房則の子、清少納言の曾祖父であるという。延喜八年(九〇八)内匠允《たくみのじよう》となり、内蔵《くらの》大允《だいじよう》を経て、延長八年(九三〇)従五位下となった。老年にいたっても官位はあがらず、藤原氏の隆盛期にあってその生涯は不遇であった。晩年は洛北大原の近くに補陀落寺《ふだらくじ》を建て、そこに隠棲したとつたえられる。かなり有力な歌人であったらしく、勅撰集にはいる歌は四十一首、『深養父集』という家集もある。なお後撰集には、ある夏の夜、兼輔と貫之が深養父のひく琴を聞いて詠んだという歌がみえるので、琴の上手なひとでもあったろう。 〈37〉文屋朝康《ふんやのあさやす》 [#5字下げ]後撰集 巻六・秋  延喜御時、歌めしければ [#1字下げ]しら露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける  秋の野に風がしきりに吹き渡って、草の露が乱れ落ちる姿は、ちょうど糸を通して留めてない玉が散乱するような眺めである。  吹きしく、は吹き頻《し》くである。つらぬきとめぬ玉、は糸で貫ぬき留めてない玉。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形で玉にかかる。結句の「ぞ……ける」は係結び。詞書の、延喜御時《えんぎのおんとき》、は醍醐天皇の代。ただしこの歌、『新撰万葉集』には、寛平御時|后宮 歌合《きさきのみやうたあわせ》の歌としても記録されているから、制作は宇多天皇時代であり、のち醍醐天皇に献じたと解する説あり。  颯々《さつさつ》たる秋風に散る露をうたう技巧として、比喩はつかわれているけれども、持って廻ったような嫌味はなく、すこし寂しく、しかし清楚《せいそ》な感じのさそい出されるような歌である。喩えられている方を小さな真珠の玉かなにかと想像してみるとして、こういうすがすがしい風景へ点景させてもらえば、真珠にとっても光栄であるというほどのところである。吉井勇は、「蕭条《しようじよう》たる秋の野を、かくまで美化して歌ったものは、他にその比がないであろう」と、『百人一首夜話』で、お座なりなほめかたをしている。  白露を玉にたとえる修辞法は、たとえば万葉集にも「白露を 玉になしたる 長月の ありあけの月夜 見れど飽かぬかも」などがあり、朝康じしんの古今集巻四に収録された歌にも「秋の野に おく白露は たまなれや つらぬきかくる 蜘蛛の糸すぢ」などがある。  なお、〈22〉の「吹くからに」の作者は父の康秀ではなく、子の朝康であるらしいことは契沖の考証いらいほぼ動かぬところになっていることは前にのべたが、そうすると小倉百人一首にはこの作者の作品だけが二首入ったことになる。 [#1字下げ] 文屋朝康[#「文屋朝康」はゴシック体] 生没年・伝記ともに未詳。仁和のころのひとで、文屋康秀の子といわれるが、異説もある。官も寛平四年(八九二)駿河掾《するがのじよう》となり、十年後の延喜二年|大舎人大允《おおとねりのだいじよう》になったというほかは不明である。おそらくは生涯を微官に終ったひとであったろう。古今集巻四によって、『是貞親王家歌合』の作者であったことが知られるが、勅撰集にはいる歌は古今集に一首、後撰集に二首の、計三首のみである。 〈38〉右《う》 近《こん》 [#5字下げ]拾遺集 巻十四・恋  題しらず [#1字下げ]わすらるる 身をば思|は《わ》ず ちか|ひ《い》てし 人の命《いのち》の をしくもあるかな  わたしは、しょせんあの男に忘れ捨てられる身であったのに、そんなことはかんがえてもみないであの時愛をちかったのだが、今は彼を呪い殺したいような思いにかられながら、またどこかには彼の命を惜しむこころも残るようだ。  わすらるる、は忘れられるの意。「忘る」はふつうは下二段活用動詞であるが、ここでは四段に活用する形の未然形。この活用例は、万葉集の「忘らむと野行き山行き……」(巻二十)などがある。「るる」は受身の助動詞「る」の連体形。思はず、は打消の助動詞「ず」を連用形と解するか、終止形と解するかで歌の解が大きく二つに分れる。後者にとれば、あの男に忘れられる身であったことはもうかんがえない、あきらめきっている、という意味になる。じぶんのことはかんがえないで、男の命をいとおしむというこころで、自己犠牲的なニュアンスがつよくなる。  私の解は前者によった。ちかひてし、の「て」は完了の助動詞「つ」の連用形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形で「人」につづく。古来、ほとんどすべての解はここを、神に誓い、したがって男が神の罰を受けるとよんでいる。  作者のことは、源氏物語や枕草子にも出てくるが、『大和物語』に伝えられた多くのエピソードについては、木俣修氏の『百人一首の読み方』にくわしい。複雑に厄介な恋愛事件のあった女性であることが知られる。『正徹《しようてつ》物語』(歌論書、一四三〇年成立)もこの歌に言及していて、「我をかくわするるよりも、人のちかひの罰のあたりて、死《しす》べき命が猶おしきといふ歌也」と解してすこし否定的に評価している。下河辺長流《しもこうべちようりゆう》(一六八六年没)の『百人一首三奥抄』も、「誓を捨て我をわするるは、きはめてつらき男の心なれども、猶その上をおもふは貞女のこころなり」と言い、『改観抄』も、「貞女の心なり」と註している。久松潜一氏の『八代集選釈』での評も否定的で、裏切った男の身を惜しむのは人情の自然に背くもので、「我々はむしろ此の歌から、賢女ぶった、貞女ぶったと云う感じを受ける」と言っている。賀茂真淵も、これは外来支那思想をまねた偽善であるという意見である。すべて、「思はず」の所を終止形によんでの解であるが、『大和物語』なども参照しつつ、もうすこしロマネスクに読むことはできぬものであろうか。 [#1字下げ] 右 近[#「右 近」はゴシック体] 生没年未詳。右近衛少将藤原|季縄《すえなわ》の女というが異説もある。季縄は、交野《かたのの》少将ともよばれ、鷹匠《たかじよう》の名人であり、美男子で艶聞も多くつたわるひと。醍醐天皇の后|穏子《しずこ》につかえ、「右近」の名は父の官名によったものという。『大和物語』には〈43〉の「あひみてののちの心に」の作者の権中納言敦忠との贈答歌が多くあり、その情話がみえている。敦忠に失恋してのち、蔵人頭桃園宰相源保光とも交渉があったとつたえられる。その他藤原朝忠(〈44〉の作者)とも親しかったという。勅撰集にとられている歌は九首である。 〈39〉参議等《さんぎひとし》 [#5字下げ]後撰集 巻九・恋  人につかはしける [#1字下げ]あさぢ|ふ《う》の をののしの原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき  野原に生いたつしの竹のように、私はしのべるだけしのばせているのに、思いの丈《たけ》はどうしてこんなに伸びて恋しさがいやまさるのでありましょうか。  あさぢふの、は、浅茅生の、で、「小野《おの》」の枕詞。をののしの原、は小竹《しのたけ》の生えている野原のこと。小野の「小」は接頭語。特定の地名ではない。この第二句までは、「しのぶれど」の為の序。あまりて、はしのぶに余りての意で、こらえきれずというほどのところ。などか、はなぜか。  古今集巻十一の、読人しらず「あさぢふの をののしのはら しのぶとも 人しるらめや いふ人なしに」を本歌としていることは、ほぼ諸説一致している。ただし読人しらずの歌の「しのぶ」は、恋い慕う意で、参議等の作の「しのぶ」は耐え忍ぶ意である。  自然の風景に托しながら、遠景をしだいにたぐりよせてきて心情の吐露に転じてゆく手法は、この時代の歌に一般的なテクニックであるが、そこをあまりあざとくならないでスムーズにしらべにのせている。萩原朔太郎は、「この歌の音律構成は規範的で、短歌の韻律学が定める一般方則の原形を示している」と大胆に断定してつぎのように説明している。上三句で no 音と shi 音を交互に重ねて押韻し、第四句の「あまりて」と、冒頭の「あさぢふ」が呼応してA(あ)音が一首の主調音をなしている。「拍節の最強声部たる第一句第一音と、同じく最強声部たる第四句第一音とに、最も強い対比的の音(陽と陰との反対する対比でもよい)をあたえ、且つ上三句を出来るだけ重韻にして畳みながら、下四句以下で調子を落して変える」。この押韻形式が短歌の一般的原則であり、この一首はその意味で「巧を尽した秀歌と言うべし」としている。 [#1字下げ] 参議等[#「参議等」はゴシック体](八八〇─九五一) 姓は源。嵯峨天皇の曾孫。父は中納言源|希《まれ》である。官は丹波守・太宰大弐《だざいのだいに》などを経て、死ぬ四年前の天暦元年(九四七)に参議となっているが、伝記はあきらかでない。作品は『後撰集』に「東路《あずまじ》の 佐野の船橋 かけてのみ 思ひ渡るを 知る人のなき」以下二首がみえるのみで、家集もなく、したがって歌人としての活動もよくわからない。 〈40〉|平《たいらの》 兼盛《かねもり》 [#5字下げ]拾遺集 巻十一・恋  |天暦 御時 歌合《てんりやくのおんときのうたあわせ》 [#1字下げ]忍《しの》ぶれど いろに出《い》でにけり わが恋は 物やおも|ふ《う》と 人のと|ふ《う》まで  忍びにしのんでいたけれども、私の恋はとうとう表情にあらわれてしまったのだなあ。思いわずらうことがあるのかと、ひとにたずねられるようなことになってしまったのだから。  忍ぶれど、は前作のそれとおなじつかいかた。「忍ぶ」は四段と上二段と両方に活用する動詞であるが、これは上二段の已然形に、接続詞「ど」がついたもの。物やおもふと、はものおもいしているのかと、の意。「物やおもふ」は係結び。  天暦御時というのは村上天皇の治世であるが、歌合の記録はおなじ村上天皇の天徳四年(九六〇)三月三十日のものが残っていて、廿番の右歌として、つぎの〈41〉壬生忠見の歌とあらそって勝っている。判者は藤原|実頼《さねより》。判辞は漢文で書かれているが、ほぼつぎのような経過であったことがわかる。実頼は左右の歌が共にすぐれていて優劣を決しかねると奏上すると、天皇はもうすこしよく鑑賞して決定せよと言った。実頼は、大納言源高明に決定をまかせたが、彼も「敬屈して」答えなかった。座がすこしざわめき、判者らは天皇の意向をさぐろうとするが、なかなかはっきりしない。その時、天皇が小声で兼盛の歌をくちずさんだらしいので、右勝ということにしてケリをつけた。  ことによると天皇は、双方の歌を比較するために、まず兼盛の歌を誦してみたというのにすぎなかったのかもしれない。実頼は、決定後も忠見の歌が甚だ好く思われ、依然として疑問を残した。この事件は有名な話で、無住《むじゆう》(臨済宗の僧・道暁一円)の『沙石集《しやせきしゆう》』(一二八三年ころ書かれた説話集)などにもくわしく伝えられている。  なおこの歌は、「恋しさを さらぬがほして 忍ぶれば 物や思ふと 見る人ぞとふ」の盗作ではないかという問題も、藤原|清輔《きよすけ》の『奥儀抄《おうぎしよう》』いらいやかましく論じられた。 [#1字下げ] 平兼盛[#「平兼盛」はゴシック体](?─九九〇) 光孝天皇の子孫篤行を父とし、天暦四年(九五〇)臣籍にくだり平氏を称した。一説に父篤行のころすでに平氏を称したともいう。山城介《やましろのすけ》・大監物《だいけんもつ》を経て、天元二年(九七九)駿河守となった。このとき源順や清原元輔らから歌をおくられているが、元輔の贈歌に「老の涙にくちなむものとは」とあるから、駿河守になったころはすでに相当老齢であったろう。漢学にすぐれ文才もあったが、また歌人としても優秀で三十六歌仙のひとりにあげられ、勅撰集にはいる歌は八十三首。家集に『兼盛集』がある。かれは歌を詠むのにたいへん熟考したひとらしく「かくの如く案じたならば、堪えることはできまい」といって元輔から非難されたという。なお、有名な女流歌人赤染衛門は兼盛の娘だというが確かでない。 〈41〉壬生忠見《みぶのただみ》 [#5字下げ]拾遺集 巻十一・恋  天暦御時歌合 [#1字下げ]恋す|てふ《ちよう》 わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思|ひ《い》そめしか  私が恋をしているという噂は、いちはやく広まってしまった。ひとしれず思いそめたのであったが。  恋すてふ、は恋をするという。「てふ」は平安朝期につくられた言いかたで、万葉集では「とふ」「ちふ」であったという。まだき、はまだその時に達しないという意味の副詞、「朝まだき」などの例あり。人知れずこそ、の「こそ」は強勢の助詞で、終りの「しか」と係結びをなす。思ひそめしか、は「思ひ初めき」の過去の助動詞「き」が係結びの関係で、已然形「しか」となったもの、したがってここは「しが」と濁ってはならぬとするのが、現代の一般の解釈である。  しかし、細川幽斎は、「有《あり》たりしが」の意味であるから「しが」と読むものとし、北村季吟以下、賀茂真淵などもその説である。概括して、近世以前の説の主なものは「しが」説であり、すくなくとも積極的に「しか」説を主張したものはない。近代に至って山田孝雄氏の『平安朝文法史』などを代表例として、「こそ」の結びとしての「しか」説になってきたのであるが、「しが」説も依熱として考察にあたいするものであることは、石田吉貞氏が『百人一首評釈』で詳細に論じている。  この歌は前述のように、平兼盛の「忍ぶれど」とあわせて鑑賞批評することの必要なもので、限られた百首のなかへ、定家がならべて収録したのもその意図があったわけであろう。俊成の『古来風体抄《こらいふうたいしよう》』にも二つならべて採っているが、為家の『詠歌一体』には、兼盛の作だけをあげている。どちらに味方するかは、古くからの批評家それぞれに説がある。同じテーマで、技術もほとんど伯仲しているのだから、相撲かなにかのように勝ち負けをきめるということがもともとバカげた話というほかはない。文学作品の評価は、本質的に結論と決定が無いということの方が真実なのである。 『沙石集』の「歌の故に命を失へる事」に伝えられている説話は、この歌合に敗北したので忠見はがっかりしてついに病んで死んだという話で、むろん造り話にすぎぬが、無住の書きぶりには芸術美談に仕立てたがっているらしいところもある。 [#1字下げ] 壬生忠見[#「壬生忠見」はゴシック体] 生没年不詳、〈30〉の「ありあけのつれなくみえし……」の作者壬生忠岑の子。幼名を多多、のちに忠実といい忠見とあらためた。幼いころから歌にたくみであったが、家は貧しく生活も生涯苦しかったという。はじめ蔵人所につとめ、のち御厨子所《みずしどころ》に出仕、天徳二年(九五八)摂津大目《せつつのだいもく》となった。天徳四年、選ばれて内裏歌合に加わったが、平兼盛と争って敗れた。忠見はこのとき、摂津から小袴をつけ、田舎衣のまま参加したという。家集に『忠見集』があり、清新な自然詠とともに、生活苦をあらわに語った作品もかなりある。勅撰集にはいる歌は三十六首。三十六歌仙のひとりである。 〈42〉清原元輔《きよはらのもとすけ》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十四・恋  心変り侍《はべ》りける女に人に代りて [#1字下げ]ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは  末の松山を波が越すことは絶対にないと言われていますが、私たちの仲もおなじようにけっして変ることのないようにと、たがいに涙に袖をしぼりながら約束したものでしたね。  ちぎりきな、は契《ちぎ》ったものですね、の意。「な」は感動の終助詞。一句切れの歌。散文表現では終りにくる述語を、倒置して冒頭に据えることによって強勢するかなり派手な技法である。かたみに、は互いに。しぼり、は後に「波」と言うための伏線的縁語。末の松山、は宮城県|多賀城《たがじよう》市に在る歌枕。海近くにはあるが、絶対に波をかぶらぬ位置と高さをもっていたので、そのたとえにひかれる。芭蕉の『奥の細道』に、この地の寺を訪ねる記事がある。波こさじ、は波が越さないで、「じ」は意志的な否定をあらわす助動詞の終止形。つまり、この一首は第一句と第五句の五字目との二度、終止形がつかわれている例で、それだけでも、かなり激した調子の歌ということになる。  古今集巻二十・東歌《あずまうた》にある「きみをおきて あだし心を わがもたば 末の松山 浪もこえなむ」を本歌としている。萩原朔太郎は、上三句は冷たい緊張の感を与えるような音韻をつかい、四句以下でそれをゆるめている。それゆえ、「どこか歯を食いしばって怨言する如き感覚をあたえる」と言い、「愛吟して飽きない名歌」と評価している。  詞書によれば、裏切った女へ送る歌を代作したのだということになるが、調子はかなりはげしいのにもかかわらず、どこかには約束したその時を懐顧的にいとおしんでいるようなしらべもあって、まずは作者じしんの心情の表現というところであろう。詞書を含めて、こういう作家意識のうまれているところが新しさである。 [#1字下げ] 清原元輔[#「清原元輔」はゴシック体](九〇八─九九〇) 父は下野守顕忠《しもつけのかみあきただ》、一説に下総守《しもうさのかみ》春光ともいうが、代々和歌をもってなった家柄に生れたことは確かである。深養父(〈36〉の作者)の孫で、清少納言の父。官は河内権少掾から、民部少丞・大丞などを経て、寛和二年(九八六)肥後守まで進んだ。歌人としては天暦五年(九五一)和歌所の寄人となり、万葉集に訓点をつけた。また梨壺《なしつぼ》の五人のひとりとして、大中臣能宣(〈49〉の作者)・源順・紀時文・坂上望城らとともに、梨壺(内裏後宮五舎の一)で後撰集の撰修にあたった。ユーモラスなひとがらで性格は明朗、歌風も明るく才気にみちて情趣ゆたかな作品が多い。勅撰集にとられている歌は約百五首、家集に『元輔集』がある。三十六歌仙のひとり。 〈43〉権中納言敦忠《ごんちゆうなごんあつただ》 [#5字下げ]拾遺集 巻十二・恋  題しらず [#1字下げ]あ|ひ《い》みての のちの心に くらぶれば むかしは物を 思|は《わ》ざりけり  女性を知り、恋を知るようになっていらい、人間のこころの動きの複雑さを経験するようになったのだが、そこからかんがえてみると、恋愛を知らなかった以前は、ものごとをずいぶん単純に観たりかんがえたりしていたものだとおもう。  ことばも技法も平明で、一読すらりとわかる良い歌である。ただし、この歌についての従来の一般の解はなかなか煩瑣《はんさ》である。逢ってみてから後の思いまさるこころにくらべると、逢わない前の思いなど、まったく恋の数に入らないほどのものだ、というふうな解が多いが、これを後朝《きぬぎぬ》の歌とするか否かというようなところで議論したりしている。『古今六帖』で、「後朝」の部に分類しているからであるが、契沖や真淵はその分類に反対で、真淵などは父の許さぬ恋人に逢ったばあいの歌だろうなどと、なかなか心理的に解釈している。景樹も、逢わぬ前は苦しく、逢ったあとはうれしいのがふつうなのに、これはすこし異常だなどと深追いしている。学者の局部的分析主義はこういうところまでゆくことがある。  もっとも、私の解もいささか独断にすぎる点はあるかもしれないが、恋愛経験によって人間は急速に感覚も感情も人生観も思想も複雑に豊かに成長するものであることは、むかしも今も同じである。つまり、「恋愛は人生の秘鑰《ひやく》なり」である。万葉歌人のうたったニヒリスティックな抒情が、現代のわれわれのこころをも充分に共感させることを思えば、人間存在の本質部分には、ちっとやそっとの時間経過では変化しない領域の存在することをおもわせる。恋愛などという心的過程はその最たるもので、十世紀初頭の歌人が、二十世紀の恋愛者の精神構造を言いあてたとしても、それほど不自然なこととはおもわれぬ。 [#1字下げ] 権中納言敦忠[#「権中納言敦忠」はゴシック体](九〇六─九四三) 藤原敦忠。本院中納言といい、また琵琶《びわ》中納言ともいわれた。左大臣藤原時平の三男、母は在原|棟梁《むねはり》(業平の子)の女《むすめ》という。彼女はもと時平の伯父大納言国経の妻であったが、懐妊中時平の妻としてかれに掠奪され、敦忠を生んだという説があり、事実は敦忠は国経の子であるともいわれる。十二歳で昇殿を許され、侍従・蔵人頭を経て参議となり、天慶五年(九四二)従三位権中納言に進んだが、翌年三十八歳の若さで没した。自らは時平の子として「われは命短き族なり。必ず死なむず」と短命を予期していたといわれるが、当時人々はかれの死を、菅原道真(〈24〉の作者)の怨霊《おんりよう》によるものと信じたという。三十六歌仙のひとりで、勅撰集にはいる歌は三十首、家集に『権中納言敦忠卿集』がある。なお、かれは和歌のほか音楽にもすぐれ、とくに琵琶は当時名声のあった源|博雅《ひろまさ》とならび称されるほどであったといわれる。 〈44〉中納言朝忠《ちゆうなごんあさただ》 [#5字下げ]拾遺集 巻十一・恋  天暦御時歌合に [#1字下げ]あ|ふ《う》ことの たえてしなくば 中々《なかなか》に 人をも身をも 恨みざらまし  恋人に逢うということがまったく無かったならば、かえって恋人を恨んだり、じぶんを恨んだりすることもないのであろうのに、一度だけ逢ったため、今はせつない思いをしている。  たえてし、は「絶えて」に強勢の助詞「し」がついたもの。絶対に、の意。中々に、かえって、いっそのこと。人をも身をも、はあの人をも、じぶんの身をもの意。恨みざらまし、は恨みずあらましのつづまった形。「まし」は、事実に反したことを仮想する助動詞。  この時代には恋愛にさえもいろいろな様式ができあがっていて、「忍恋《しのぶこい》」とか「逢不逢恋《あうてあわざるこい》」とか、それぞれのパターンによって名がつけられ、和歌の題詠の材料とされたわけである。この歌はもちろん「逢不逢恋」の見本で、一度は交渉ができるが、そのあと女がつれなくなるというタイプである。生命の充実感にあふれて、美しく成長してゆく恋が、平安朝期に存在しなかったはずはないが、そういう向日的な恋愛は歌の材料になりにくかった。消極的・否定的な、萎《しぼ》んでゆくようなタイプが平安朝歌人の美意識にマッチしていたのである。百人一首の恋の歌の内容は多くこの形である。もっともこの歌は、現在も逢いつづけているのであるが、時々逢っているからこそ恨みが絶えない、いっそまったく逢うことがなければ……という解をすることもできる。香川景樹から久松潜一氏に至るまでこの説は多い。  これも例の「天徳四年三月三十日内裏歌合」のときの十九番左作品で、右は藤原元真の、「きみ恋ふと かつはきえつつ ふるものを かくても生ける 身とやみるらむ」で、判辞は「左右の歌いとをかし。されど、左の歌は詞清《ことばきよ》げなりとて、以って左を勝となす」ということになっている。 [#1字下げ] 中納言朝忠[#「中納言朝忠」はゴシック体](九一〇?─九六六?) 藤原朝忠。別称、土御門《つちみかど》中納言ともいわれた。生年については延喜九年(九〇九)説もある。父は「〈25〉名にしおはば」の作者三条右大臣藤原定方、母は山蔭中納言の女《むすめ》という。九歳で昇殿、のち侍従・左中将・太宰大弐・右衛門督などを経て、応和三年(九六三)権中納言に進んだが、三年後に中風で没した。三十六歌仙のひとり。天徳四年の内裏歌合では左方の歌人として加わり、六番中五勝の成績をあげている。勅撰集にはいる歌は二十一首、家集に『権中納言朝忠卿集』がある。和漢の書を広くよみ、音楽にもすぐれたひとで、笙《しよう》を吹くのがじょうずであった。またかれは、たいへんな大食家で、その体は立居振るまいが苦しいほど肥満していたと伝説的につたえられるが、別にこれは朝忠の弟朝成のことを誤まってつたえたものだろうとする説が強い。 〈45〉謙徳公《けんとくこう》 [#5字下げ]拾遺集 巻十五・恋  物いひ侍《はべ》りける女の、後につれなく侍りて、さらにあはず侍りければ [#1字下げ]あ|は《わ》れとも い|ふ《う》べき人は おも|ほ《お》えで 身のいたづらに 成りぬべきかな  哀れにおもって同情してくれるひとがあろうとも思われないから、ひとりでさびしく私の命は滅びてゆくことでしょう。  おもほえで、は思われぬ。自然に思うの意の動詞「おもほゆ」の未然形に、「ずて」のつづまった接続助詞「で」の加わったもの。あろうとは思われぬの意になる。身のいたづら、はわが身のむなしくなってしまうこと。命が終ること。成りぬべきかな、はなってしまうだろうよ、くらいの意。「ぬ」は完了の助動詞、「べき」は推量の助動詞、「かな」は詠歎の助詞。「いふべき人」を相手の女性と解する説(季吟、景樹、久松潜一ら)があるが、幽斎や契沖は世間一般の人と解している。作者は藤原|伊尹《これただ》。  詞書を前提として理解する必要がある。恋人が背《そむ》いて行って、それきり逢うこともできなかったからうたったというわけである。女にふられたが、あきらめきれず未練を残している男の感情で、思いつめてどうやら健康までそこねているらしい。片恋は古くから新しい時代に至るまで日本の詩人の好むテーマで、「清き恋とや片し貝/われのみものを思ふより/恋はあふれて濁るとも/君に涙をかけましを……」とうたった島崎藤村の「別離」などもある。この歌の作者は、政治家としては摂政にまでなったひとであるが、詩人としてはケタ外れに気が弱かったというところであろうか。万葉集時代の女性が「相念《あいも》はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後《しりえ》に ぬかづくごとし」と男性的にユーモラスにうたったのと対比すれば、片恋をうたう平安朝の男性は、きわめて女性的にペシミスティックである。 [#1字下げ] 謙徳公[#「謙徳公」はゴシック体](九二四─九七二) 謙徳公藤原|伊尹《これただ》のこと。謙徳公は、その徳をたたえて死後に諡《おくりな》された称号である。父は九条右大臣|師輔《もろすけ》、母は武蔵守藤原経邦の女《むすめ》盛子、天慶四年(九四一)叙爵をうけ、のち蔵人頭・参議・近衛大将などを経て、天禄元年(九七〇)摂政、翌二年太政大臣となった。一条摂政ともよばれる。一夜にして寝殿を陸奥紙《みちのくがみ》ではりめぐらすなど、父師輔が遺言にその豪奢をいましめたというほど、性格は派手で、華美なことを好んだひととつたえられる。村上天皇の天暦五年、梨壺に設置された和歌所の別当(長官)として、いわゆる梨壺の五人とよばれる人たちに万葉集の訓読と後撰集の撰修を指揮している。才知があり、容貌も人なみ以上にすぐれていたといわれる。〈50〉の「君がためをしからざりし……」の作者藤原義孝はかれの子である。勅撰集にはいる歌三十八首。家集に『一条摂政御集』。 〈46〉|曾禰好忠《そねのよしただ》 [#5字下げ]新古今集 巻十一・恋  題不知 [#1字下げ]由良のとを 渡る舟人《ふなびと》 梶《かじ》をたえ ゆく|へ《え》もしらぬ 恋のみちかな  由良の瀬戸を渡る舟人が梶を失って行方もわからなくなるような、私の恋の道である。  由良のと、は由良の門《と》で、和歌山県にも京都にもあるが、作者は丹後(京都府)の地方官吏であったことがあるから、若狭湾の由良の海と解してよかろうと、富士谷御杖《ふじたにみつえ》(一八二三年没)は言っている。梶をたえ、は「梶緒絶え」と解し、梶を舟につなぎとめておく緒を失って、とする説がある(久松潜一、金子武雄等)。さらに、恋のみち、をじぶんの恋の道とする説が多いが、景樹や富士谷御杖は恋愛一般の実態として解釈している。上三句は下句の序である。  萩原朔太郎は「第一句の主音U(Yは子音であるからUに韻が掛ってくる)を、第四句で『行方』のUに対韻させ、且つ全体にUの母音を多く使ってるため、静かに浪のウネリを感じさせる音象を持ち、その点で比喩の想とよく合って居る。洗練された芸術がもつ『美』の観念をはっきり啓示してくれる歌である」と言っている。なお、朔太郎は「舟人」のところを「フナンド」と発音するよう特に註している。  新古今集|流布本《るふぼん》ではこのところを「ふな人」と記し、終りは「道かも」になっている。現代のよみかたは、ほぼ「フナビト」になっているようである。おなじ集には、この歌にすぐつづいて、「かぢをたえ ゆらの湊《みなと》に よる舟の 便りもしらぬ 沖つ潮風」という摂政太政大臣の歌がのっている。好忠の歌を本歌とした作品である。  由良の地を私は知らぬけれども、子供のころおぼえたこの歌と、中学生になってからよんだ薄田泣菫《すすきだきゆうきん》の「おもひで」とで、私には忘れがたい地名になっている。「春の夜はしづかに更けぬ/はゆま路の並木のけぶり/箱馬車は轍《わだち》をどりて/宮津より由良へ急ぎぬ」と、それはうたいはじめている。 [#1字下げ] 曾禰好忠」はゴシック体](九三〇?─一〇〇三?) 生没年・父祖ともに正確には不明。宮中に仕える希望をもちながら、一生を六位|丹後掾《たんごのじよう》の低い官位に終った。丹後掾であったことから、はじめ曾丹後掾を略して曾丹後とよばれたが、のちさらに略して曾丹とあだなされたので、かれはこれではいつソタとよばれるようになるかと、ひとり憤慨し歎いたという。自尊心が強く直情的な性格で、人と相容れなかったといわれ常軌を逸した言動が多くつたわる。寛和元年(九八五)円融院の子《ね》の日の遊びが船岡でおこなわれたとき、かれは烏帽子《えぼし》・狩衣《かりぎぬ》の姿であらわれ、招待もないのに来たことをとがめられると、自分はここにならぶ人たちに劣るとは思われぬと豪語して立ち去ろうともせず、ついに襟頸をとってひきずり出されたという話は有名である。このような性格を反映してか、かれの歌は新奇な用語、奇抜な題材を自由に取り入れ、当時の歌壇からは極度に異端視され排斥された。しかし後世になってその作品はあらたに見なおされ、新鮮な表現をもっているものとして高く評価されるようになった。家集に『曾丹集』があり、勅撰集にとられている歌は八十九首におよぶ。 〈47〉恵慶法師《えぎようほうし》 [#5字下げ]拾遺集 巻三・秋  河原院にて、荒《あれ》たる宿に秋来る、といふ心を人々詠み侍りけるに [#1字下げ]八重葎《やえむぐら》 しげれるやどの さびしきに 人こそみえね 秋は来にけり  ヤエムグラの繁っているこの家はさびしくて、誰ひとり訪ねてくるひともいないが、秋だけはおとずれて来たのだな。  八重葎は、茜草科《あかねか》。アカネに似た草。ただしここは、葎(雑草)の八重に繁っている姿と解することもできる。さびしきに、は淋しい姿をしているというほどの意。これを人の訪ねて来ない理由として解釈しない方がよい。みえね、はみえないけれども。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形で、「こそ」と係結びをなす。  河原院は、源融(〈14〉「みちのくの」の作者)の邸。融の在世中にはその庭を、塩釜の景に模して造り、豪華な邸宅であったが、この頃は融の死後百年ちかく経ち、荒廃していたものらしい。恵慶が、おなじときに詠んだとおもわれる歌が他にも二つある。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○すだきけむ 昔の人も なき宿に ただ蔭《かげ》するは 秋のよの月(後拾遺集)  ○草しげみ 庭こそあれて 年へぬれ わすれぬものは 秋のしら露(続古今集)  さらに、大江|匡房《まさふさ》のつぎの歌は、恵慶の作を本歌としている。  ○やへむぐら しげれる宿は 人もなし まばらに月の かげぞすみける(新古今集) [#ここで字下げ終わり]  四句切れの歌であるけれども、その句法がそれほど強く生かされているというわけではない。今からみれば発想も類型的で、とりたてていうほどの歌ではないが、そのわりにイヤ味はない。拾遺集秀歌十首の内と評価されたこともある作品である。 [#1字下げ] 恵慶法師[#「恵慶法師」はゴシック体] 生没年・父祖をはじめ、その伝記はほとんどわからない。花山《かざん》天皇の寛和ころのひとで、播磨の国分寺に属し仏典の講義などにあたった講師《こうじ》であったろうといわれる。平兼盛(〈40〉の作者)・源重之(〈48〉の作者)・大中臣能宣(〈49〉の作者)など、多くの歌人たちと交友があったらしい。勅撰集にはいっている歌は五十四首あり、『恵慶法師集』という家集もあるので、当時はかなりの歌人であったと思われる。恵慶法師のよみかたは、「ゑぎゃうほうしとよむべし」と、『百人一首一夕話』でとくに注意している。 〈48〉源《みなもとの》 重之《しげゆき》 [#5字下げ]詞花集 巻七・恋  |冷泉院 春宮《れいぜいいんしゆんきゆう》と申しける時百首奉りけるに詠める [#1字下げ]風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を おも|ふ《う》ころかな  風がはげしいので、岩にうちつける波が、はねかえされてじぶんだけ砕けて散るのとおなじように、私のばあいも、おもうひとは冷然としていて微動もせず、私のこころだけが千々にくだけてものおもいのいやまさるこのころなのです。  風をいたみ、は風がはげしいのでの意。〈1〉の「とまをあらみ」とおなじ用法。おのれのみ、は、波がおのれ(自分)だけ砕けるという意味と、私だけがこころを千々に砕いてという意味とが、重なりながら移動しているとかんがえる説と、「岩うつ波の」の「の」は、「のように」の意に用いる例は古くからある(たとえは「山どりの尾のしだり尾の」など)から、ここでも、岩うつ波のようにくだけて、とつづいてゆくという説とあり。  萩原朔太郎は、この歌もローマ字に書きあらためてみて、つぎのようにほめている。上三句で、tami, nami, nomi, の三重押韻を示し、第一句の主調音と、第四句の起頭音とを、K音で対韻させ、第五句以下を母音Oで延ばしてゆき、終りの方で再びK音を出して主調音を軽く対比させている。それは、「楽典的自然方則」にかなっている。〈39〉の「あさぢふの小野の篠原」の歌とおなじほど規範的な典型を示す。想としては一般の作であるが、音律効果の巧みから、「あだかも岩に浪が当って砕けつつ、海波の引去りまた激するように感覚せられる」。  人間の感情を風や波や岩のような自然物に反映させる発想は常識的だが、激しい波風の風景だから、イメージに一種の爽快さはある。けれどもおなじテーマを、まったく観念的にうたった〈45〉の、「あはれともいふべき人」に対比してみるとやはり、〈45〉は発想が女性的だからダメだなどとは言いきれぬのである。あれは、あれとしてこの時代の歌の新しさであったというべきであろう。 [#1字下げ] 源重之[#「源重之」はゴシック体] 生没年未詳。清和天皇の子貞元親王の孫。父は侍従源兼信。伯父の参議兼忠の養子となった。帯刀先生《たてわきせんじよう》(東宮警備の長)から、右近|将監《しようげん》・左馬介などを経て、貞元《じようげん》元年(九七六)相模|権守《ごんのかみ》となり、長保年中(九九九─一〇〇三)陸奥で没したという。三十六歌仙のひとりで、勅撰集にはいる歌は六十六首、『重之集』という家集もある。作品には旅の地名を入れたものが多い。旅を好んだひとらしく、九州や陸奥にくだり、播磨や但馬などにもおもむいている。陸奥ではその子を失い、自身もまた旅に死した。平兼盛(〈40〉の作者)と親交があったらしい。『拾遺和歌集』に「陸奥国名取郡黒塚といふ所に、重之が妹あまたありと聞きて、言ひ遣はしける」と詞書して、「みちのくの 安達《あだち》が原《はら》の 黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」とある。たわむれに女たちを鬼と称したのである。安達ケ原は福島県にあり、鬼がこもったとつたえられるところ。 〈49〉大中臣能宣《おおなかとみよしのぶ》 [#5字下げ]詞花集 巻七・恋  題しらず [#1字下げ]みかきもり 衛士《えじ》のたく火の 夜《よる》はもえて 昼は消えつつ 物をこそ思|へ《え》  宮中の門を守る衛士の焚くかがり火のように、夜は私の思いも燃えさかり、昼は私の命もたえだえに消え果てるかと思われるほどに、はげしい転変のなかで思い悶《もだ》えているのですよ。  みかきもり、は御垣守。宮中の諸門を護衛するもの。衛士、は諸国から交替で、宮中衛護のために招集されてきた兵士。御垣守の衛士のたく火である。夜はもえて、の「て」については異同がある。季吟・真淵・御杖・久松潜一氏などは「夜はもえ」説であるが、石田吉貞氏は、定家のえらんだ『二四代集《にしだいしゆう》』(安永本)が、「夜はもえて」となっているところから「て」を附ける説を主張している。『百人一首三奥抄』『百人一首一夕話』も「て」をつけてよんでいる。もっぱら調子のうえからだけ言えば、「もえて」と字余りにしてなめらかすぎるリズムを破った方が、ダイナミックにはなる。物をこそ思へ、は「物を思う」へ、強勢の「こそ」が入って係結びをなしている形。  この歌、『古今六帖』には「みかきもり 衛士のたく火の 昼は絶え 夜は燃えつつ……」として、作者不詳で記録されていることは多くのひとが注意している。木俣修氏はさらに、『和漢朗詠集』の「みかきもる 衛士のたく火は あらねども 我も心の うちにぞおもへ」、ならびに『中務集』の「みかき守 衛士の焚く火に あらねども 我れも心の うちにこそ焚け」などの類歌をあげ、作者を能宣とすることにいささか不安定のあることを論じている。ただし、木俣氏も注意しているが、これらの類歌に並べてみれば、百人一首の歌の声調がやはりもっともよく整っている。 [#1字下げ] 大中臣能宣[#「大中臣能宣」はゴシック体](九一二─九九一) 神祇《じんぎ》大副祭主頼基の子。頼基、能宣、その子輔親と、父子三代にわたり祭主で歌人であった。蔵人から讃岐|権掾《ごんのじよう》となり、神祇|少祐《しようゆう》を経て、天禄三年(九七二)神祇大副に進み、祭主となった。三十六歌仙のひとり。勅撰集にとられている歌は百二十四首、家集に『能宣朝臣集』がある。いわゆる天才肌の歌人ではなく、むしろ努力のひとであったといわれる。天暦五年、梨壺五人の中心となって、万葉集の訓点、後撰集の撰修にあたっている。エピソードに、かつて入道式部卿宮(敦実親王)の子《ね》の日の宴で、能宣は「千年《ちとせ》まで 限れる松も 今日よりは 君に引かれて 万代《よろずよ》や経む」と詠み、人々の賞讃をえたので喜び、さっそくこれを父頼基に告げたところ、頼基はこの歌をしばらく口ずさんだ後、いきなりそばの枕をとるや能宣になげつけ、浅慮至極、他日昇殿して天皇の子の日の宴に侍ろうときは、いかなる歌をよむか、と声を怒し叱責したという。 〈50〉藤原義孝《ふじわらのよしたか》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十二・恋  女の許《もと》より帰りて遣《つか》はしける [#1字下げ]君がため をしからざりし 命さ|へ《え》 ながくもがなと おも|ひ《い》けるかな  それまでは格別惜しくもないと思っていた私の命ですが、あなたを知るようになった今は、いつまでも永くあればよいと、ひたすらにおもうようになりました。  ことば、技法ともに平明で、そのまますらりと理解しうる歌である。をしからざりし命さへ、などというところがいかにも大げさにひびき、過去になにか、自殺でも決心するような深刻な事件でもあったのかなどとセンサクしてみたくなるかもしれないが、そういうのは散文的なよみかたということになるかもしれぬ。恋愛のよろこびを知って、現実も人生も、にわかに生き生きとゆたかに認識することができるようになった現在からふりかえってみれば、過去は、真実に生きていたとも思われぬほど平凡でもあり、無意味でもあった。そういう実感が「をしからざりし命」という表現になったというふうにかんがえたいところである。もっとも、この歌についても、古くからの解釈の多くは、詞書を律義に生かして、以前は、あなたに一度だけ逢うためにでも命をかけても惜しくないと思っていたが、目的をとげた今は命が惜しくなったという解釈が多い。なかには、以前あなたがつれない態度のときには死んでしまおうかと思ったが、という解釈をした江戸時代の研究者さえもいる。  萩原朔太郎は、おなじテーマをもった万葉集の二つの歌、「我が命は 惜しくもあらず さ丹《に》づらふ 君によりてぞ 長く欲《ほ》りてし」「恋ひつつも 後に逢はむと 思へこそ 己が命を 長く欲《ほ》りすれ」をあげ、「比較して此の歌(君がため)の方がずっと優っている。万葉集のは生硬である」と批評している。前述したように、恋愛をこういう肯定的な立場からうたう例がすくないから目立つけれども、惜しくない命という観念が前提されて出てくるところに、やはりこの時代の発想をみるべきであるとも言いうる。 [#1字下げ] 藤原義孝[#「藤原義孝」はゴシック体](九五四─九七四) 藤原伊尹(〈45〉の作者)の四男。二男・三男説もある。母は代明親王の女《むすめ》。兄|挙賢《たかかた》とともに左右の少将であったことから、挙賢を前将といい、義孝は後将とよばれた。十八歳で左近少将に進み、まもなく正五位下となったが天延二年(九七四)九月、二十一歳のとき天然痘がはやり、これにかかって兄は朝、義孝は夕方ともに没した。勅撰集にはいる歌は十二首、家集に『藤原義孝集』がある。十二歳のとき、たくみな連歌をものして人々を驚歎させたというほどの才人で、なかなかの美男子でもあったといわれる。またかれは熱心な仏教信者で、つねに法華経をよみ、臨終のさいも方便品《ほうべんぼん》を読誦しつつ死んだとつたえられる。能書家として有名な行成はかれの子である。 〈51〉藤原実方朝臣《ふじわらのさねかたのあそん》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十一・恋  女にはじめてつかはしける [#1字下げ]かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思|ひ《い》を  これほどまでに私は思いつめていると、それだけでも言うことができればよいのですが、それすらもしえないでいます。伊吹山《いぶきやま》のさしもぐさのように燃えている私の思いなどは、あなたはまったくごぞんじないでしょう。  かくとだに、はかくあるとだけでもの意。「だに」は強勢の助詞。えやはいぶき、は「えやは言ふ」の「いふ」を、伊吹の「いふ」に重ねた掛詞。伊吹の方は濁音になるが、掛詞では清濁を問わないことになっている。「え」が可能の副詞、「や」が疑問の助詞、「は」が詠歎の助詞。「やは」で反語になり、言うことができようか、できない、の形。伊吹は、滋賀県にも茨城県にもあるが、ここでは栃木県|下都賀《しもつが》郡の伊吹山とかんがえる説が最も有力。もぐさの名産地である。 『枕草子』にみえる「思ひだに かからぬ山の させも草 たれかいふきの さとは告げしぞ」と関連させて考証することが一般に行なわれている。さしも草、は艾《もぐさ》のこと。ヨモギの葉を乾してもんで、灸《きゆう》をすえるときにつかう。「さし」は灸をすえる意からついた接頭語。「注燃草《さしもぐさ》」の字をあてる説もあり、「もぐさ」は燃え草の意である。下につく「さしも」の「さし」と、「もゆる」とをひき出す役割をも果している。さしも、は「燃《さ》しも」で、「し」「も」は共に強勢の助詞。しらじな、の「な」は詠歎の助詞。四句切れの歌である。  為家は『詠歌一体』の、「かさね詞の事」の条で、無意味なかさね句は更々にあるべからずと前提して他に二首とともにこの歌をあげ、「これらは悪しからねど、すずろにこのすぢをこのみよむ事あるべからず」と言っている。この種の技巧は空疎にも類型的にもなり易いとしてあまり賛成していないようである。作者はとにかく、たいへんな技巧派で、この時代の作風としてひとつの典型であったことは事実であろう。つくりものの美であることはもちろんだが、これだけの技術はかんたんには獲得しえないだろう。同時に、これだけ、はなやかな歌をおくられるにふさわしい女性も、そうざらにいたとは思われない。 [#1字下げ] 藤原実方朝臣[#「藤原実方朝臣」はゴシック体](?─九九八) 侍従藤原定時の子で、左大臣|師尹《もろただ》の孫。父定時が早世したので、叔父の小一条大将済時の養子となった。一条天皇につかえ、侍従・右馬頭《うまのかみ》などを経て、正暦《しようりやく》五年(九九四)左近中将に進んだ。だが殿上において、頭中将藤原行成と口論し怒って行成の冠を打ち落したことから、一条天皇の機嫌を損い、長徳元年(九九五)陸奥守に左遷された。以後四年僻遠の地陸奥にあってそのまま没した。歌は拾遺集・後拾遺集以下の勅撰集に六十四首、家集『実方朝臣集』に二百五十首が収められている。家集に名のみえる女性はおよそ二十人、とくに小一条殿の少将|おもと《ヽヽヽ》とは深い関係にあったらしい。清少納言(〈62〉の作者)との恋愛関係も記されている。在原業平とともに賀茂神社にまつられ、鎌倉時代には歌の神として信仰をあつめた。実方は蔵人頭になれなかったことを恨んで死に、死後雀となって殿上の台盤壺の米を食ったなど、その伝説も多い。 〈52〉藤原道信朝臣《ふじわらのみちのぶのあそん》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十二・恋  女のもとより、雪ふり侍りける日、かへりてつかはしける [#1字下げ]あけぬれば くるる物とは しりながら 猶《なお》うらめしき 朝ぼらけかな  夜が明ければ、当然また日が暮れて、あなたに逢う時間がやってくるという理窟はわかっているのだけれども、やはり明け方というのはうらめしいものです。まして今朝は、雪明りのために、いっそう朝が早く明けたのでした。  猶、については富士谷御杖が『百人一首燈・草稿』で、「いとどの心也。これはその一筋をあらためぬ心にて、里言にやはりといふ心也、直《なお》といふと同じ義也」と註している。もっとも、御杖の歌そのものについての鑑賞と理解は、詞書の雪の日という条件を生かして解釈しようとして、いろいろ持って廻って、苦心というよりはムリをしている。大まかに言って、江戸時代の註釈書は、それぞれに新説を出して、独自性を争おうとするためらしく、必要以上に瑣末なところにひっかかり、作品全体を生きものとして鑑賞批評するよりは、解釈者の学識の見せ場として切りきざんでしまったようなところがある。一面またそれは、風巻景次郎氏も言ったように、近世の国学者たちの偶像破壊的な情熱のあらわれとして、いちがいに否定してはならないけれども、芸術の鑑賞ということは、理論的な精細と、革新的情熱だけでは必要にして充分とはいえないのである。そうかといって、学問的良心も、革新的偶像破壊意欲も存在しないところは、美の女神そのものが、てんから立ち寄ろうとも、振り向こうともしないところでもある。  後朝《きぬぎぬ》の歌の類型は、もっと夜が永ければよい、あまりに早く朝になってうらめしいというタイプで、この歌もその基本型を破りえてはいないが、ただ朝が来ればまた夜がくるというあたりまえの論理をもちこんで、ちょっと変化をつけたところにおもしろさがある。御杖が、雪明りのために、いよいよ朝が早まった、と作者の実感を指摘しているところは良いよみかたである。 [#1字下げ] 藤原道信朝臣[#「藤原道信朝臣」はゴシック体](九七二─九九四) 父は太政大臣藤原為光、母は謙徳公伊尹(〈45〉の作者)の女《むすめ》。九条右大臣|師輔《もろすけ》の孫である。九歳のとき摂政藤原兼家の養子となり、右兵衛佐《うひようえのすけ》・近江介などを経て、正暦二年(九九一)左近中将となったが、同五年二十三歳の若さで没した。したがって歌人としての活躍期間は短かいが、その作品で勅撰集にとられている歌は四十九首あり、『道信朝臣集』という家集もある。『大鏡』に「権中納言道信の君、いみじき和歌の上手にて、心にくきものにいはれ給ひしほどに、うせ給ひにき」とその早逝をいたんでいるので、おそらく当時は、天才的な夭折歌人として人々に惜しまれたものであっただろう。藤原実方(〈51〉の作者)や公任(〈55〉の作者)らとも親交があったらしい。 〈53〉右大将道綱母《うだいしようみちつなのはは》 [#5字下げ]拾遺集 巻十四・恋  入道摂政まかりたりけるに、かどをおそくあけければ、立ち煩《わずら》ひぬといひ入れて侍《はべ》りければ [#1字下げ]なげきつつ ひとりぬるよの 明くるまは いかに久しき ものとかはしる  なげきながらひとりで眠る夜の、朝が明けるまでの間は、どんなに永いものかということを、あなたはごぞんじないでしょう。  ぬるよ、は寝る夜。「ぬる」は下二段活用の動詞「寝《ぬ》」の連体形。ものとかはしる、の「か」は疑問の、「は」は詠歎の助詞で、〈51〉の「やは」とおなじように、「かは」で反語となる。知っているか? 知るまいとなる。  歌そのものは、これだけのことで、いかにも女性作品らしいところはあるが、とりたててすぐれているというほどのものではない。しかし、作者はよく知られた『蜻蛉日記《かげろうにつき》』の筆者であり、そのなかに兼家(入道摂政のこと)とのこのときのことも書かれているから、有名な話になっている。  十月の末ごろになって、三晩つづけて兼家が来なかった。夕方になってどうしても内裏へ行かなくてはならぬからなどと言って出かけることもあった。どうも変だから、人にあとをつけさせてみると、町の小路のさる家に泊ったという報告であった。やっぱりそうかと思って、ひどく気がふさいだが、どうしようもなかった。それから二、三日して暁方《あけがた》門を叩く者があった。彼だとはわかっていたが開けさせなかったから、又例の家へ行ったらしい。翌朝、「なげきつつ……」の歌をかいてしぼみかかった菊につけて届けさせた。彼からは、「げにやげに 冬の夜ならぬ 真木《まき》の戸も おそく明くるは わびしかりけり」とこたえてきた。──それが『蜻蛉日記』の記述である。  だから、拾遺集でのこの歌の詞書とはすこしちがっている。かなり心理的な複雑さを含むやりとりであるから、そのおもしろさはやはり散文でないと充分には出にくいところであろう。「うつろひたる菊」などは、まったくこころ憎いほどあざやかな小道具である。歌の詞書を事実と変えて単純にしたのも、作者が散文と和歌相互の独自性を知っていて意識的にしたことかもしれぬ。室生犀星の小説「かげろふの日記《にき》遺文」は、このくだりをたっぷり効果的に描きあげている。 [#1字下げ] 右大将道綱母[#「右大将道綱母」はゴシック体](?─九九五) 伊勢守藤原|倫寧《ともやす》の女《むすめ》。摂政藤原兼家の妻となって右大将道綱を生んだのでこうよばれる。本名は不明。二十歳のころ兼家の愛を入れ、道綱を生んだが、多情な夫・兼家には次々と愛人ができ、かつ性格のちがいもあってその夫婦生活は悲しみが多かった。『蜻蛉日記』は、天暦八年(九五四)から二十一年間にわたるそのような生活破綻の苦悩や悲しみを、妻であり、母である立場から克明に書きつづったものである。天延元年(九七三)以後兼家との交渉を絶ち、晩年は平静な日々をおくったらしい。歌人としてもすぐれていたらしく、『大鏡』には「きはめたる歌の上手におはしければ」とある。勅撰集にとられている歌は三十七首、家集に『道綱母集』がある。美貌であったのか、本朝三美人のひとりに数えられている。 〈54〉儀同三司母《ぎどうさんしのはは》 [#5字下げ]新古今集 巻十三・恋  中関白かよひそめ侍りけるころ [#1字下げ]わすれじの ゆく末までは かたければ |けふ《きよう》を限りの 命ともがな  いつまでも忘れまいとおっしゃるあなたのおことばの、行く末までのことは、はかりがたいことですから、むしろ幸福な今日を命の限りとしたいほどなのです。  わすれじのゆく末、の「じ」は打消・推量の助動詞の終止形。「わすれじ」は忘れまいの意であるが、同時にそれは男の言ったことばをそのまま直接話法でつかったことにもなる。また、「わすれじの」が主語の形となり、その行く末までは困難だからということになる。命ともがな、は命であってくれればよいの意。「も」と「な」は詠歎の助詞。「が」は願望の助詞。  詞書にみえる中関白は藤原道隆のこと。道隆が通いはじめの頃の歌というのだから、作者はまだ若い年頃であるのに、もののかんがえかたはすでにずいぶんペシミスティックである。もっともこの歌を、男の言葉が末永く信頼しがたいという意味ではなく、人間のいのちははかないもので、明日にもあなたに死なれるかもわからぬから、それくらいなら私が、今のよろこびの中で……という解もあるらしいが、それだといよいよ絶望的である。まだしも、あなたのことばなど、明日までも信用できないという意味に解すれば、消極的にペシミスティックな表現をとっているが、作者のモティーフにはむしろ男性への強烈な抗議あるいは皮肉が含まれていたともとれぬことはない。もっとも、こういう近代的な解釈とでもいうふうなものを私がつよく主張しようとおもうわけでもない。 [#1字下げ] 儀同三司母[#「儀同三司母」はゴシック体](?─九九六) 高階《たかしな》成忠の女《むすめ》。関白藤原道隆と結婚して天延元年(九七三)儀同三司藤原|伊周《これちか》を生んだのでこうよばれる。名は貴子《たかこ》。「儀同三司」とは、その儀《ヽ》礼が三司《ヽヽ》すなわち太政大臣・左大臣・右大臣に同《ヽ》じという意味で、准大臣の異称である。三司はまた三公ともいう。伊周は准大臣となったときみずからこの儀同三司を称したという。道隆の妻になる以前、円融天皇の内侍で従三位となり、高内侍《こうのないし》ともよばれた。伊周のほか、一条天皇の皇后定子、大宰帥藤原隆家を生んでいる。しかし夫の道隆死後は「この世をば我が世とぞ思ふ」藤原道長の全盛時代となり、伊周・隆家は道長との権力争いからともに左遷され、それによって皇后定子も落髪させられるなど、彼女の晩年はその子らとともに暗く不幸であった。漢学の素養があり、詩作にもすぐれていたといわれるが、勅撰集にはいる歌は五首にとどまる。 〈55〉大納言公任《だいなごんきんとう》 [#5字下げ]拾遺集 巻八・雑  大覚寺に人々あまたまかりたりけるにふるき滝を詠み侍りける [#1字下げ]滝のおとは たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて 猶聞《なおきこ》えけれ  滝の音は聞えなくなって時が久しく経ってしまったけれども、その名だけは世に流れ、伝えられて、今でも音にきこえている。  詞書は、嵯峨の大覚寺に行ったとき、古い滝をみてよんだというのである。大覚寺は嵯峨上皇が住んだ寺で、その庭園に滝をつくったことは知られている。嵯峨天皇の在位は八〇九年から八二三年まで、公任のうまれたのは九五四年以後(諸説あり)であるから、すでに庭園も荒廃にまかされていたのであろう。  この歌、異本には第一句が「滝の糸は」となっているものが多い。久松潜一氏は、「滝」「流れて」「聞えけれ」等の縁語的関係から見れば、「滝の音」の方がよいようである、と言っている。さらに、千載集巻十六・雑にも、この歌はのっている。  |衣川 長秋《ころもがわちようしゆう》の『百人一首峯のかけはし』(文化三年刊)には、「滝サエカウヂヤニヨツテ勿論人ハ一代名ハ末代ヂヤゾヘ」と附記している。富士谷御杖の『百人一首燈・草稿』にも、「これをおもへば人も一生ははかない物ぢや故、せめてからだがないやうになつたあとで、いついつまでも人のいひ出すほど、よい名を残したい物ぢやなあ」とある。  十九世紀初頭(文化・文政期)国学者のイデオロギイによる寓意にほかならぬが、歌そのものにも、こういうおまけを引き出させ易い通俗性がある。萩原朔太郎は、「想としては詰《つま》らぬ歌であるけれども」、タ音とナ音の規則正しい頭韻で目立つとし、久松潜一氏もナ音の頭韻のことを言っている。 [#1字下げ] 大納言公任[#「大納言公任」はゴシック体](九六六─一〇四一) 藤原公任。四条大納言ともいう。藤原道長の全盛期に活躍した四納言のひとりである。父は三条太政大臣頼忠、母は代明親王の女《むすめ》。上流貴族のめぐまれた環境に育ち、十七歳で侍従、のち参議・権中納言などを経て、寛弘六年(一〇〇九)権大納言に進み、正二位にいたったが、この官位はかれの意にみたず、万寿元年(一〇二四)不満のうちに官を辞し、まもなく出家して北山長谷に住んだ。 [#1字下げ] 博学多才であったが、名誉心・自負心が強く感情家でもあったという。和漢の学にすぐれ、和歌をよく詠み、能書家であり、音楽にもたくみであった。かつて藤原道長が大堰河に詩歌管絃の船を浮かべ、各々にその道に名のある人びとを分乗させたとき、多芸な公任は、さてそのいずれの船を選ぶであろうと道長がいったという話が『大鏡』にみえる。 [#1字下げ] またかれは歌人として後世、貫之、定家とともに中古の三歌人といわれるが、当時の歌壇においても多くの人びとから畏敬されたらしく、藤原長能はその歌をかれに非難され、ついに不食の病を発して死んだという話がつたえられる。勅撰集にはいる歌は八十八首、『新撰髄脳』『和歌九品』『金玉集』『三十六人撰』『和漢朗詠集』など多くの著書がある。 〈56〉和泉《いずみ》式部《しきぶ》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十三・恋  心地《ここち》れいならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける [#1字下げ]あらざら|む《ん》 此世《このよ》のほかの おも|ひ《い》でに 今ひとたびの あ|ふ《う》こともがな  私がこの世にいなくなってから、あの世における思い出のために、せめてもう一度だけおめにかかることができればとおもいます。  あらざらむ、はいなくなってしまうであろうの意。むは推量の助動詞、連体形。此世のほか、は現世の外、つまり死んでから行くあの世。あふこともがな、は逢いたいことであるの意。  詞書によれば、心地例ならず、つまり病気で調子のわるいときに、恋びとにおくった歌というわけである。作者はもちろん、『和泉式部日記』の筆者である。当時の女性文学者として紫式部も清少納言もともに和泉式部とは交友があった。紫式部は日記のなかで和泉式部の批評をして、 「歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、かたのことはり、まことの歌よみざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもにかならずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り」  と言っている。本格的な歌人ではないが、即興的な着想におもしろさを発揮することがあるという程の意味であろう。富士谷御杖はこの批評に言及して、紫式部は散文作家としては一流だが、歌では和泉式部の方が上だと言っている。亀井勝一郎氏も、『王朝の求道と色好み』で、おなじくこの紫式部の文章を引用しながら、和泉式部の多彩な恋愛生活をもかんがえあわせ、彼女を「ある意味では王朝の正統派」であり、「同時にその�崩れ�」であったとみたうえで、その歌は「即興的に、或るときはやけくそのように、歌い棄てる面があった」と言っている。萩原朔太郎も、即興詩人のアヌンチャタか、椿姫のマーガリットか、などといくらか冷かし半分のようなことを言いながら、この一首の母音のほとんどすべてはA、O、Iのみごとな対称によって構成されていることに注目している。なお、『改観抄』はこの歌の結句を「あふよしもがな」としるしている。 [#1字下げ] 和泉式部[#「和泉式部」はゴシック体] 生没年不明。康保年間(九六四以後)に大江|雅致《まさむね》の女として生れたとの説あり。冷泉《れいぜい》天皇の皇后昌子に仕え、和泉守橘道貞の妻となり、和泉式部の名をえた。小式部内侍(〈60〉の作者)はその時の娘である。その後、冷泉天皇の子|弾正宮 為尊《だんじようのみやためたか》、その弟|帥宮敦道《そちのみやたつみち》(彼との約一カ年にわたる交渉をしるしたのが『和泉式部日記』である。もっとも、それは偽作かもしれぬという説はかなり多い)、藤原|保昌《やすまさ》とつぎつぎに結婚し、その間に道命阿闍梨《どうみようあじやり》との情事のことなども知られている。紫式部、清少納言、赤染衛門など同時代人で、それぞれに交流があった。中古三十六歌仙のひとり。勅撰集に二百四十首ちかく採られている。『和泉式部集』に千五百首ほど歌が記録されている。 〈57〉紫式部《むらさきしきぶ》 [#5字下げ]新古今集 巻十六・雑  はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、 七月十日のころ、月にきほひてかへり侍りければ [#1字下げ]めぐりあ|ひ《い》て みしやそれとも わかぬ間に 雲隠《くもがく》れにし よ|は《わ》の月かな  久しぶりにめぐりあって、そのひとかどうかはっきりたしかめる間もなく、すぐにまた夜半の月が雲にかくれるように、そのひとの姿はみえなくなってしまった。  詞書は、幼友だちに永年を経て偶然に行き会ったが、たちまち、月と競争するように帰ってしまった。七月十日のころのことであった、という意味である。十日ころの月は夜なかに没する。めぐりあひて、は幼友だちにめぐりあっての意だが、同時に月の縁語としても用いられている。みしやそれとも、は見たのはその人かどうかともの意。わかぬ間、は判断がつかぬうちにの意。「わか」は、判別の意の「わく(分く)」の未然形。  北村季吟は、この歌は「忘るなよ ほどは雲井に なりぬとも 空行く月の めぐりあふまで」(橘忠基、拾遺集・巻九)から出た歌か、と言っている。しかし、橘忠基の歌は詞書からも知られるように、女と別れるときの歌であるが、紫式部の歌は単なる幼友だちのことにすぎぬだろう。金子武雄氏も女友だちであろうと言っている。忠基の歌へしいて結びつける必要はあるまい。会ったとか別れたとか言えば、すぐ男女の間になるような類型性が、この時代の歌にはたしかに存在する。なによりもこの作者の『源氏物語』がそういうパターンをつくったようなところがある。しかし、そういう作者の現実生活そのものは、男女関係において乱れがすくなかったということもある。むしろ恋愛を予想しないでよむことによって、かえってちょっとした短篇小説のような世界のうかびあがってくる歌である。なお、新古今集では結句が「よはの月かげ」である。『改観抄』も「よはの月影」としるしている。 [#1字下げ] 紫式部[#「紫式部」はゴシック体](九七八?─一〇一六?) 父藤原為時の家にも、母方摂津守為信の家にも代々歌人が輩出している。『白氏文集』や『史記』によく通じていたらしい。藤原宣孝と結婚し、賢子(〈58〉の作者|大弐三位《だいにのさんみ》)をもうけたが、夫と死別。夫の死によりさらに生活・人生に対する眼をひらかれ『源氏物語』に手をそめはじめる。そののち中宮上東門院彰子に仕えたが、このころのことは『紫式部日記』にしるされている。藤原道長が歌を贈って求愛したが拒絶したと言い伝えられている。再婚はしなかったらしい。家集は『紫式部集』。勅撰集には六十首ちかく入っている。中古三十六歌仙(和泉式部以下平安朝歌人三十六人をえらんでいる。別に、人麿以下三十六人の「三十六歌仙」もある)のうち。 〈58〉大弐三位《だいにのさんみ》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十二・恋  かれがれなるをとこの、おぼつかなくなどいひたりけるに詠《よ》める [#1字下げ]ありま山 ゐなのささ原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする  貴方《あなた》はそんなことをおっしゃいますが、私の方はどうして貴方のことを忘れましょうか、忘れはいたしませんよ。(久松潜一『八代集選釈』による)。  詞書は離々《かれがれ》になりがちな男から、あなたの心がおぼつかないというようなことを言ってきたから詠んだ、というこころ。ありま山、兵庫県有馬郡にあり。現在、どれか特定の山と固定しがたい。ゐなのささ原、は「猪名野の笹原」か「猪名の笹原」かという考証もあるが、いずれにしろ猪名川下流の平野で、兵庫県川辺郡の東南部から大阪府豊能郡の西南部にわたる地。「しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿はなくして」(万葉集・巻七)などのごとく、有馬山と猪名野は、古くからセットになった歌枕である。いでそよ、の「いで」は感動詞、「さあ」とか「そうだ」とかいうふうに人を誘《いざ》なう形。「そよ」は、代名詞「そ(それ)」に、感動詞「よ」がついたことばで、それですよ、というほどの意。同時に、笹に風が渡って「そよ」と鳴る擬音をも含ませている。「いでそよ」で、さあそこですよというところ。忘れやはする、は係結びをなし、また反語となる。  この和歌を、口語散文に訳すことは、ほとんど絶望的に不可能である。多くの訳者が「いでそよ」のところで悪戦苦闘している。なかでは、木俣修氏の『百人一首の読み方』での訳がもっともよくできているとおもうが、私はここでは思いあきらめて、久松潜一氏の文章を借りた。散文で原作のニュアンスを出すことがほとんど不可能ならば、いっそこの方がさっぱりしている。外国の詩の翻訳なども、たぶんこういうものかとおもった。百人一首の英訳などというものも数種類あるが、どんなものであろうか。  うたっていることがらは、単純でもあり、新しくも珍らしくもなく、へんてつもないものにすぎないが、それをここまで、ことばの唐草模様《アラベスク》のように仕上げていることは、それだけでも充分におどろいてよいことである。 「いでそよ」のところなど、文法的にはここで終止形になるわけだから、歌格のうえでは第四句が割れていることになるが、歌柄としての統一感と流動感はそこなわれていないのである。実用的にはゼロだが、その分だけ繊細精巧に仕上げられたガラス細工のミニュアチアを見るようなおもいがする。 [#1字下げ] 大弐三位[#「大弐三位」はゴシック体] 生没年不明。名を賢子といい、父は藤原宣孝で母は紫式部。正三位太宰大弐|高階《たかしな》成章の妻になってから大弐三位と呼ばれた。また越後弁(弁《べん》の局《つぼね》)とも言われる。後一条天皇の乳母にもうひとり大弐三位がいるが別人。『狭衣《さごろも》物語』の作者となす説が四辻善成の『河海抄《かかいしよう》』(源氏物語研究書)いらい行なわれたことがあるが、藤岡作太郎の研究によって、ほぼ否定された。家集『大弐三位集』あり。勅撰集に三十七首作品が残っている。 〈59〉赤染衛門《あかぞめえもん》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十二・恋  なかの関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり。たのめてこざりけるつとめて、女にかはりて詠《よ》める [#1字下げ]やすら|は《わ》で ねなましものを さよふけて かたぶくまでの 月をみしかな  ぐずぐずとためらっていないで寝てしまえばよかったのに、しだいに夜がふけ、とうとう西の山へ傾いてゆく月を見てしまったのですよ。  やすらはで、は躊躇しないでの意。「やすらふ」は休息する、ためらうの意。ねなましものを、は寝てしまえばよかったのに。「まし」は事実と反対なことを仮定・推量する助動詞。さよ(小夜)、の「さ」は接頭語。かたぶく、は傾く。  詞書は、中関白(藤原道隆─この人物は〈54〉の作者・儀同三司母とも関係があった)の少将時代、作者の妹(はらから、だから姉かもしれぬ)に言い寄った。或る夜来ると言って待たせておいて来なかったので、その翌朝、妹にかわって詠み送ったという意。それだから、女が男に、恨みをのべているところである。しかし、これは作者がじぶんのことを歌っているわけではないから、実感をもとにした歌ということは言えない。歌の内容としては、〈21〉の素性法師「今こむと いひしばかりに なが月の……」とおなじことである。そして、あの歌のばあいも、虚構による方法意識の芽生えがみられるということに私は触れたが、この歌についてもおなじことが言えるわけである。ただ、そういうなり立ちの歌がともに、月にかこつけて表現するという同じ発想になっているところが、方法意識とは言いながら、すぐ類型におちてしまうよりほかないほど、たよりないものであったということにも気づかざるをえない。  なおこの歌は『|馬内侍 集《うまのないししゆう》』にもみえるものであるが、そうすると馬内侍の歌の代作を赤染衛門がしたということになるのだろうか。この点については『改観抄』も注目して疑問をのこしている。 [#1字下げ] 赤染衛門[#「赤染衛門」はゴシック体] 生没年未詳。母ははじめ平兼盛の妻であったが、妊娠したまま離別し、赤染|時用《ときもち》に再嫁した。そこで生れたのが赤染衛門だといわれている。道長の妻|倫子《りんこ》に仕え、上東門院にも仕えたらしいが、のち文章博士大江|匡衡《まさひら》の妻となって子|挙周《たかちか》・江侍従をえている。和泉式部と並称された才女で、中古三十六歌仙のひとり。夫匡衡が藤原公任から中納言を辞する旨の上表文を頼まれて書き悩んでいたところ、衛門がそばから「我身沈淪之由」と書いてはどうかとたすけをだして、公任によろこばれたという。また子の挙周が病気になったとき、住吉神社に「代らむと 言ひし命は 惜しからで さても別れむ ことぞ悲しき」以下三首の和歌を書きおさめたところ、白髪の老人が夢のなかでその書を手にしてよんで、挙周は全快したという。自らの生涯を歌によってあらわした『赤染衛門集』があり、『栄華物語』の作者に擬せられてもいる。勅撰集には九十三首残っている。 〈60〉小式部内侍《こしきぶのないし》 [#5字下げ]金葉集 巻九・雑  和泉式部、保昌にぐして丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌詠みにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌いかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立けるを、ひきとどめて詠める [#1字下げ]大江山《おおえやま》 幾野《いくの》のみちの 遠ければ まだふみもみず 天《あま》の橋立《はしだて》  大江山を過ぎ、幾野(生野)を通ってゆく路は遠いものですから、さらにその奥にある天の橋立の名所を見たこともなく、その地からの手紙《ふみ》さえもまだ見ていません。  大江山は京都府加佐郡と与謝郡の境にその名の山があり、加佐郡には大江町もあるが、この大江山は今の生野《いくの》(京都府福知山市)よりは北に在り、京都を基準にして言えば、大江山─幾野(生野)─天の橋立という道程にはならぬからそれではなく、今の京都市から亀岡市篠町へ越える大枝坂《おおえざか》(老《おい》の坂《さか》ともいう)とみるべきであるという説が有力。新古今集巻五の、「大江山 かたぶく月の 影さえて 鳥羽田《とばだ》の面《おも》に 落つるかりがね」(慈円)は明らかに山城国と丹波国の境の山をさすわけで、『拾穂抄』もこの歌をあげて、おなじ大江山としている。『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』にもこの歌は収録されていて、これは「大枝山」とかいている。しかし、山としては丹後の大江山の方がれっきとしたものである。武田祐吉著『通解名歌辞典』の解は、丹後の大江山説で、「丹後の国の大江山へ行く生野の道は遠いので、その国の天の橋立は踏んでもみないばかりか、その国にいる母からの手紙も見ていません」と訳している。この解の方がしぜんかもしれない。久松潜一氏も丹後大江山説である。まだふみもみず、はもちろん「文(手紙)」と「踏み」を掛けている。  詞書からは、若い小式部内侍が歌合の選手にえらばれたが、彼女の作歌は母親の和泉式部の協力があるものと一般に思われていたらしいことが知られる。それだから定頼が、ねたみ半分にからかい、歌合用の作品が、まだ丹後の母から届かなくて心配だろうとおせっかいを言った。そこでこの才ばしった少女が定頼をものかげによんで、この歌を示したというわけである。定頼は完全に一本とられた。「定頼卿おもひの外に呆《あき》れて、こはいかに、かかるやうやはあるとばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖をひきはなちて逃られけり」と、『百人一首一夕話』はしるしている。 [#1字下げ] 小式部内侍[#「小式部内侍」はゴシック体](?─一〇二五?) 父は橘道貞、母は和泉式部。母が藤原保昌に再嫁したとき、いっしょに連れていかれた。母と同じく一条中宮上東門院に仕え、のち、木幡僧正静円を生み、滋井頭中将藤原公成に愛されて阿闍梨《あじやり》頼仁を生んだという。宮中賢所(内侍所)の掌侍《しようじ》であったから内侍の名がついた。「大江山」の歌の出来る話は有名で、「十訓抄《じつきんしよう》」などにも引いて彼女の才気を語っているが若死にして、作品は勅撰集にも八首残るだけである。 〈61〉伊勢大輔《いせのたいふ》 [#5字下げ]詞花集 巻一・春  一条院御時、ならの八重桜を人の奉《たてまつ》りけるを、其の折御前に侍りければ、その花を題にて歌詠めとおほせごとありければ [#1字下げ]いにし|へ《え》の 奈良のみやこの 八重桜《やえざくら》 |けふ《きよう》九重《ここのえ》に に|ほひ《おい》ぬるかな  むかしの奈良の都の八重桜が、今日は宮中にいっそう美しく咲きかがやいています。  詞書は、一条天皇のとき、奈良から八重桜をとどけてきたひとがあり、それを題にしてよめと言われたから、というわけである。九重、は漢語の王城の門を九重にめぐらしてあるというところから出た九重《きゆうちよう》を訓読してつくったことば。宮城の意。にほひ、は匂うではなく、咲き栄えるくらいのところ。「朝日ににほふ山桜ばな」のごとし。 『伊勢大輔集』にも入っていて、この方は詞書がややくわしく、その時の情景を描写している。新米の若い女官が即興によまされた歌であるから、このくらいソツなくまとまっていれば大出来ということになったのであろう。いにしえと今を対応させ、八重と九重の数字のアヤでまとめたわけだから、祝い歌としてはほぼ合格というところである。大正初年版の八代集の活字本などで、詞花集秀逸十首の一なり、などと頭註しているものもあるが、いつごろからそういうことが言われはじめたのかはよくわからない。 [#1字下げ] 伊勢大輔[#「伊勢大輔」はゴシック体] 生没年不詳。神祇伯祭主大中臣輔親の女《むすめ》、大中臣家は頼基・能宣(〈49〉の作者)・輔親と、代々歌人の家柄としてよく知られている。上東門院彰子に仕えた女房で、のち筑前守高階成順の妻となっている。和泉式部・紫式部・赤染衛門・小式部内侍らとともに梨壺の五歌仙と呼ばれ、上東門院菊合、弘徽殿女御《こきでんのにようご》十番歌合、内裏歌合、皇后宮春秋歌合などに出席。父輔親と夫成順の死とがつづいて剃髪したらしい。中古三十六歌仙のひとり、家集『伊勢大輔集』。勅撰集に五十一首撰入。「伊勢大輔」のよみかたは石田吉貞氏の『百人一首評解』の説に従った。 〈62〉清少納言《せいしようなごん》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十六・雑  大納言行成、物語などし侍りけるに、内の物いみにこもればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされてといひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関《かんこくかん》のことにやといひ遺《つかわ》したりけるを、立帰り、是は逢坂の関に侍るとあれば詠み侍りける [#1字下げ]夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに|あふ《おう》坂の 関はゆるさじ  夜の明けないうちに、鶏の鳴き真似をして関所の門を開けさせた函谷関での孟嘗君《もうしようくん》の手をつかおうとなさっても、逢坂の関所は、けっしてそのようにはゆきませんよ。  詞書の話はつぎのようなことである。大納言藤原行成がある夜来て、物語などしていたが、明日は宮中の物忌《ものいみ》にこもらなくてはならぬからと言っていそいで帰って行った。その翌朝、「昨夜は鶏の声にうながされて早く帰ってしまいました」と言って来たから、「その夜ふけの鶏の声というのは例の函谷関の鶏のたぐいですか」と返事をしてやると、「いや、それは逢坂の関のです」と言ってきたから、この歌をよんで送ったというわけである。『枕草子』一三六段(日本古典文学大系)には、この話がさらに詳しくかいてある。「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鳥鳴かぬにも あけて待つとか」という歌が行成から返ってきた、云々。函谷関の故事というのは、『史記列伝』中の孟嘗君伝にみえる有名な話。孟嘗君は戦国時代の人、食客三千人を養っていた。秦にとらわれたが、逃げて函谷関に至り、食客中の鶏の鳴き真似の巧な者に鶏鳴を告げさせ、関所の門を開けさせて無事に逃れた。  鳥のそら音ははかるとも、は鳥のそら鳴きを謀《はか》ろうとも。よに、は元は「世に」であるが、しだいに「決して」くらいの意の副詞になった。 『紫式部日記』は、清少納言の批評もして、「したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真字《まな》書きちらし侍るほども(漢学の才をひけらかすこと)、よく見れば、まだいとたへぬこと(充分でない点)おほかり」と言っている。 [#1字下げ] 清少納言[#「清少納言」はゴシック体] 生没年不詳。〈36〉の作者清原深養父の曾孫で、〈42〉の作者清原元輔の女《むすめ》。代々学者の家柄で、彼女もはやくから漢書、仏典、万葉・古今の和歌、物語などにしたしんだが、このとき身につけた豊かな教養は、一条天皇の皇后定子に仕え敬愛されたことから芽をふき、当時のいわゆる四納言、公任《きんとう》・俊賢《としかた》・斉信《ときのぶ》・行成《ゆきなり》らと優雅をきそうようになった。感覚鋭敏、しかも機智に富んでいて、いわば宮中の花形となったが、しかし長保二年(一〇〇〇)定子の死とともに宮仕えをやめてしまい、晩年は尼となって淋しく過ごしたという。この間に橘則光、藤原棟世と結婚しているが、いずれも失敗におわっている。紫式部の『源氏物語』と並称される随筆『枕草子』は、ことわるまでもなく彼女のものであるが、その彼女にも和歌はうまく詠めず、父の歌人としての名声を傷つけるのではないかとおそれていたと一般にはいわれている。中古三十六歌仙の一人。『清少納言集』あり。勅撰集には十五首入っている。 〈63〉左京大夫道雅《さきようのだいぶみちまさ》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十三・恋  伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひける事を、おほやけもきこしめして、まもりめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ詠み侍りける [#1字下げ]いまはただ おも|ひ《い》たえな|む《ん》と ばかりを 人づてならで い|ふ《う》よしもがな  こうなってしまった今はもう、ひたすらにあなたとの仲をあきらめてしまうほかないのだけれども、それをせめて人づてでなくて、直接に逢っておつたえするてだてはないのかとおもうのですが……。  おもひたえなむ、は「思ひ絶えなむ」。思い切ってしまおう。人づて、は人伝、他人を介して。いふよし、は言う由《よし》。言う手段。  詞書にしるしていることは、伊勢の斎宮あたりから来ている人と忍んで恋をしていたが、そのことが天皇にきこえて、女性の方に番人《まもりめ》までついてしまって、かくれて会うこともできなくなったから詠んだ、というわけである。このときの歌は、おなじ集に次の三首とともに録されている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○逢坂は 東路《あずまじ》とこそ ききしかど 心づくしの せきにぞありける  ○榊葉《さかきば》の ゆふしでかけし そのかみに おしかへしても 渡る頃かな  ○みちのくの 緒絶《おだえ》の橋や 是《これ》ならむ ふみみふまずみ 心まど|は《わ》す [#ここで字下げ終わり] 『百人一首一夕話』によると、相手の女性は三条天皇第一皇女|当子《まさこ》で、伊勢の斎宮(天皇即位ごとに、伊勢神宮奉仕のためにつかわされる未婚の皇女)となっていたが、帰ってから、道雅との恋仲が知られ、父天皇の命令で厳重に警戒されて、手が出なくなったという。そこで、これら悲痛な歌がつくられたわけである。  四首ならべてみると、やはり百人一首に入れた歌が、ひたすらなうたいぶりでもっともすぐれている。藤原清輔の『袋草紙』(一一五九)では、これらは「まさしきすぢ」(正しき筋)の秀歌である。歌の形の上で言えば、この程度の作品は「まことならぬ」歌(作者の実惑によらぬ、つくりものの歌の意)にいくらでもあろう。「歌まことなりとて、歌のよくよまるるにはあらねど、よむべき道ありてよめる歌なれば、そのまことに感ぜられる故に、秀歌とも沙汰せらるるなり」と言っている。 [#1字下げ] 左京大夫道雅[#「左京大夫道雅」はゴシック体](九九二─一〇五四?) 姓は藤原。父は儀同三司藤原|伊周《これちか》、母は源重光の女《むすめ》。幼名を松君という。春宮亮《とうぐうのすけ》、蔵人頭、右京大夫を経て、寛徳二年(一〇四五)左京大夫にすすんでいる。『栄花物語』によると道雅が二十四、五歳のころ三条天皇の皇女前斎宮当子のもとにしげく通って、天皇の逆鱗《げきりん》にふれ、当子は尼となり、その六、七年後に亡くなったという。道雅はこのころ秀れた歌を多く残したといわれている。勅撰集には七首。 〈64〉権中納言定頼《ごんちゆうなごんさだより》 [#5字下げ]千載集巻六・冬  宇治にまかりて侍りける時詠める [#1字下げ] 朝ぼらけ 宇治の川霧 絶《た》えだえに あら|は《わ》れ渡る 瀬々《せぜ》の網代木《あじろぎ》  朝方になって夜が白みはじめると、宇治の川霧もすこしずつ散りはじめて、あちらこちらの瀬瀬の網代木が、霧の間からあらわれてくる。  網代は、魚をとるために川の中に張った竹の簀《す》。地方によっては簗《やな》ともいう。網代を張るために水中に打ち込んだ杙《くい》が網代木である。宇治川では、冬になると網代で氷魚《ひお》をとるので有名である。  純然たる自然詠で、くせのない、良い歌である。〈31〉坂上是則の作も、おなじように第一句が「朝ぼらけ」で、おなじく冬の歌、さらにおなじく、くせのない自然詠であった。のみならず、両作品とも体言止め(名詞、代名詞で終る歌)である点まで共通している。  もっとも、この作品の名詞止めについては、久松潜一氏の批評がある。「よみこんだ情景の割合に感慨にものたらぬ所があるのは、名詞止─それも(網代)木というような音声的にも情味の乏しい言葉である─にしてあり、静的な対象をよむに静的な表現を以てしたことになり、印象が余りにおちつきすぎた為ではないか」と。  自然は、人間がそこから産れてきた母胎であると同時に、人間はつねに母なる自然(原始)に叛逆しながら文化をうちたててゆこうとするものである。人間は、自然に根源的に拘束されているからこそ、それに反抗しようとするのである。人工的・技巧的な美をつくりあげることが、その時代の主導的な意志になっているときに、同時に自然の美しさへの自覚と認識が深められるということは、矛盾ではなく、しんじつに人間的・現実的なことと言えよう。  作者の、長和三年春日神社行幸|供奉《ぐぶ》のときの喧嘩出入りは有名な話で、『一夕話』もくわしく伝えている。小式部内侍をからかって、みごとに一本とられたのもこの作者である(〈60〉参照)。あわてて、返歌もしえないで逃げ出したところには、かえって憎めないおかしささえもあった。人間に軽率なところもあったらしいが、こういう歌をよむようなさらりとした一面もあったということになろうか。 [#1字下げ] 権中納言定頼[#「権中納言定頼」はゴシック体](九九五─一〇四四?) 藤原公任(〈55〉の作者)の長子。三条天皇の供をして春日神社に参詣したとき、定頼の従者と敦明親王の供のものとの間に悶着がおこり、定頼は親王方のものを一方的に打ちすえ、これが原因で行事の役を五年間もとりあげられたことなどもあったが、しかし一条天皇が嵐山に遊んだとき「水もなく 見え渡るかな 大井河 峯の紅葉は 雨と降れども」と歌って同行した人たちを感心させたという話もまたひろく知られている。侍従、右近衛少将を経て、寛仁四年(一〇二〇)参議に任じ、権中納言三位になった。長久二年(一〇四一)父に死別し、のち正二位兵部卿をかねたが、寛徳元年(一〇四四)病をえて官をやめて出家し、翌年没す。中古三十六歌仙のひとりで、歌は『後拾遺集』以下勅撰集に四十六首入っている。 〈65〉相《さが》 模《み》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十四・恋  永承六年、内裏《だいり》歌合に [#1字下げ]うらみわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽《く》ちな|む《ん》 名こそ惜《お》しけれ  ひとのつれなさを恨みに思いわずらって、涙にぬれた袖を乾かす暇さえもないのに、そのうえ恋のために名前まで朽ち果ててしまうことは、なんとしても残念です。  うらみわび、は恨み侘びである。他人を恨み、じぶんを侘びしく思うという解もあり、なかなか理路整然としているが、それほど区画整理をする必要はかならずしもあるまい。ほさぬ袖だに、は乾かさぬ袖さえの意。袖が涙にぬれっ放しの状態である。恋に朽ちなむ、は恋のために朽ちてしまうであろうの意。「なむ」は完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」に、推量の助動詞「む」の接続した形。ほさぬ袖、と朽ちる名と対応させている。名こそ惜しけれ、は係結びをなしている。  詞書にある永承六年内裏歌合は、五月五日に行なわれ、相模の歌は五番の左で、勝った歌である。右は右近少将源経俊朝臣作、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○したもゆる 歎きをだにも 知らせばや たくひの影の しるしばかりに [#ここで字下げ終わり]  であった。『栄花物語』に記述がある。  吉井勇の『百人一首夜話』は、「長い間つれなかった人を恨んで、悲しい涙の乾いた時のない自分の袖でさえまだこうやって腐らないでいるのに、この恋のために朽て果てるだろうなどとあらぬ噂を言われるのはいかにも口惜しい」と解している。これは、古い宗祇や荷田在満《かだのありまろ》の解とおなじものであるが、契沖の『改観抄』で、「袖さへある物をとよめるを、袖はくちやすき物なるに、それさへ朽《くち》ずして有《ある》をと心得たる註あり、用(ふ)べからず」と反対している。 [#1字下げ] 相 模[#「相 模」はゴシック体] 生没年不詳。父は源頼光、母は能登守慶滋保章の女《むすめ》と考えられ、長保年間の生まれと推察される。乙侍従の名で宮仕えをしつつ歌をつくっていたが、やがて大江|公資《きみすけ》に望まれて妻となり、夫の任国相模へくだった。相模の呼び名はここに由来する。夫公資も歌人であり、あるとき彼が大外記《だいげき》の官を希望し、諸卿がそれを協議していたところ、右大臣|実資《さねすけ》に、公資は相模を懐抱し秀歌を案じて公事《くじ》を闕《か》きはしないかと笑われ、ついに任官を得なかったという。 [#1字下げ] ことのほか和歌にこころをくだいた夫婦であったが、しかしうまくいかず別れ、相模はふたたび、一品宮《いつぽんのみや》祐子内親王に女房として出仕した。歌壇では一流の女流歌人として敬愛され、範永《のりなが》・経衡《つねひら》らと交渉をもちつつ、多くの歌合の作者となった。長久二年(一〇四一)弘徽殿女御十番歌合には左方の撰者となり、家経とともに難判をくわえたことは有名。中古三十六歌仙のひとりで家集『相模集』がある。『後拾遺集』には四十首入り、勅撰集には計百八首ほど入っている。 〈66〉|前大僧正 行尊《さきのだいそうじようぎようそん》 [#5字下げ]金葉集 巻九・雑  大峯にておもひもかけずさくらの花の咲たりけるをみて詠める [#1字下げ]もろともに あ|は《わ》れとおも|へ《え》 山桜 花よりほかに しる人もなし  山桜よ、おたがいにしたしみをもって相寄ろうではないか。この山奥で青葉にかこまれて思いがけず美しく咲いている桜を知っているのは私だけだし、私の淋しさを知ってくれるのもおまえだけなのだから。  あはれ、はここでは哀れではなく、なつかしく思う、親しむというくらいの意。おもへ、は命令形。二句切れの歌。  詞書によれば、大峯にこもっていたときの歌ということであるが、『今鏡』、第八「御子達」の章に、「大峯にて、後冷泉院|失《う》せさせ給ひて、世の憂きことなど思ひ乱れて籠り居て侍りけるに、後三条院位に即《つ》かせ給ひて後、七月《ふみづき》七日参るべき由、仰せられければ、詠める」と説明がついている。しかし、石田吉貞氏は、後冷泉院の死んだ年には行尊はまだ十四歳だから、この記述は信じられないという意見である。大峯は、奈良県吉野郡熊野川の上流にある山で、山伏修行の霊山である。「おもひもかけず」についても説がある。  契沖は、季節のうえで卯月(四月)の桜が思いがけなかったと解すべきでなく、「深山木《みやまぎ》はおほかた常磐木《ときわぎ》にて有(る)中に、桜のまれに有をいふなり」と主張し、「われもまた見しれる草木さへなければ花より外の知人なきことを、諸共にあはれとおもへとはよみ給へり」と解している。真淵は春の山入りは四月だから、やはり季節的なおどろきであるという説である。  思うに、当時は旧暦なのだから、四月中に大峯の山奥に桜が咲くとは思われぬ。『今鏡』の、七月七日というのは、旧暦にしても逆にすこしおそすぎるようだが、高い山の上ならその頃桜の咲くのもまったく不自然ということもない。それにしてもおそい時期だから一種の狂い咲きでおもいがけなかったのであろうし、山の新緑の間にすくない桜がながめられて、孤独な作者の心情にそれだけこたえたのだろうとは思われる。 『奥の細道』で芭蕉が湯殿山に登ったのは六月九日で、桜のつぼみが半分ほど開きはじめていた。「行尊僧正の歌の哀《あわれ》も爰《ここ》に思ひ出《いで》て、猶《なほ》まさりて覚ゆ」としるしている。 [#1字下げ] 前大僧正行尊[#「前大僧正行尊」はゴシック体](一〇五五─一一三五) 三条院の皇子小一条院敦明親王の孫で、参議源基平の三男。中納言藤原良頼の女《むすめ》が母。十歳で父を失い、十二歳で近江の園城寺に入って出家し、十七歳で諸国行脚の旅にでた。このころすでに奇跡がおこり、山路に迷って岩の間に臥していると、童子が現われて枕をすすめたと伝えられている。保安四年(一一二三)に延暦寺の座主《ざす》となり、翌々年に大僧正に任ぜられた。山伏修験の行者として誉れ高く、加持祈祷によって病魔を追い払ったという。彼は絵や書道にも堪能で、和歌は『金葉集』『詞花集』『新古今集』などの勅撰集に四十七首収められている。家集に『行尊大僧正集』がある。 〈67〉周防内侍《すおうのないし》 [#5字下げ]千載集 巻十六・雑  二月ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして、物語などし侍りけるに、内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家是を枕にとて、かひなをみすの下よりさし入れて侍りければ詠み侍りける [#1字下げ]春の夜《よ》の 夢ばかりなる 手枕《たまくら》に か|ひ《い》なくたた|む《ん》 名こそをしけれ  春の短夜の、夢のようなはかない手枕のために、いわれのない浮名などたてられることにでもなれば、私は口惜しい思いがいたしますものを。  夢ばかりなる、は夢ほどの短かくはかない間という意。夢ばかりなる手枕とつづく。かひなく、は甲斐なくで、効果なく無益に等の意。むなしく、根拠なくというほどの意にかんがえられる。「腕《かいな》」に掛けてある。たたむ、は立つであろう。名こそをしけれ、は係結びの形。浮名、悪名の立つのは残念だというこころ。  詞書は、二月ごろの月夜に二条院に集って物語などしているとき、周防内侍が横になって、「枕がほしい」と小声で言った。大納言忠家がそれをきいて、これを枕にしなさいと、簾《みす》の下からじぶんの腕をさし入れたので詠んだ、というわけである。相当に大胆になまめかしい話である。千載集は、この歌につづいて忠家の返した歌も記録している。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○契《ちぎり》ありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき [#ここで字下げ終わり]  これらの歌の急所は「手枕」に在り、しかもそれは詞書を無視してはまったく意味が成り立たぬことになる。つまり、歌が詞書に依存し、あるいは詞書と歌が一体になっている。そのことを、歌としての内在的な独立性がすくなくなったというふうに否定的に観るかどうかは議論の余地のあるところだが、それだけ歌の発想が物語的になってきているということは、明らかに言いうることである。 [#1字下げ] 周防内侍[#「周防内侍」はゴシック体] 生没年不詳。名を仲子といい、周防守平継仲の女《むすめ》。平棟仲の女ともいう。治暦《じりやく》元年(一〇六五)ごろ後冷泉天皇に仕え、白河・堀河両天皇にもつかえた。説話に、寛治七年(一〇九三)郁芳門院歌合で「恋ひわびて ながむる空の 浮雲や 我が下萌《したばえ》の 煙なるらむ」と歌って郁芳門院が席をはずしたというのがある。高陽院歌合、鳥羽殿前栽歌合、中宮権大夫|能実《よしざね》家歌合、備中守仲実朝臣女子|根合《ねあわせ》などにくわわっているが、天仁元年(一一〇八)以後三年の間に出家し、日を経ずして没したという。勅撰集、私撰集、歌合などあわせると百首あまりの歌がみられる。中古三十六歌仙のひとり。家集に『周防内侍集』がある。勅撰集に三十五首入っている。 〈68〉|三条 院《さんじようのいん》 [#5字下げ]後拾遺集 巻十五・雑  例ならずおはしまして、位などさらむと覚しめしける頃、月のあかかりけるを御覧じて [#1字下げ]こころにも あらでうき世に ながら|へ《え》ば 恋しかるべき 夜半《よわ》の月かな  こころにもなく、この憂き世に今からのちも生き永らえるならば、今夜のこの夜なかの月が恋しく思い出されることになるだろう。  こころにもあらで、は不本意ながら、自分の意志でなく。ながらへば、は生き永らえるならば。恋しかるべき、は恋しくなるにちがいないの意。「恋しかる」は、形容詞「恋し」の連体形。「べき」は、推量の助動詞「べし」の連体形。 『栄花物語』や『大鏡』に作者のことは出ている。在位中に二度までも皇居の火事があった。生来病弱で、眼病もあった。藤原道長がじぶんの孫の敦成《あつひら》親王に譲らせたがって圧迫を加え、それも憂鬱の原因であった。十二月中旬、この歌をつくり、翌年一月には九歳の敦成(後一条天皇)に位をゆずった。詞書に、例ならず、というのは病気のことである。眼病をわずらっている天皇が冬の月をながめて、憂き世をかなしんでいるのだから悲劇的である。「秋にまた あはむあはじも 知らぬ身は こよひばかりの 月をだに見む」という歌も『詞花集』に入っている。失明してしまったら、もうこの美しい月は見られないという不安を底において詠んでいる歌とみられるだろう。 [#1字下げ] 三条院[#「三条院」はゴシック体](九七六─一〇一七) 三条天皇のこと。第六十七代の天皇で、冷泉天皇の第二子。名を居貞《おきさだ》といい、母は太政大臣藤原兼家の女|超子《ちようし》である。在位五年で皇位を九歳の東宮敦成親王(後一条天皇)に譲らなければならなかった。ひとつには病弱、ひとつには左大臣藤原道長の策謀による。寛仁元年四月出家して法名を金剛浄といい、同年五月三条院において四十二歳で死んだ。『後拾遺集』以下に八首入っている。 〈69〉能因法師《のういんほうし》 [#5字下げ]後拾遺集 巻五・秋  永承四年内裏歌合に詠める [#1字下げ]嵐ふく 三室《みむろ》の山の 紅葉ばは 竜田《たつた》の川の にしきなりけり  嵐の吹いている三室山の紅葉は、散り落ちてやがて竜田川に流れこみ、その川の錦となっている。  三室の山、は奈良県高市郡飛鳥村(今は明日香《あすか》村)の雷岡《かみおか》説、生駒郡|神南備山《かんなびやま》説などがあって定説なし。竜田川、は立田川とも書く。〈17〉業平の歌にも詠まれている。これにも諸説あり。この歌については奈良県生駒郡、神奈備山の麓を流れる川ということにして解する説が多い。  古今集巻五の、読人しらず「たつた川 もみぢながるる 神なびの みむろの山に 時雨《しぐれ》ふるらし」を元にしてよんでいるのであるが、古今集のこの巻には竜田川の紅葉の歌が多く、作者たちは実景をみないで歌をつくっているので、しだいに混乱してくるわけである。つまり、大和としては地理的に矛盾があるので、契沖は『改観抄』でそれを指摘した。 「三諸山は、|雷 岳《イカヅチノヲカ》とも神岳ともいひて高市郡にあり。(略)竜田川は立田山のふもとにながれて平群《ヘグリ》郡なれば、高市郡よりこと郡(他の郡)をも隔て遥に西北に当りて、川のながれさへことなれば、みむろの山のもみぢこれにながるべきにあらず。いにしへも地理をよく考られざりけるにや、おぼつかなし」。  本居宣長の実証主義は、そのところをさらに執拗につつき出している。神なび山と立田川は山城国(京都府)にある山と川で、古今集巻五の「神《かん》なびの 山を過《すぎ》ゆく 秋なれば 立田河にぞ ぬさはたむくる」、ならびに『源重行集』の「白浪の 立田の河を 出《いで》しより 後くやしきは 船路なりけり」は、ともに山城国のものである。ところが、神なび山も立田も大和(奈良県)に古くからある有名な山や地名であったから、この古今集の歌もいつか大和の歌ということになってしまった。やがて、契沖までそう思いこむようなことになった。  宣長は、「そもそも大和の立田は、万葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれもいづれも山をのみよみて、川をよめるは一つも見えず、その外の古書にも、立田は山とのみこそあれ、川はあることなし」と言っている(『玉勝間』、一の巻「立田川」)。また宣長は、おなじ書で他に二回、立田川について論じている。  前の業平の歌にしても、この能因の歌にしても、要するに実体のない歌枕と化した観念によってつくっているわけだから、三室山や竜田川を実証的・地理的に決定しようとすれば不安定と矛盾の出てくるのは当然ということになる。百人一首でのこの二つの歌が、ともにおなじ発想で、すでに類型化しているのもおなじところに原因がある。しかし、こういう「二度目は茶番」ふうなものからも、契沖や宣長の実証主義的調査は引き出されてくるわけで、こちらの方はほんものの学問のたのしさというべきものを、垣間《かいま》みせてくれるわけである。 [#1字下げ] 能因法師[#「能因法師」はゴシック体] 生没年不詳。ただし永延二年(九八八)から永承五年(一〇五〇)にかけて生存したことだけは確認されている。俗名を橘|永《ながやす》といい、遠江守|忠望《ただもち》の子。のち兄の肥後守|元《もとやす》(橘|諸兄《もろえ》の末孫)の養子となった。一説には元とある。はじめ文章生となり、肥後|進士《しんじ》と号した。歌人藤原長能家の門前で車が故障し、それを機縁に長能を師として歌を学んだという。これはまた歌道に正式の師弟関係をむすんだ最初であるという。三十歳のころ出家して融因といいまた能因と改めて摂津国古曾部に住んだ。これ以後ほぼ三十年間歌に生涯をかけて、数多く歌合に連なり、旅をして歌才をいっそうみがいた。「都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白川の関」の歌は実際には京都にいて詠んだにもかかわらず、陸奥へ修業に出て詠んだものといって披露したという。中古三十六歌仙のひとり。自撰家集『能因法師集』があり、『後拾遺集』以下に六十七首入っている。 〈70〉良暹法師《りようぜんほうし》 [#5字下げ]後拾遺集 巻四・秋  題しらず [#1字下げ]さびしさに やどを立ち出《い》でて ながむれば いづくもおなじ 秋の夕暮  そぞろにこころさびしくなって、家を出てあたりの風景をながめてみるが、やはりおなじようにうらぶれた秋の夕暮である。  語法、句法、用語、修辞ともに平易に素直で、ひと息によみくだし、理解することができる。秋のむなしい淋しさが、かなり実感的にとらえられた歌である。やど、は家とか庵室とかいうところであろう。  石田吉貞氏は、『百人一首評解』に、定家自筆小倉色紙の写真版をかかげている。「立ち出でて」のところを、「立ち出《い》で」とよんでいる書物も古くからあり、そこで「たちいで」か「たちいでて」かということが出てくるわけだが、定家は「たちいでて」と書いているからそれに従うべきだという主張を、それによって石田氏は基礎づけているわけである。「いでて」の例は、〈4〉の歌、〈15〉の歌にもある。  さらに、この歌で、「いづく」か「いづこ」かということもある。現行の活字本などにもこの両方のよみかたが並行している。後拾遺集では「いづく」である。『改観抄』『拾穂抄』『一夕話』『百人一首燈』なども「いづく」である。しかし、「小倉色紙」は、「いづこ」のようにみえる。石田吉貞氏も「いづこ」である。もうひとつ、これは「小倉色紙」だけであり、中島悦次氏が「百人一首歌出典私考」で指摘しているところであるが、「ながむれば」はやはり、「ながむれど」とよめる。ここは石田氏も、「ながむれば」とよんでいる。文法的には「ば」も、「ど」もともに動詞の已然形について、逆接の助詞になる語である。「眺むれ」は、マ行下二段活用動詞「眺む」の已然形であるから、どちらも正格であり、意味も変らぬということになる。原作者がどちらをつかったか。定家が写しちがえたか。意識的に改作したか。現行『後拾遺集』および百人一首の「ば」はいつ固定したか。すべて未解決のようである。 [#1字下げ] 良暹法師[#「良暹法師」はゴシック体] 生没・経歴ともによくわからない。一説に叡山祇園別当の子であったといい、藤原実方の女童《めのわらべ》の白菊という人が母だという。歌をよくし『後拾遺』『金葉』『詞花』『千載』『新古今』の諸集に三十三首収められているが、また『袋草紙』『古今著聞集』『十訓抄』などにいろいろな逸話も記録されている。後拾遺集の素意法師との応答歌によって、山城国|愛宕《おたぎ》郡大原に住んだことが知られる。『一夕話』には、この大原の僧房が当時まで残っていて、その障子に良暹のかいた「山ざとの かひもあるかな 時鳥《ほととぎす》 ことしも待たで はつね聞きつる」という歌がのこっていると書いている。 〈71〉大納言経信《だいなごんつねのぶ》 [#5字下げ]金葉集 巻三・秋  師賢《もろかた》朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風と言へる事を詠める [#1字下げ]ゆ|ふ《う》されば 門田《かどた》の稲葉 おとづれて 蘆《あし》のまろ屋に 秋風ぞふく  夕方になると、家の前の田の稲の葉を鳴らせて秋風が渡り、蘆で葺いた田舎家のあたりにも風の立っているのが感じられる。  ゆふされば、は夕方が来るの意。夕去るではない。「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜《こよい》は鳴かず い寝《ね》にけらしも」(舒明《じよめい》天皇、万葉集巻八)などの用例から、「夕されば 熱高まりぬ 梨もかも かてほしからず 牛の乳《ち》もいや」(正岡子規)など、現代にも詩語として生きている。門田、は家のあたりの田。おとづれ、は音を立てるが原義で、訪ずれるの意になるのであるが、ここでは風の音にも通わせている。蘆のまろ屋、は蘆で葺いた丸い屋根の田舎家、農家。  詞書にみえるように、作者らは梅津の山里(山城国|葛野《かどの》郡、今の京都市右京区)に住む師賢の家へ吟行したわけであるから、稔りちかい稲田や、蘆のまろ屋を、風景として眺めているだけにすぎない。モティーフは生産的な農村風景などということばにまったく無縁な歌にすぎないけれども、とにかくこの程度にでも、生活につながりのある材料が、比較的原形をそこなわないでうたいこまれている作品として、百人一首のなかでこれがほとんど唯一のものである。〈1〉の「秋の田のかりほの庵の……」にも似たようなところはあるが、あの歌よりはもうすこし主観的で、その分だけ感傷的にひびくところがあるが、〈70〉の良暹の歌などにくらべれば、感傷がすらっとしている。 [#1字下げ] 大納言経信[#「大納言経信」はゴシック体](一〇一六─一〇九七) 源経信。世に桂大納言と称する。白河天皇が大井河に遊んだとき、詩と歌と管絃とをそれぞれ受けもった船を浮かべて、それぞれの道に才を誇る人たちが分乗した。そのとき、経信は遅れてきて川岸より「いづれの船なりとも寄せ給へ」と声をかけたという。円融天皇のときに、やはり藤原公任がこの三船に乗ったことがあるので、このふたりを「三船の才」と呼んだという。このひとつの話からでも察せられるように、経信はなかなか博学多芸であり、藤原|通俊《みちとし》が白河天皇の勅命で編んだ『後拾遺集』に不満をおぼえ、自ら『難後拾遺集』を著して批判したこともひろく知られている。民部卿道方の六子で、母は播磨守源国盛の女。寛治五年(一〇九一)大納言となり、嘉保元年(一〇九四)に太宰権帥となり、任地へおもむき、承徳元年その地で没した。蹴鞠の名手としても知られ、漢詩もよくし、家集『大納言経信卿集』がある。中古三十六歌仙のひとり。勅撰集に八十七首入っている。 〈72〉祐子内親王家《ゆうしないしんのうけの》紀伊《き》 [#5字下げ]金葉集 巻八・恋  かへし [#1字下げ]おとにきく 高師の浜の あだ浪《なみ》は かけじや袖の ぬれもこそすれ  よく知られた高師の浜のあだ浪が、私の身辺まではとどかないように用心します。袖がしたたかに濡れてしまうのですから。  おとにきく、は噂に高い、評判の等の意。高師の浜、は大阪府高石市の浜。「たかし」は、音が高いの意にもひびかせている。あだ浪、は徒浪・仇浪、むだに立ち騒ぐ波、仇情《あだなさけ》・仇花《あだばな》などと同じ造語、「そこひなき 淵やはさわぐ 山川の あさき瀬にこそ あだ波は立て」(古今集・素性法師)。かけじや、は掛けまいの意、「じ」は打消の助動詞、「や」は詠歎の助詞、ここで終止形になる。ぬれもこそすれ、は「ぬれる」を二重に強勢した形、「も」は詠歎の助詞、「こそ」が入って係りになるから、サ変の動詞「す」の已然を結びとして「すれ」となる。  詞書「かへし」は、返歌の意である。この歌はもと、康和四年(一一〇二)五月の、「堀河院|艶書《えんしよ》歌合」のときの十八番の歌で、十七番の俊忠中将の歌と組み合わせになっている。俊忠作は、「人しれぬ 思ひありその 浜かぜに 波のよるこそ いはまほしけれ」であり、それへの返し、が祐子内親王紀伊の歌である(俊忠の歌は、『日本古典文学大系』本では右のようになっているが、『金葉集』では、第五句「いかまほしけれ」となっている)。  人知れぬ思いをいだいているから、浜風にのって波の寄る夜にあなたに声をかけたいと俊忠がうたいかけたのに対し、紀伊がこたえて、評判の、高師の浜の仇波のような浮気男のあなたに、うっかり口はきくまい、結局は私が泣きの涙に袖をぬらすことになるのだから、ということである。  艶書歌合などというものが行なわれるようになるところまで、当時の貴族社会における文学意識には、一種危険な芸能化がきざしていたわけだが、それだけ純然たることばのあそび意識も明確になっていたわけであろう。この一組のやりとりなども、実生活還元の条件ゼロであることを予定しなくては、とてもこれほどむきつけなエロティシズムや、男性嘲弄は表現として成立しえないはずである。 [#1字下げ] 祐子内親王家紀伊[#「祐子内親王家紀伊」はゴシック体] 生没年不詳。父は民部大輔平経方とも紀伊守重経ともいわれている。母は小弁《しようべん》。後朱雀院《ごすざくいん》中宮[#「女+原」、unicode5AC4]子に出仕し、中宮紀伊と呼ばれ、のち[#「女+原」、unicode5AC4]子の子で高倉邸に住んだ祐子内親王に仕えたので、高倉一宮紀伊とも呼ばれた。歌人としてすぐれ、堀河太郎百首、高陽院歌合、堀河院艶書歌合などの作者に選ばれ、『後拾遺集』以下に二十九首入っている。家集に『祐子内親王家紀伊集』がある。「紀伊」のよみかたについては、『一夕話』に「紀伊の二字をかな一字にて|き《ヽ》とよむ事なり」。およそ日本六十余国のうち仮名一字によむのは「摂津」を「つ」とよむのと、「紀伊」を「き」とよむのと二つだけだと註している。 〈73〉権中納言匡房《ごんちゆうなごんまさふさ》 [#5字下げ]後拾遺集 巻一・春  内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌詠み侍りけるに、遥《はる》かに山の桜を望むといふ心を詠める [#1字下げ]たかさごの 尾《お》の上《え》の桜 咲きにけり 外山《とやま》の霞《かすみ》 たたずもあらな|む《ん》  遠くの山の峯の桜が美しく咲いた。この眺めをさえぎることのないように、近くの山に霞が立たないようにしてほしいものだ。  たかさごの、は単なる山の意。〈34〉にうたわれた兵庫県加古川市の高砂とする説と、「尾上」の枕詞とする説などもあるが、『拾穂抄』で「童蒙抄」の説をひいて、「山の惣名也。……播磨の高砂にはあらず」と言っているのに従うのが妥当である。尾の上、は峯の意、山の「尾」は頂上から裾までの傾斜地のすべてを指す。外山は、深山に対し里に近い山。あらなむ、はあってほしいの意、「なむ」は願望の助詞で、助動詞のなむとはちがう。動詞、助動詞の未然形につく。〈26〉の、「今ひとたびのみゆきまたなむ」もおなじ。  詞書の、「内のおほいまうち君」は、内大臣藤原|師通《もろみち》のことである。古今集巻一、よみ人しらず「山ざくら 我《わが》みにくれば はるがすみ 峯にも尾にも 立ちかくしつつ」によって詠んだ作であろうとおもわれる。もっとも、この歌と匡房の歌とを本歌取の関係としてかんがえるのは無理になるだろう。本歌取の技術を方法的に規定しようとして苦心したのは定家で、その詳細については、石田吉貞氏の『藤原定家の研究』に論述されているが、定家が『毎月抄』で、「春の歌をば秋冬などによみかへ、恋の歌などをば雑や季の歌などにて、しかもその歌をとれるよと聞ゆるやうによみなすべきにて候」と言っていることばなどに照しても、この匡房の歌は、本歌取としても上等な出来ばえとは言いがたいのである。即席の題詠としてみても、それほどの作ではない。香川景樹がかなりはげしく否定的であったというのも理由のないことではない。 [#1字下げ] 権中納言匡房[#「権中納言匡房」はゴシック体] (一〇四一─一一一一) 姓は大江。赤染衛門の曾孫にあたり信濃守成衡の子。四歳のときから書を読み、八歳ですでに史記、漢書に通じていたという。後冷泉天皇から学問料が与えられるほどの才能をみせ、十六歳のとき文章得業生となり、十八歳で式部少丞、二十七歳で東宮学士となり、翌年には中務大輔となっている。時の関白藤原頼通が宇治に平等院を建立するとき、四足の大門を北向きに建てた古例を源師房に問うたがわからず、匡房に尋ねるとただちに「天竺《てんじく》の那蘭陀寺、震旦の西明寺、本朝の六波羅」だと答えて頼通を感歎させたという。 [#1字下げ] 八幡太郎源義家が彼について兵法を学んだことも、彼が藤原|伊房《これふさ》や藤原為房とならんで三房と呼ばれて博学をたたえられたことも名高い話である。四十七歳で式部大輔、翌年参議、五十三歳で権中納言にすすんでいる。文章生からここまで昇進したことは異例のことだという。大江広元はその曾孫。『狐媚記』『遊女記』『傀儡子記』など多数の著書がある。 〈74〉|源 俊頼朝臣《みなもとのとしよりのあそん》 [#5字下げ]千載集 巻十二・恋  権中納言俊忠家に、恋の十首歌詠み侍りける時、祈れどもあはざる恋と言へる心を [#1字下げ]うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを  私に対してつれなかった人が、もっとやさしい気持になってくれるようにと長谷寺観音に願をかけたが、初瀬の山おろしよ、お前のようにはげしく、ますますつらく吹き荒れよと祈ったわけではないのに。  うかりける人、はじぶんがそのひとのために憂《う》い思いをした相手というところからつくられた表現であろう。初瀬、は奈良県桜井市初瀬。そこに有名な観音をまつった長谷寺がある。山おろし、は山から吹きおろす強い風。はげしかれ、は烈《はげ》しくあれの意。形容詞「はげし」の命令形で、同時に「山おろし」の縁語。  第三句の、「よ」を省いて「山おろし」と伝える系統の諸本がある。香川景樹は、はっきりしたその説である。『一夕話』もこの系統であり、現行活字本でも(武田祐吉『通解名歌辞典』、松下・渡辺『国歌大観』、久松潜一『八代集選釈』、金子武雄『小倉百人一首の講義』、木俣修『百人一首の読み方』等)おなじである。「よ」を入れ「山おろしよ」とよむものは、『拾穂抄』『改観抄』『峯のかけはし』『百人一首燈』、佐佐木信綱・芳賀矢一校註『八代集』、石田吉貞『百人一首評解』等である。石田氏は特に、定家自筆小倉色紙によって、「よ」の存在をつよく主張している。この問題は、中島悦次氏が「百人一首歌出典私考」で注目し、風巻景次郎氏も「百人一首の再吟味」で考証し、これら三氏の意見はともに定家の筆写した形が「山おろしよ」であることには一致している。  原作者の原歌の形が確定しがたいから、特に定家撰修百人一首のばあいには、定家染筆の、原の形を尊重するということも充分に理由のあることであるが、とくにこの作品のばあいには、「山おろしよ」の形の方が歌のしらべとしても、明らかにすぐれたものになるから、私もこの読みの方をとりたい。もちろん、そうすれば字余りになるわけである。〈70〉の、「さびしさにやどを立ち出でて」その他のばあいも、そこで字余りになるが、なおかつ私はその形の方がすぐれているとおもう。しかし、この「山おろしよ」のばあいはその点がもっとはっきりする。「山おろし」にしても、「山おろしよ」にしても、それはともに三句切れになるわけである。名詞で、やや固定的に止めて、第四句を「はげしかれとは」と起すよりも、「よ」と詠歎の助詞をくわえて字余りにし、動きをもたせて第四句へ移る形の方が、明らかにすぐれているとおもう。定家は、『近代秀歌』でこの歌を絶讃している。『百人秀歌』での俊頼の歌は別のものであることは後に述べる。 [#1字下げ] 源俊頼朝臣[#「源俊頼朝臣」はゴシック体] (一〇五五─一一二九)〈71〉の作者大納言経信の三男、〈85〉の作者俊恵の父。堀河・鳥羽・崇徳三代に仕え、その間に少将、左京権大夫を経て、長治二年(一一〇五)木工頭《もくのかみ》に任ぜられ、天永二年(一一一一)ごろ退職している。天治元年(一一二四)白河院から勅撰集撰進の命を受けて『金葉集』を撰んだ。歌を詠むにしても新奇で自由な立場に立ち、難解なものでも外来語でもかまわずにつかい、歌壇の一部から批判されたが、しかし『金葉集』以下の勅撰集に二百首も撰入されている。歌合の作者となり、判者となり、家集に『散木奇歌集《さんぼくきかしゆう》』をもち、歌学書『俊頼髄脳』を著している。 〈75〉藤原基俊《ふじわらのもととし》 [#5字下げ]千載集 巻十六・雑  僧都《そうず》光覚、維摩會《ゆいまえ》の講師《こうじ》の請《せい》を申しけるを、たびたびもれにければ、|法性寺入道 前 太政大臣《ほつしようじにゆうどうさきのだじようだいじん》に恨《うら》み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年ももれにければ遣《つかわ》しける [#1字下げ]契《ちぎ》り置きし させもが露を 命にて あ|は《わ》れことしの 秋もいぬめり 「させもが露」というおことばでのお約束がございましたので、たよりにして生きてまいりましたが今年もまたむなしく秋が過ぎて行くようでございます。  この歌も、詞書の助けをかりなければ、ほとんどまったく理解のとどかぬ歌である。  僧都光覚(基俊の子)は、維摩會(維摩経を講ずる法會。毎年十月十日から十六日まで、興福寺で行なわれる)の講師として選ばれることを望んだが、なかなか招かれなかった。そこで父親の基俊が、法性寺入道藤原|忠通《ただみち》に恨みを言ったところ、「しめぢが原」と言ったから、今年は大丈夫と思っていると、また当が外れてその年も選にもれた。そこで、この歌をつくって送った。  それでは、「しめぢが原」とは何か? 新古今集巻二十の「猶《なお》たのめ しめぢがはらの させもぐさ わが世の中に あらん限りは」によっているわけである。この歌の意は、どんなつらいことがあっても、自分を信頼していよということで、「さしも(どんなに)つらいことがあっても」という意味に通わせるために、「しめぢがはらのさせもぐさ」と飾りたてたわけである。標茅《しめじ》が原は下野国にあるさせもぐさの名産地である。そこで、基俊の歌の方へは、この「させもぐさ」だけが移って、「露の命」という既成のことばへかけるために、「させもが露」となったわけである。させもに置く露のようにはかないものを、露の命のたよりにして、というほどの意味。秋もいぬは、秋も往《い》ぬ、「めり」は推量の助動詞。  聖職者の息子のために、父親が政治権力者にコネクションを求めて立身出世運動をしているわけである。動機が不純であるのに見合って歌もひねくれている。こういうのは、技巧や形式の美とはまったくちがう。内容・形式両面における頽廃《たいはい》にほかなるまい。 [#1字下げ] 藤原基俊[#「藤原基俊」はゴシック体](生年不詳─一一四二) 元永《げんえい》元年(一一一八)藤原忠通の家で催した歌合に、俊頼と基俊とが判者として顔を合わした。そのときの俊頼の作「口惜しや 雲居がくれに 住むたつも 思ふ人には 見えけるものを」を評して基俊は「たつ」(竜)を「たづ」(鶴)と思いちがいして、たづは沼に住んで雲に住むことはないといってこの歌を負にしたという。もともと歌学に造詣がふかく『万葉集』の研究などもすぐれていたが、しかしそのことがかえって基俊の人柄を驕慢にしていたらしい。右大臣俊家の子で母は高階順業の女《むすめ》。道長の曾孫で名門の出であるにもかかわらず、官位の昇進ははかばかしくなかった。「もとより家柄の人にて、歌に重んぜられけれど、才を恃《たの》みて、人に傲《ほこ》られける故、官位も顕達せす、わづかに従五位下左衛門佐にて終られたり」(百人一首一夕話)。保延四年(一一三八)出家。家集に『基俊集』があり、『悦目抄』『新三十六歌仙』『新撰朗詠集』などの著書がある。 〈76〉|法性寺入道 前 関白太政大臣《ほつしようじにゆうどうさきのかんぱくだじようだいじん》 [#5字下げ]詞花集 巻十・雑  新院位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに詠める [#1字下げ]わたの原 こぎ出《い》でてみれば 久《ひさ》かたの 雲井《くもい》にまが|ふ《う》 沖つしら波  海に船を漕ぎ出して眺めると、遥かに遠い沖のあたりは、雲かとも見まごう白波がたっている。  わたの原、は海原、「〈11〉わたの原 八十島かけて」の例がある。雲井、は雲の居るところ、つまり空。まがふ、は見まがう。区別がつかなくなる。沖つ、の「つ」は「外《と》つ国《くに》」、「滝つ瀬」などと同じ用法、「沖の」の意。詞書の新院は、崇徳上皇のこと。作者は藤原忠通。 『今鏡』の記述によれば、この歌は「人丸が島隠れ行く舟をしぞ思ふなど詠めるにも恥ぢずや有らんとぞ、人は申し侍りし」とある。古今集巻九に、よみ人しらず、「ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」としてのり、左註に「ある人のいはく、かきのもとひとまろがうた也」としている歌をさすわけである。八代集の註釈書には、『古文真宝《こぶんしんぽう》』中、「滕王閣序《とうおうかくじよ》」にみえる「秋水共[#二]長天[#一]一色」(しゅうすいちょうてんとともにいっしょく)という表現と同じだと言い、詞花集秀歌十首の一なりと頭註しているものもある。 『百人一首燈』に、この歌は古来から風景のことだけに解されてきたが、「うち出てみれば」ならまだしも「こぎいでてみれば」とあるのが注意すべきところであると註して、「海原に舟|漕《こぎ》いでてみるに、ただ大空と浪とひとつにて、ゆく末のたづきもしられず、いと心ぼそき御こころばえなり」と解している。崇徳院の島流しになる将来を見越しての寓意だとでも言うのであろうか。御杖の解は前にも言ったようにむりなこじつけが多い。  広い海に出れば、誰にでもふつうに経験する眺めや感情を、ごくあたりまえに、すらっとうたった歌で、とりたててすぐれているところもないが、いや味なくよめる歌である。分類も「雑」の部で、特に秋の歌というわけではないから、『古文真宝』の一句などに結びつけるのもむりな話で、こういう説明は解説者のペタンティズムを押しうりするものにすぎない。 [#1字下げ] 法性寺入道前関白太政大臣[#「法性寺入道前関白太政大臣」はゴシック体](一〇九七─一一六四) 藤原忠通をさす。関白忠実の長子で、母は六条右大臣顕房の女《むすめ》。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の四代に仕えて、摂政を二回、太政大臣を二回、関白を三回もつとめているが、しかしその間に関白継承のことからいざこざがおこり、父忠実と弟頼長ら肉親を相手に乱をひきおこしている。応保二年(一一六二)六十六歳のとき出家し、法名を円観と称した。基俊・俊頼・顕季らにはやくから和歌や詩や書を学び、自邸でたびたび歌合をひらき、歌人たちを育てた。書は法性寺流をひらいた。家集に『田多民治集《ただみちしゆう》』一巻と詩集『法性寺関白(御)集』一巻、日記『法性寺関白記』がある。勅撰集入選六十九首。 〈77〉崇徳院《すとくいん》 [#5字下げ]詞花集 巻七・恋  題しらず [#1字下げ]瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あ|はむ《わん》とぞ思|ふ《う》  川の瀬の流れが早くて、岩にせきとめられる滝川の水が、そこで二つに分れても、のちに又合流するように、私たちも一度は仲を裂かれても、のちにはまた会おうと思うのですよ。  はやみ、は早いので、前に「〈1〉とまをあらみ」、「〈48〉風をいたみ」の例がある。せかるる、は堰《せ》きとめられる。われても、は滝川の水が分れる意と、恋人との間が割れる意とを共に含めている。 『久安百首』(崇徳院が久安六年諸家の歌百首を編んだもの)には「ゆきなやみ 岩にせかるる たに川の われて末にも 逢はんとぞ思ふ」として出ている。香川景樹は『百首異見』で、こちらの方を正しい形で、詞花集の作は、撰者の藤原|顕輔《あきすけ》がなおして入れたものとしている。石田吉貞氏は「『詞花集』は崇徳院の命によるものだから、撰者が我意によって直す筈《はず》もなく、必ず院の御意によって改めたものと思う」という説である。金子武雄氏は撰者改作説で、「それは多分『ゆきなやみ』が歌語としてまだ熟していないと思ったためであろうか」と言っている。  改作者が誰であるかは別として、歌としては、「瀬をはやみ」の形の方が、はるかにすぐれていることは明らかである。第一句がよくなっているというだけではない。「たに川」よりは「滝川」の方が、「われて末にも」より「われても末に」の方がよく、それらの部分が集まって成す全体の声調において、ひびきあう音の構成も澄んで鋭角的になり、イメージの交錯と流動も活気をおび、はげしく徹る感動を確保している。隠居した天皇の歌としては、情熱的にできがよすぎるとしても、彼じしんの作であることを疑う根拠にはなるまい。百人一首ベスト5のうちにかぞえることができよう。 [#1字下げ] 崇徳院[#「崇徳院」はゴシック体](一一一九─一一六四) 第七十五代の天皇で、鳥羽天皇の長子。名を顕仁《あきひと》といい、母は待賢門院璋子。保安四年(一一二三)五歳で即位してから在位十八年。永治元年(一一四一)鳥羽院のはからいで三歳の近衛天皇に譲位。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称した。近衛天皇が亡くなったあとの位も崇徳院の子のものとはならず、憂鬱であった。保元元年(一一五六)鳥羽本院没後、乱がおこり、院は後白河天皇の軍に破れて剃髪し仁和寺《にんなじ》にはいったが、讃岐にながされた。髪を剃らず、爪を切らず、忿怒の相を改めなかったという。その地で四十六歳の生涯をとじた。和歌を好み『詞花集』以下に七十七首収められている。 〈78〉|源 兼昌《みなもとのかねまさ》 [#5字下げ]金葉集 巻四・冬  関路千鳥と言へる事を詠める [#1字下げ]あ|は《わ》ぢ嶋 かよ|ふ《う》千鳥の なく声に いく夜ねざめぬ 須磨《すま》の関守《せきもり》  明石海峡を、淡路島へとび交っている千鳥のなく声に、君は幾夜も眠りを覚《さま》されたことであろう、須磨の関守よ。  あはじ嶋かよふ千鳥、は淡路島から須磨明石の方へとんでくる千鳥とする解と、こちらから島へとする解とある。いく夜ねざめぬ、のところが古くから現代に至るまで、文法的に諸説あり。  ㈰「寝ざめぬらむ」で、推量の助動詞「らむ」の略されたとする説。㈪上に疑問の語「幾」があるから、下を連体形で結ぶべきところ、したがって、「寝ざめぬる」の「る」が略されたとみるべきであるとする説。連体形だから「関守」へ接続し意味の上では「寝覚めぬる関守か?」というふうに関守へ問いかける形になる。㈫「ぬ」は完了の助動詞の終止形とする説。㈬金葉集の他の版では「寝覚めの」とあって、結句の連体修飾語となっているという説。㈭「ぬる」となるべきところを「ぬ」と切って、結句の余情を強めるものとする説。㈮「ぬ」という終止形のまま「関守」という名詞に接続する特殊な用法とする説(㈬、㈭、㈮は、小山喜平・福田薫共著『小倉百人一首』による)。久松潜一氏『八代集選釈』では、ぬは完了の助動詞の終止形、ぬらむに解するとしている。  作者じしんが須磨の関守ではないのだから、推量であることにはまちがいない。同時に四句で切れて、須磨の関守へ呼びかける形になるのが、余韻のある歌柄であるとおもうから、私は、㈰の解をとりたい。「淡路島かよう千鳥の恋の辻占」というのは、新内ながしかなにかの文句であったのだろうが、いまはそういうことばもしらぬひとが多くなったかもしれぬ。 [#1字下げ] 源兼昌[#「源兼昌」はゴシック体](生年不詳─一一一二) 敦実親王六代の孫。美濃守俊輔の次男。従五位下・皇后宮少進から大進に至った。『金葉集』以下に八首入っている。内大臣藤原忠通歌合、国信卿家歌合、内蔵頭長実家歌合、住吉歌合にそれぞれ名がみえる。なお住吉歌合には兼昌入道とあるから出家したものとかんがえられる。 〈79〉左京大夫顕輔《さきようのだいぶあきすけ》 [#5字下げ]新古今集 巻四・秋  崇徳院に百首たてまつりけるに [#1字下げ]秋風に たなびく雲の 絶間《たえま》より もれ出づる月の 影のさやけさ  秋の風が立ちはじめた。空には、たなびく雲の切れ間から月の光も流れてさわやかな思いである。  たなびく、の「た」は接頭語。月の影、は月の光。『久安百首』には、第二句が「ただよふ雲の」となっている。 「秋風に」がすこし不安定で、秋風に吹かれてたなびいている雲、というふうに解する説が多いが、それを「たなびく雲」にかかるのではなく、「絶間」にかかるものとみて、秋風によって雲の絶え間ができて月の光がもれたとする解などもある。空にも風は吹いているのにちがいなく、その風は秋風であることにもちがいなく、雲は風によってうごくものであることにもちがいはない。しかし、地上の作者も風に吹かれて、秋だな、と実感しているのである。そこで「に」という助詞にあまりこだわらないで、空の風と地上の風とを切り離すことはできないものであろうか。歌のうえの語法としては連続しているけれども、作者の心理過程としては、断絶することによって連続しているとみるわけである。風の感じに、秋だな、という実感がまずあった。そして空を見あげると……というふうに。「風立ちぬ。いざ、生きめやも……」(ポール・ヴァレリイ)というほどではないにしても、秋といえばかならずさびしさや衰えに結びつけなくては気のすまぬ、平安朝歌人の類型的発想法とは、ほとんどまったく異った清新がここには在る。 [#1字下げ] 左京大夫顕輔[#「左京大夫顕輔」はゴシック体](一〇九〇─一一五五) 藤原顕輔。正三位修理大夫顕季の三男。堀河、鳥羽、崇徳、近衛の四代に仕え、その間に正三位、左京大夫、皇太后宮亮にすすんだ。子の清輔、重家、顕昭ら、孫の有家、知家らはみんな歌人として知られているが、顕輔はとくに父から歌才を認められて柿本人麿の画像をゆずりうけたという。また父の遺志をついで、六条家をつぎ、俊成、定家らと対立している。仁平元年(一一五一)に崇徳院の院宣をうけて『詞花集』十巻を撰んでいる。家集に『顕輔集』があり、『金葉集』以下の勅撰集にも八十四首が採られている。 〈80〉待賢門院堀河《たいけんもんいんのほりかわ》 [#5字下げ]千載集 巻十三・恋  百首歌|奉《たてまつ》りける時恋の心を詠める [#1字下げ]ながから|む《ん》 心もしらず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそおも|へ《え》  末永くつづくとはっきり信ずるわけにもゆかなくて、昨夜のことを思いかえしていると、今朝はまた長い黒髪が乱れ、乱れた黒髪のようにあれこれと惑うのである。  ながからむ心もしらず、は相手の心が永く変らないでいるか否かを知ることができぬ、「ながからむ」は髪の縁語、「む」は推量の助動詞「む」の連体形。永つづきしないときめてしまったわけでもなく、そうかといって永つづきの確信もない不安定な心理。結句は係結びをなし、ものを思う、の強勢。  これも、『久安百首』のうちの一首で、その集には、第一句が「長からぬ」となっている。黒髪の乱れという形象は、よくかんがえてみると通俗的にみえるようなところもあるが、やはりそれなりに官能的な艶をもっている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○たけばぬれ たかねば長き 妹《いも》が髪 この頃見ぬに 掻きれつらむか(三方沙弥《みかたのしやみ》、万葉集巻二)  ○かきやりし その黒髪の すぢごとに うち臥《ふ》すほどは 面影ぞ立つ(藤原定家、新古今集巻十五) [#ここで字下げ終わり]  これらは、男の側からうたった女の髪である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○髪五尺 ときなば水に やはらかき 少女《おとめ》ごころは 秘《ひ》めて放《はな》たじ  ○その子|二十《はたち》 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな [#ここで字下げ終わり]  よく知られた、与謝野晶子『みだれ髪』のなかの作品である。 [#1字下げ] 待賢門院堀河[#「待賢門院堀河」はゴシック体] 生没年不明。神祇伯源顕仲の女《むすめ》。父子ともに歌人である。待賢門院は、閑院大納言藤原公実の女《むすめ》璋子で、鳥羽天皇の皇后に立ち、崇徳・後白河二帝の母。堀河はこの女院に仕えたので、待賢門院堀河と呼ばれたという。家集に『待賢門院堀河集』があり、そのなかに「具したる人の亡くなりたるを嘆くに、幼き人の物語するに」と題して「言ふ方も 無くこそ物は 悲しけれ こは何事を 語るなるらむ」とあるのをみれば、夫に死別して幼い児のあったことが知られる。西行と親しく、歌の贈答が多い。「久安百首」「中古六歌仙」「女房三十六人歌合」「西宮歌合」「時代不同歌合」「今鏡」その他に和歌がみえる。『今鏡』では「かやうなる女歌よみは、世にいで来たまはんことかたく侍るべし」と激賞された。勅撰集には六十五首入っている。 〈81〉後徳大寺左大臣《ごとくだいじさだいじん》 [#5字下げ]千載集 巻三・夏  暁[#(ニ)]聞[#(ク)][#二]郭公[#(ヲ)][#一]といへる心を詠み侍りける [#1字下げ]ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただあり明《あけ》の 月ぞ残れる  ほととぎすの鳴いた方を眺めると、ただ有明の月だけが残っている。  鳴きつるかた、は鳴いた方。「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形。あり明の月、は夜明け方に残っている月、「〈30〉ありあけのつれなくみえし」、「〈31〉朝ぼらけ有明の月と」などあり。月ぞ残れる、は係結びで、月が残るの意。作者は藤原実定。  詞書の「郭公」は、ホトトギスとよむ。郭公のほか、この鳥の漢字表記には数多くの書き方がある。杜鵑・時鳥・子規・杜宇・不如帰・不如帰去・沓手鳥・蜀魂・蜀魄・霍公等。異名にはクキラ・シデノタヲサ・タマサカドリ・ヌバタマドリ等、二十種ほどを『大言海』はあげている。辞典などでは「郭公」は、カッコウ鳥のことで、ホトトギスとは別だということになっているけれども、じっさいにはこの例のように混同してつかわれていた。  ナイティンゲールを日本語に訳すばあいにホトトギスとしている例はずいぶん多いはずであるが、どうもこれはちがうらしい。カッコウの方は、Cuckoo(英)、Coucou(仏)、Kuckuck(独)とそれぞれ擬声音《オノマトベ》で、名前をつくっている。洋の東西を通じておなじである。日本の英・独・仏辞典などでは、これらのカッコウをホトトギスとして解説しているのが多い。ヨーロッパには、日本のホトトギスにあたる鳥がいないのかもしれない。  ホトトギスの異称が多く、ついにカッコウの分まで占領するに至るというのは、それだけこの鳥のなき声が東洋の詩人たちをよろこばせたということで、現代に至るまで、歌にも詩にも俳句にも作例はきわめて多い。この歌は実感をかなりよく動的にとらえていて、この期の作品としては秀作である。 [#1字下げ] 後徳大寺左大臣[#「後徳大寺左大臣」はゴシック体](一一三九─一一九一) 藤原|実定《さねさだ》のこと。右大臣藤原公能の一子。祖父の実能を「徳大寺左大臣」とよんだから、孫が後徳大寺となった。俊成の甥、定家の従兄弟にあたる。才気に富み、学識もそれにともなって、治承元年(一一七七)に大納言、ついで左近衛大将を兼任し、寿永二年(一一八三)に 内大臣、文治二年(一一八六)右大臣、同五年左大臣に任じた。左近衛大将を兼任していたころ、すでに都を福原に移した後の京へのぼり、皇太后宮(藤原多子)を訪れて歌った今様「古き都を来て見れば/浅茅《あさじ》が原とぞ荒れにける/月の光は隈なくて/秋風のみぞ身にはしむ」は名高い。『徒然草』には、彼が鳶《とび》を屋根に止まらせないように縄を張ったという話が出ている。建久二年(一一九一)出家して如円と号したが、同年十二月没。日記『庭槐記』、家集『林下集』(上下二巻)あり。勅撰集に七十三首入っている。 〈82〉道因法師《どういんほうし》 [#5字下げ]千載集 巻十三・恋  題しらず [#1字下げ]おも|ひ《い》わび さても命は 有るものを うきにた|へ《え》ぬは 涙なりけり  とても堪えられないほどに思い侘びても、命だけはどうやら永らえているのに、憂愁にたえきれぬのは涙で、とめどなく流れるのである。  おもひわび、は「恋」の部に分類された歌だから失恋の心情とかんがえるべきであろう。さても、は「然《さ》ありても」で、それにしてもの義。命は堪えているが、涙は堪えていない、というふうに、命と涙を対称させている。  この歌はめずらしく、百人一首以外の定家自家版アンソロジイのどれにも入っていないものである。当時として一般にはさして問題にもされなかった歌であったのだろう。現代の批評もあまりかんばしくないようで、久松潜一氏は、「表現の多少感慨めいたものはあるが、そらぞらしい歌だ」と言っている。  聖職者の歌として、これは恋愛の心情をうたったものとみるよりは、抽象的な人生の無常や、現世のはかなさをうたったものではないか。それゆえ、恋の歌の部へ分類したのは、千載集撰者のミスではないかという解釈もあるようである。しかし、それはいかにもむりなこじつけだろう。富士谷御杖は、「在俗のとき、つれなかりし女を思ひ侘びてぞよまれけんかし」と言っているが、そのあたりがもっとも好意的解釈の限界と言えよう。もちろん良い歌というほどのことはないが、「さても命は有るものを」のあたりの語法うたいぶりに多少の工夫もみえ、とくにわるい歌というわけでもない。 [#1字下げ] 道因法師[#「道因法師」はゴシック体] 俗名を藤原|敦頼《あつより》といい、治部少丞清孝の子。崇徳天皇に仕えて、従五位下・右馬助になった。あるとき馬飼たちの恨みをかって衣服を剥がれて裸になって逃げ去ったことから、彼は裸馬助の異名をとったという。また彼は歌道にふかくこころを傾け、秀歌を詠ませ給えと住吉明神に月詣でしたともいう。またあるとき、藤原忠実が近江の宿の遊女に歌を歌わせたら「世の中は 憂き身に添へる 影なれや 思ひ捨つれど 離れざりけり」と源俊頼の作を歌って評判になった。すると永縁僧正も自作の「聞くたびに 珍らしければ 時鳥《ほととぎす》 いつも初音の 心地こそすれ」を琵琶法師に袖の下をつかって歌わせた。そこで道因も負けずに自分の歌を盲人たちに歌え歌えと金はやらずにおどしたという話が伝わっているほど、終生我執の強い人間であったらしい。九十歳余まで生きた。歌合の判詞に不満で、陳状を書いたということなども伝わっている。俊成の撰した『千載集』に二十首、他の勅撰集にも二十首ほどみえる。 〈83〉皇太后宮大夫俊成《こうたいごうぐうのだいぶとしなり》 [#5字下げ]千載集 巻十七・雑  述懐百首の歌詠み侍りける時、鹿の歌とて詠める [#1字下げ]世の中よ 道こそなけれ おも|ひ《い》入る 山のおくにも 鹿ぞ鳴くなる  ああ、この世のなかには、そこから遁《のが》れ去るべき道はないのだ。遁世《とんせい》の思いを深くいだいて入りこんできた山の奥にさえ鹿が鳴いていて、私を哀しい思いにさそう。  道こそなけれ、はのがれ去る道はないの意、係結びをなし、句法はここで切れる。おもひ入る、は遁世の思いをいだいて入る。「入る」は心深く思いこむ意と、山に入るの意と両方にかかる。鹿ぞ鳴くなるは、「ぞ」の係りに対し、詠歎の助動詞「なり」の連体形「なる」を結びとしている。鹿が鳴く、が強勢された形。第一句と第二句とで二度切れる。「道こそなけれ」、をこの世の憂愁から遁れる道はないと解する説があり、また「鹿ぞ鳴くなる」を鹿さえもうれいをもつとみえて鳴いているというふうに解する説(拾穂抄)などもある。また『拾穂抄』には、定家筆色紙では、第三句が「山の中にも」となっていると書いている。  現世離脱をテーマにしたこの歌が、意外にも政治的寓意と解されかねぬ危険のあったらしいことは、おなじく『拾穂抄』の註にみえる。「千載集|撰《えらば》れける時分|入《いれ》たく思ひゐたりしかども、道こそなけれとあるところに俗難ありてはと斟酌《しんしやく》ありしを、別勅《べつちよく》にて入たり」。  さらに、谷口元淡の『拾穂抄補註』には、この「俗難」のところを、「世の中に道なしといへば、君の政道のあしきを諷じたるやうなればなり」と説明している。千載集撰者の俊成が、そういう政治的配慮で、自分の歌をひかえていたが、主宰者の後白河院の「別勅」で入れたというわけである。平安朝末期、平家が滅亡して鎌倉幕府の成立にさしかかる政治的に不安定な時期である。もっとも非政治的なものをさえも、政治が追いかけるというアイロニイは、その古い時代にも、現代にも共通するテーマである。 [#1字下げ] 皇太后宮大夫俊成[#「皇太后宮大夫俊成」はゴシック体](一一一四─一二〇四) 藤原氏(御子左家《みこひだりけ》)俊忠の子、定家の父。承安二年(一一七二)皇太后宮(後白河天皇の皇后、藤原忻子)の大夫となった。藤原基俊(〈75〉の作者)に和歌を学び、古今伝授の基を開いた。安元二年(一一七六)出家して釈阿といった。幽玄体、桐火桶の体などということばによって彼の歌風は特徴づけられている。俊成、定家と二代つづき、平安朝末期歌壇の大御所であり、千載集撰者である。歌学書『古来風体抄』『正治奏状』等あり。家集『長秋詠藻』。勅撰集に入った歌は四百余首にのぼっている。 〈84〉藤原清輔朝臣《ふじわらのきよすけのあそん》 [#5字下げ]新古今集 巻十八・雑  題不知 [#1字下げ]ながら|へ《え》ば また此ごろや 忍ばれ|む《ん》 うしとみし世ぞ 今は恋しき  生きながらえて後には、現在のことがまたなつかしく思われるようになるだろう。そのころはつらく、憂鬱におもっていた過去が、今は恋しく思い出されるのである。  ながらへば、は生き永らえて将来の或る時には、の意。うしとみし世、は憂しとかんがえていたころ。三句切れの歌。下句の意味から類推して、上句の論理がひき出される。嫌だったあの頃も、今になってみればなつかしいのだから、おなじようにちっともたのしくない現在も、やがてまた美しく思い出される時が来るのだろうというかんがえかたである。 『清輔朝臣集』に収録されたこの歌には、三条大納言が中将であった頃|贈《おく》った歌という詞書があり、その三条大納言が藤原実房であることは、香川景樹がくわしく考証した。石田吉貞氏は、この景樹の説から出発してさらに、清輔がこの歌をつくったのが五十五歳から六十二歳までのこと、そうだとすれば彼が二条天皇の依頼で『続詞花集』を撰んだのに、完成前に天皇が死んで奏覧を得ることができずに失望していたころ、その心情を托しての制作ではないか、そして「うしとみし世」に想定されるのは、彼の父顕輔が『詞花集』をえらんだとき、清輔は父と不和で、その集に一首もとってもらえなかったことがあるが、そのころをいうのではないか、という推定をしている(百人一首評解)。この説はたいへん興味あるもので、八百年以上むかしの歌人が、たった三十一文字に托したはかない抽象的表現を、学問がここまで論理的・実証的に再現《リアライズ》する追究力と情熱は、ほとんど芸術的な美しさと確実さをもつようにみえる。のみならず、どんなに抽象的な表現にも、かならず現実的なモティーフがあるものだという真実を照し出す点においても、私は石田氏の説を有益なものとおもう。  藤原定家も、石田吉貞氏も、この歌をたいへん高く評価している。私じしんも、この歌が好きである。百人一首のなかで、最も好きな歌のひとつと言ってよいかもしれぬ。そういう私は、石田氏の考証に感謝しつつ、しかしこの歌を、その発想の動機からきり離し、その論理性と抽象性そのものにおいて愛誦する。人生の真実のひとつを、いわば純粋に観念的に示唆するようなものが、この歌には内在する。戦争にかり出されて苦しかった二十年むかしの前線の日々を、おでん屋で一杯やりながらたのしそうに語りあっている初老男をみるときなど、私はつくづくこの歌を思い出す。  正岡子規はこの歌を、「理窟の歌」として否定している(「一つ二つ」)。ここに表現された論理と観念は、「理窟」とはちがうものだというのが、私のかんがえである。 [#1字下げ] 藤原清輔朝臣[#「藤原清輔朝臣」はゴシック体](一一〇四─一一七七)「〈79〉秋風にたなびく雲の」の作者藤原顕輔の子で、弟に歌学者顕昭法師がいる。正四位下・太皇太后宮大進・長門守に至った。二条天皇の時、『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇の死にあい、二十一代集の中には数えられていない。歌学の分野で実証的に仕事をした人で『袋草紙』『奥義抄』『和歌雑談抄』『和歌初学抄』等の歌学、歌論書多く、歌合の判者も多くつとめた。彼の死を、和歌滅亡の時として兼実が悲しがったことが『玉葉《ぎよくよう》』(九条兼実の日記)にみえる。家集に『清輔朝臣集』あり。八十九首が勅撰集に入っている。 〈85〉俊恵法師《しゆんえほうし》 [#5字下げ]千載集 巻十二・恋  恋の歌とて詠める [#1字下げ]よもすがら 物おも|ふ比《うころ》は あけやらで 閨《ねや》の隙《ひま》さ|へ《え》 つれなかりけり  夜どおし恋のもの思いにもだえているこの頃は、なかなか夜明けも来ないで、寝室の雨戸の隙間から朝の光の白むのを待つのさえつれない思いである。  夜もすがら物おもふ、は夜通し薄情な恋人のことをかんがえて煩悶するこころである。あけやらで、は明けないで。早く夜の明けるのを待つ心が暗示されている。閨、は寝屋、寝室。隙、は隙間《すきま》。「隙さへ」は、恋人がつれないのに、さらにそのうえ閨の隙さえもつれない、の意を含めている。  千載集でのもとの形は、第三句が「明やらぬ」である。定家も「ぬ」とかいていたようであるし、江戸時代の諸本などもそうである。『拾穂抄』『改観抄』『一夕話』『燈』などみなそうである。もっとも『峯のかけはし』は「明やらで」になっている。この書物は文化三年(一八〇六)刊行で、すでにその頃からこの形も行なわれていたことがわかる。久松潜一氏は『八代集選釈』で、「百人一首などでは普通明やらでとなって居る。そうすると句調はよくなるが、意味に一寸無理が生ずる」と言っている。  明らかに、女の立場に立ってよんだ歌である。拾遺集にみえる増基法師の「冬の夜に いくたびばかり 寝ざめして 物おもふ宿の ひましらむらむ」を本歌としているものであることは多くの人が指摘している。本歌の方は、男の、しかも僧侶らしい生活を思わせる歌で、俊恵の歌よりもすぐれている。 [#1字下げ] 俊恵法師[#「俊恵法師」はゴシック体] 生没年不詳。〈74〉の作者、源俊頼の子で、〈71〉の作者大納言経信は祖父。歌を父に学んだが、十七歳のとき父は死亡。その前後に東大寺にはいったらしい。永暦元年(一一六〇)「清輔朝臣家歌合」に作者として加わるのが記録のうえでの最初になるが、その席ではすでに相当好遇されている。それ以後多くの歌合に顔を出している。当時歌壇は六条・御子左両家対立で揺れていたが、いずれとも自由に接し、自邸歌林苑で月例歌合を主催して、ひとつのグループを形成していた。鴨長明《かものちようめい》はその弟子である。『林葉和歌集』六巻はその家集である。勅撰集に八十四首入っている。生没年その他についてはよくわかっていないが、養和二年(一一八二)春の賀茂重保家尚歯会に「俊恵法師| 《七〇》」として連なっているところから、永久元年(一一一三)生れと考えられる。 〈86〉西行法師《さいぎようほうし》 [#5字下げ]千載集 巻十五・恋  月前恋と言へる心を詠める [#1字下げ]なげけとて 月やは物を 思|は《わ》する かこち顔なる わが涙かな  なげきかなしめというので、月が私にこんなもの思いをさせるのであろうか? いや、そうではあるまい。それなのに、私の涙は、まるで月がそうさせているとでも言うかのようにかこつけがましく、あふれてとめどもないのです。  月やは物を思はする、は月が物を思わせるのか? いや、そうではあるまい、と反語になる。 「や……する」は係結び。「やは」で反語の助詞となる。かこち顔、はかこつけがましい顔。三句切れの歌である。  西行の歌としては、出来のよくないものであるということに、大方の意見はほぼ一致している。「すこし平懐《へいかい》の体なり」(拾穂抄)。「この題詠をしもかかせたまへる、いと口をし」(百人一首燈)。「西行の歌としては技巧が勝ちすぎていて、実感が迫って来ない。西行の代表作の一つとして挙げるのには、はばかられるようなところがある」(木俣修)など。 『山家集《さんかしゆう》』(西行の個人歌集)には、「月によする恋」と題して三十七首の歌を集めている。つぎの二首などが比較的よい方である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○ゆみはりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ  ○おもかげに 君がすがたを みつるより にはかに月の くもりぬるかな [#ここで字下げ終わり]  なお、「なげけとて」は「御裳濯川歌合《みもすそがわうたあわせ》」二十八番左にも入れた歌で、この歌合は西行が俊成に判を乞うたものである。 [#1字下げ] 西行法師[#「西行法師」はゴシック体](一一一八─一一九〇) 藤原|秀郷《ひでさと》の後裔、曾祖父のとき佐藤氏となる。父は康清。俗名|義清《のりきよ》(憲清・則清等とも書く)。鳥羽上皇の北面の武士となったが二十三歳のとき出家。法名円位、のち西行。生涯行脚修行の生活をおくった。歌人としての資質には生来めぐまれていて、その行脚によって、さらに歌境を深めた。出家の動機について古来多くの物語や伝説が行なわれているが、当時の政治や社会に対する絶望感があったことはたしかである。彼をテーマにした「西行物語」や多くの謡曲「江口」「西行桜」「松山|天狗《てんぐ》」などがある。新古今集には、西行の歌が俊成を抜いて最も多く採られ、勅撰集に入った歌は二百五十余首をかぞえる。家集『山家集』(朝日新聞社刊、日本古典全書所収)。 〈87〉寂蓮法師《じやくれんほうし》 [#5字下げ]新古今集 巻五・秋  五十首歌たてまつりし時 [#1字下げ]むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ  降り過ぎて行った村雨の、露もまだ乾かぬ真木《まき》の葉のあたりに、霧が立ちのぼっている。秋の夕暮である。  むらさめ、は村雨・叢雨・群雨の義、一群ずつ強く降り過ぎる雨、秋から冬にかけて多い雨。まき、は真木の義、杉・檜などの良材となる木、槇にあらず。霧たちのぼる、は霧が立ち、のぼる、である。「たち」は動詞「立つ」の連用形。「たち勝《まさ》る」などの「たち」は接頭語で、それとは異る。 「上二旬は近景を示し、下句は大観的な表現」と、『日本古典文学大系』で註しているのは適評である。いわば自然発生的に遠近法を生かした自然描写のおこなわれたのは、実景に即してうたったからであろう。定家いらい、ほとんどすべてのひとのほめる歌で、北村季吟なども、誠に面白くも、淋しくも、哀れも深く、「筆舌つくしがたくこそ」と絶讃した。  百人一首中随一の歌などと評価するひともいるし、いわゆる「新古今集三夕の歌」として入っているこの作者の「さびしさは その色としも なかりけり まき立つ山の 秋の夕暮」よりも、この方がすぐれているということも多くのひとが言っている。  正岡子規は例の調子で、「歌話」においてこの歌にもかなり理づめに否定意見をのべている。「鴫《しぎ》立つ沢の歌の如き理窟を含まぬ所に稍々《やや》見どころあり。されど欠点はいくらもあるなり。第一に『霧たちのぼる』といふけしき何とも分らず、従つて歌全体がぼんやりとしてたしかならず。『たちのぼる』とは煙などにいふべきも、霧の如く一面に掩《おお》ひかかる者の形容に適せず。若し霧が一面に掩ひかかる景色とすれば此歌には統一もなく中心もなきものとなる。霧が一面に掩ひかかるといふは瞬間の景色にあらずして稍々長き時間を要する事なるに、此歌には僅に七字にて之を言ひ了《おわ》り、之に反して『むら雨の露もまだ乾ぬ真木の葉に』といふは一瞬間に見得べき景色なるに之を十七字の長さにのべたり。此不釣合あるために此の歌ぼんやりとして景色眼に浮ばぬなるべし」。  私は、もちろんわるい歌だとは思わぬが、それほど賞讃する気にもならぬ。ちなみに「新古今集三夕の歌」は、前記の歌のほか、つぎの二首をさして言う。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮  西行法師  ○見わたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋《とまや》の 秋の夕暮  藤原定家 [#ここで字下げ終わり] [#1字下げ] 寂蓮法師[#「寂蓮法師」はゴシック体](生年不明─一二〇二) 推定すると保延五年(一一三九)から康治二年(一一四三)ころの生れ。俗名を藤原定長といい、藤原俊成の弟俊海が父。父の出家にともなって十二歳ころ伯父俊成の養子となった。しかし官位が従五位下・左中弁・中務少輔となったとき、俊成が藤原親忠の女と再婚して成家、定家が生れたので、家を出て剃髪し旅に出たという。歌才に秀で、新古今集時代の歌風を代表する歌人。 [#1字下げ] たくさんの歌合に参加しており、建仁元年(一二〇一)には和歌所の寄人《よりうど》となり、新古今集の撰者にえらばれているが、しかしそれを果たせずに没。「和歌の芸は至難でない。寂蓮は不学でも歌をよく詠むから」と友人の歌学者顕昭がいうと「天下に和歌ほどむつかしいものはない、博学の顕昭でさえ歌には堪能になれないのだから」と寂蓮がこたえたという。家集に『寂蓮法師集』があり、『無題百首』『初度院御百首』などの百首和歌がある。勅撰集には百二十首ちかく入っている。 〈88〉皇嘉門院別当《こうかもんいんのべつとう》 [#5字下げ]千載集 巻十三・恋  摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋《りよしゆくにあうこい》と言へる心を詠める [#1字下げ]なに|は《わ》えの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋|ひ《い》渡るべき  難波《なにわ》の入江の蘆《あし》の刈根の一節《ひとふし》ほどにも短かくはかない旅の仮寝の一夜の逢瀬《おうせ》であったが、そのために、難波の海の澪標《みおつくし》のように、身をつくし、いのちをかけて、生涯あなたを慕いつづけなくてはならないのでしょうか。  なにはえの、は難波(大阪)の入江の。あしのかりねのひとよ、は「蘆の刈根」と、「仮寝」をかけ、「ひとよ」に、蘆の「一節《ひとふし》」と、旅宿の泊りの「一夜」をかけている。蘆の一節については、〈19〉の歌の解参照。みをつくしてや、は「澪標《みおつくし》」と「身をつくし」とかけている。この語については、〈20〉の解参照。 「や」は疑問の助詞で、終りの「べき」と係結びをなす。恋ひ渡るべき、は恋しつづけなくてはならぬのであろうか、の意。作者は女性であるが、名はわからぬ。「摂政、右大臣の時」とは九条兼実の右大臣の時代である。  もちろん、一夜のちぎりのために、男へ思いの残った女の悩みをうったえているわけである。なにはえの、あしの、かりねの、とたたみかけてくるところに一種の情熱的な調子が出ていて捨てがたい歌であるが、下句が妙にりくつぽくなって、一気|呵成《かせい》のいきおいをそいでいる。「難波潟 みじかき蘆の ふしの間も あはで此世を すぐしてよとや」とよく似た発想と修辞の歌である。 [#1字下げ] 皇嘉門院別当[#「皇嘉門院別当」はゴシック体] 生没年、経歴ともによくわからない。大宮権亮源俊隆の女《むすめ》で、『玉葉集』によると養和元年(一一八一)に生存していたことだけはわかる。皇嘉門院は崇徳天皇の中宮(藤原忠通の女聖子)で、この院の別当(長官)となった人。のち尼になったともいわれている。千載集以下の勅撰集に九首入っている。玄玉、万代、雲葉の各集に全部で十九首載っている。 〈89〉式子内親王《しよくしないしんのう》 [#5字下げ]新古今集 巻十一・恋  百首歌の中に、忍| 《ブル》恋 [#1字下げ]玉のをよ たえなば絶えね ながら|へ《え》ば 忍ぶる事の よわりもぞする  わが命よ。絶えるならば絶えてしまえよ。このまま生き永らえれば、この恋を忍び堪えるちからも弱くなってしまうのであろうから。  玉のをよ、は玉の緒《お》よ。魂(玉)を放さず持ち続ける緒の義、生命の続くこと、また命の意、ここでは後者、「恋ふること 益《まさ》れば今は 玉の緒の 絶えて乱れて 死ぬべく思ほゆ」(万葉集巻十二)のような例あり。「よ」はよびかけの意をもつ終助詞。たえなば絶えね、は絶えるならば絶えてしまえ。「絶え」は玉の緒の縁語、「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形、「ね」はその命令形。ながらへば、は、〈84〉と同じ用例だが、同時に「玉の緒」の縁語ともなっている。忍ぶる事、はこころが感情のはげしさを堪えしのぶこと、〈39〉にも、おなじ用法の「しのぶ」がある。よわりもぞする、は弱りもするの意、「ぞ」と「する」は係結びで、感動の助詞「も」をさらにつよめている。  忍ぶ、には隠すの意味があるから、じぶんの恋を人目から隠しおおせなくなることを憂える意に解するものが多い。常識的に、その解の方が自然であるとも言いうるが、はげしい恋の実態をうたったテーマからみて、そこまで現世的・反省的に意味づけない方がよいようにもおもわれる。第一句と、第二句とで二度切れている例で、きわめて激しい調子である。萩原朔太郎も「わが命よ。むしろ早く死なば死ね。生きてこの上苦しさに耐えられないとの意」と解し、つぎのように批評している。 「恋歌として最も哀切な感情を絶叫している。二句で『絶えなば絶えね』と捨鉢に叩きつけて歌いながら、下句に移って『忍ぶることの弱りもぞする』と心細げに消え入って悲しんでいる。この間の修辞よく女の心理を尽して巧みである」。  恋情は、かならずこのようなデスペレートな要素を内包している。それだから危険でもあるが同時に美しくもある。そのところを、鮮やかにうたいあげた秀歌とおもうが、私には、うまく説明がつかぬままに、「よわり」ということばが、なんとなく気になる。他の部分は充分に磨きあげられているのに、この表現だけが詩語になりきれぬひびきを残すのではないかというのが永年の、極めて主観的な疑問である。調子のうえから言って四、五句が曲りくねって弱くなっている。 [#1字下げ] 式子内親王[#「式子内親王」はゴシック体](生年未詳─一二〇一) 後白河天皇の三女。母は藤原季成の女《むすめ》で〈90〉の、「見せばやな雄島の蜑の」の作者殷富門院とは同腹。平治元年(一一五九)から十一年にわたって賀茂斎院となり、准三宮《じゆさんぐう》の待遇をうけたが、嘉応元年(一一六九)病気になって辞した。退官後の動静は不明。ただ建久八年(一一九七)蔵人橘兼仲・僧観心らの陰謀事件に連坐して京外に移されようとして不問に付されている。藤原俊成・定家と親交があった。新古今集に四十九首、『千載集』に九首入っている。『式子内親王集』一巻があり、新古今集時代の代表歌人のひとり。 〈90〉殷富門院大輔《いんぶもんいんのたいふ》 [#5字下げ]千載集 巻十四・恋  歌合し侍りける時、恋の歌とて詠める [#1字下げ]みせばやな 雄島の蜑《あま》の 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はか|は《わ》らず  まったく、見せてあげたいものです。雄島の蜑の袖さえも海水ですっかりぬれることはぬれたけれども色は変らなかったのに、私の袖は血の涙ですっかり色が変っている。それを、あの薄情なかたに見せてあげたいものです。  みせばやな、は見せてやりたい。「ばや」は、活用語の未然形について願望をあらわす終助詞、〈29〉「をらばやをらむ」の「ばや」とは別、「な」は詠歎の終助詞。雄島、は宮城県松島群島のなかの一つの島。蜑、は海人、海女、漁撈《ぎよろう》を業とする者。袖だにも、は袖でさえも。ぬれにぞぬれし、の「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形、「ぞ」は係助詞で、結びは過去の助動詞「き」の連体形「し」。色はかはらず、は蜑の袖の色は変ったという意味を含ませ、さらに、血の涙で血の色に変ったというところまで含ませてある。 『一夕話』では血の涙について、貫之の歌「しら玉に 見えしなみだも 年ふれば からくれなゐに 移《うつ》ろひにけり」、ならびに『周易』と『韓非子』の故事をあげている。また、この歌は後拾遺集巻十四にみえる源重之の歌、「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」を本歌としていることが、多くのひとによって指摘されている。  この歌は、どうかんがえても後味のよくない歌である。恋愛も歌も、血なまぐさくなってはおしまいである。 [#1字下げ] 殷富門院大輔[#「殷富門院大輔」はゴシック体] 生没年未詳。父は従五位下藤原信成、殷富門院播磨が姉にあたるという。兄弟に光成・行房がいる。殷富門院は、式子内親王の姉で、後白河天皇の第一女亮子内親王である。この院に仕えていた。家集に『殷富門院大輔集』がある。そのなかではとくに恋部に贈答歌が多く、頼政・師光・隆信・西行・寂蓮・俊恵らの名がみえている。定家の撰した、新勅撰集に十五首入り、女子では最高の歌数である。諸勅撰集に六十首余あり。 〈91〉|後京極摂政 前 太政大臣《ごきようごくせつしようさきのだじようだいじん》 [#5字下げ]新古今集 巻五・秋  百首歌たてまつりし時 [#1字下げ]きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣《ころも》かたしき 独りかもね|む《ん》  こおろぎが鳴いているこの霜夜の寒いむしろの上に、私は衣を敷いてひとりで寝るのであろうか。  きりぎりす、は今のコオロギである。新古今集には「蛩」の字をあてている。イナゴ、コオロギの字である。平安朝時代には一般にコオロギをキリギリスと言っている。なくや霜夜の、は詠歎の助詞「や」をへだてて、「なく」が霜夜にかかる。「なくや」で句が切れない。さむしろ、は小莚《さむしろ》、又は狭莚《さむしろ》で、「さ」は接頭語、また、寒しの意をかけている。衣かたしき、は片方の衣が下へ敷かれるところから出たことば。独りかもねむ、は〈3〉の人麿の歌と同じ用例。作者は藤原良経。 『拾穂抄』では、「此歌は、かの『さむしろに衣かたしきこよひもや』の歌と、人丸の『ながながしよをひとりかもねん』、此両首の心詞をとりて、かかる霜夜を独ねんかもと侘《わび》たる心をよめり」と師説(松永貞徳説)を記録している。 「さむしろに」の歌は、伊勢物語に、「さむしろに 衣かたしき 今宵もや 恋しき人に 逢はでのみ寐む」と、古今集巻十四に、よみ人しらず「さむしろに 衣かたしき こよひもや 我をまつらん 宇治の橋姫」がある。また下二句については、万葉集巻九、作者不詳「わが恋ふる 妹《いも》にあはさず 王の浦に 衣かたしき ひとりかもねむ」がある。契沖は、作者がこの万葉の歌を知らなかったのだろうと解釈し、真淵は万葉の句を知っていて使ったのだろうと言っている。  萩原朔太郎が言っているように、K音とS音を組みあわせて、いかにも寒そうな感じのする歌である。本歌がともに恋歌であるところから、これも恋歌とみるべきではないかという説もあるが、末枯れた晩秋の感じのよく出ている歌と言いうるだろう。おなじ本歌取の歌としても、出来ばえにおいては〈90〉などと格段の違いですぐれている。 [#1字下げ] 後京極摂政前太政大臣[#「後京極摂政前太政大臣」はゴシック体](一一六九─一二〇六) 藤原|良経《よしつね》のこと。関白九条兼実の二子で母は従三位藤原季行の女《むすめ》。後京極殿と呼ばれ、式部史生、秋篠月清などと号した。治承三年(一一七九)十一歳で元服、従五位下となり、文治四年(一一八八)正二位、建久六年(一一九五)内大臣になるまで官位も順調にすすんだが、その後一時政情が変って官職を辞し自邸にひきこもった。しかしふたたび後鳥羽院の支持を受けて、建仁二年(一二〇二)には摂政となり、元久元年(一二〇四)に従一位太政大臣となった。和歌を早くから俊成に学び、詩文は藤原親経に指導され、書は佐理《すけまさ》・道風・行成の三蹟に劣らずと言われた。後鳥羽院との間に立って歌壇のために貢献するところ大きかった。家集に『秋篠月清集』があり、『作庭記』『新十二月往来』『除目大成抄』の著書もある。 〈92〉二条院讃岐《にじよういんのさぬき》 [#5字下げ]千載集 巻十二・恋  寄[#(スル)][#レ]石[#(ニ)]恋と言へる心を [#1字下げ]わが袖は 潮干《しおひ》にみえぬ 沖の石の 人こそしらね か|は《わ》く間もなし  私の袖は、潮干の時にも水面にあらわれて見えてくることのない石のように、乾く間もないのですが、そのことをあの人は知らないのです。  潮干にみえぬ、は干潮の時にも見えぬ。沖の石の、は沖の石のごとくの意。人こそしらね、は人は知らないが。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形で、係り「こそ」を受けた結び。「人」は、恋の相手ともとれるし、世間一般の人びとの意にもとれる。私は前者の意に解したい。  恋の歌だから、袖が乾く間もないほど涙にぬれ通しているというのは、不幸な恋愛である。おなじように袖と涙をとりあわせて、失意の恋をうたったものは、すでにいくつかあった。そういう意味で、まったく類型的な発想を一歩も出ない歌というほかないが、「人こそしらね」という第四句で動きをつけたところに、かろうじてひとつの新しさをみとめることはできる。作者は、この一首によって「沖の石の讃岐」という異名を与えられたと言われるほど、当時は賞讃された歌であるが、題詠という創作方法が、趣向をつかい果して、ついに恋と石をとりあわせるところまでたどりつかざるをえなかったことは、やはり一種の病的現象というよりほかないだろう。なお、この歌『二条院讃岐集』の形は、第一句「我が恋は」、第五句「かはく間もなき」となっている。 [#1字下げ] 二条院讃岐[#「二条院讃岐」はゴシック体](一一四一─一二一七) 生没年は推定である。源三位頼政の女《むすめ》で母は源忠清の女《むすめ》。二条院は後白河天皇の第一子で母は皇太后|懿子《いし》(大納言経実の女)。讃岐はこの二条院に仕えた女房である。後鳥羽院の中宮宜秋門院に仕えたこともあり、のち出家隠遁したが、その間のことも、晩年のこともはっきりしない。『正治百首』や千五百番歌合その他に出詠して当時の歌壇では最も目立った活躍をしている。中古三十六歌仙のひとりで、家集に『二条院讃岐集』がある。勅撰集には六十九首入っている。 〈93〉鎌倉右大臣《かまくらのうだいじん》 [#5字下げ]新勅撰集 巻八・羇旅  題しらず [#1字下げ]世の中は つねにもがもな 渚《なぎさ》こぐ 蜑《あま》の小舟《おぶね》の 綱手《つなで》 かなしも  世のなかは、いつまでも変らない姿で在ってほしいものだ。渚を漕いでゆく舟の舟人が綱手ひく姿をみていると、人の世への愛惜の思いがこころにせまる。  つねにもがもな、は常住不変を求めるこころ、「がも」は願望の助詞、「な」は詠歎の助詞、二句切れの歌。綱手、は引綱、舟の舳《へさき》に着けて、舟を引く綱。かなしも、は感動のせまる状態で、『改観抄』で言うように、「かなし、あはれ、おもしろし」のいずれでもある。あるいはそのすべてである。作者は源|実朝《さねとも》。 『拾穂抄』は、本歌として、「よの中を 何にたとへむ 朝ぼらけ こぎ行く舟の あとの白浪」、および「陸奥《みちのく》は いづくはあれど 塩がまの 浦こぐ船の つなでかなしも」によったものとした。『改観抄』は、実朝の歌を解して、「渚こぐ海士の小舟の綱手ひくさま、中々外にもとめんこころなく愛すべく面白によりて、(とても他に求めることのできぬほど愛すべく面白いものであるから、くらいの意)嵯嘆《さたん》のこうじて哀《あわれ》にかよふ所なり。さてこそ世の中は不変にてあれかし、されど不変にてはなきと受けたり」と書いた。その後では、正岡子規も小林秀雄もこの歌について論じた。しかし、斎藤茂吉が『源実朝』で論じたところが、やはりもっとも綜合的である。この歌に影響したと推定される、さらに多くの古歌をあげ、古くからの批評、解説をも博覧して、とくに結句の「かなしも」の複雑な語意について、苦心して説明している。  二句切れの歌であることを、特に注意して理解してゆく必要がある。上句の抽象的に観念的なおもいと、下句の実景に即してのなげきとを、論理的・形式的に結びつけすぎないように理解することがたいせつである。『改観抄』が、海士の姿や作業をながめ「あかずめづらかにおぼゆるゆゑに、常にここにながめをらばやと思ふによりて、世の中は常にもがもなと、ながき命のほしくなるなり」と説明しているのは、誤まりではないが、下句と上句を結びつけ過ぎ、散文的に論理化・首尾一貫化させすぎたきらいがある。人生に永遠を求める思いと、海辺で偶然にながめた舟人たちの姿からいわば実存的に誘発された「かなしみ」とは、因果関係とはことなった秩序をもって、断絶しつつ連続している。  この一首によって百人一首は、あたかも突然変異のように、近代的な人間の哀歓への生き生きとした通路をつくったと言うことができる。前に私は、〈79〉の歌でいささか唐突に「海辺の墓地」終章の一句などをもち出したのであるが、あれはなによりも平安朝歌人そのひとをびっくりさせたかもしれなくて気の毒した。実朝の、この歌こそ、ほんとにそこへ結びつくとは言えないだろうか。「あまた鳩の歩むこのしづかな屋根瓦/あの松の木のあひだあひだに、あの石碑《いしぶみ》のあひだあひだに、ひたひたと波打つて。/そのほとり、まさしく真昼は炎で海をつつむ/あはれ、恒に繰り返す海を!/神々の静けさの上へ久しい諦視/おお、ひとすぢの思念の後の、この果報《むくい》!………」(菱山修三訳)。 [#1字下げ] 鎌倉右大臣[#「鎌倉右大臣」はゴシック体](一一九二─一二一九) 源頼朝の子実朝。母は北条時政の女政子。兄に頼家がいる。頼朝の没後、頼家が二代目の将軍を継いだが、北条時政、大江広元によって伊豆修禅寺に幽閉され、のち暗殺されたあと実朝が三代目の将軍につき、建保六年(一二一八)右大臣となり、翌年鶴岡八幡宮へ拝賀におもむいたとき、頼家の子公暁によって暗殺された。二十二歳までに詠んだ和歌六百六十三首をあつめた『金槐集《きんかいしゆう》』がある。初期万葉ふうの作品を正岡子規が高く評価した。定家との交渉については後章でふれる。晩年の歌風は新古今調に転じた。 〈94〉参議雅経《さんぎまさつね》 [#5字下げ]新古今集 巻五・秋  擣衣《とうい》のこころを [#1字下げ]みよし野の 山の秋風 さよふけて 故里《ふるさと》寒く ころもうつなり  吉野山の秋風が吹きわたって、旧都吉野の夜がふけるころ、寒々と衣を打つ音がきこえてくる。  みよし野、は吉野に同じ、「み」は接頭語。さよふけて、の「さ」も接頭語、夜更けて。故里、は〈35〉にも用例あり。ここでは古くから人の住む里の義。ころもうつ、は擣衣であり砧《きぬた》である。キヌタは、衣板《きぬいた》の義と言われる。その板の上で、槌をもって布を打ち、艶を出す。「衣《ころも》打つ きぬたの音を きくなべに 霧立つ空に 雁《かり》ぞ鳴くなる」(曾禰好忠、新勅撰集)、「砧打つて 我に聞かせよや 坊が妻」(芭蕉)など作例は多い。  古今集巻六、坂上是則作「みよしのの 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり」を本歌としていることは明らかである。本歌の句を、位置もそのままにとっているということに難があるとされる歌である。石田吉貞氏は順徳院の『八雲御抄《やくもみしよう》』における雅経批判を引用して、作者に盗作的模倣癖ともいうべきもののあったことを紹介している。吉野と秋風と衣うつ音と、これだけ類型的に通俗的な道具だてでは、どう苦心してみても作品に個性的なつよさが出るはずはない。狂歌百人一首に、「衣|擣《う》つ 音にびつくり 目をさまし ところで一首 つづる雅経」というのがある。 [#1字下げ] 参議雅経[#「参議雅経」はゴシック体](一一七〇─一二二一) 飛鳥井《あすかい》雅経。刑部卿|難波《なんば》頼経の子で、母は顕雅の女《むすめ》。後鳥羽、土御門、順徳の三代に仕え、治承四年(一一八〇)従五位下、建久八年(一一九七)侍従、建仁元年(一二〇一)右少将、翌年正五位下に進み、承元二年(一二〇八)中将を経て右兵衛督、参議、従三位に至った。和歌を藤原俊成に学び、新古今集撰者となった。蹴鞠の名選手であったことも知られている。大江広元の女婿で、鎌倉と京都の間に立って有効な働きをした。家集に『明日香井集《あすかいしゆう》』あり。勅撰集に百三十二首の歌が入っている。 〈95〉|前大僧正 慈円《さきのだいそうじようじえん》 [#5字下げ]千載集 巻十七・雑  題しらず [#1字下げ]お|ほ《お》けなく うき世の民に お|ほふ哉《おうかな》 わがたつ杣《そま》に 墨ぞめの袖  身にあまることながら、私はこの山にいて墨染の衣をまとい、その袖をもってうき世の民をおおい、その力によって彼らの幸福をいのるものである。  おほけなく、は大胆にも、身分不相応に。おほふ哉、は覆うかな。墨染の袖を、うき世の民の上に覆いかけるの意、法の庇護の下に包むこと。わがたつ杣、の「杣」は木材を伐り出す山、ここでは比叡山をいう。「阿耨多羅《あのくたら》 三藐三菩提《さんみやくさんぼだい》の ほとけたち わがたつ杣に 冥加《みようが》あらせたまへ」(比叡山開祖・伝教大師が中堂建立のため材木を伐りに山へ入ったときの作。新古今集巻二十)によっている。墨ぞめの袖、はもちろん僧侶の法衣であるが、このことばには「住み初《ぞ》め」の意をかけてあるという説が古くからある。  千載集での署名は、「法印慈円」となっている。この集の成立時期に彼は法印の位であったわけである。富士谷御杖の『百人一首燈』が、もっぱら天台座主、大僧正の歌として解説しているのは、むだな努力であったということになる。平安朝末期の人民のくるしみが、慈円の眼にうつっていなかったはずはないので、うたいぶりそのものは超越的・傍観的であるけれども、それなりに聖職者らしい感懐のこめられた歌ということができる。寝もやらぬ女の悩みなどをうたった生臭坊主の歌などよりは、歌そのものとしても数等立ちまさっている。百人一首全体を通じても、こういうテーマを、これだけはっきりした立場でうたったものは他にない。  なお、前記伝教大師の歌の第二句までは真理をあまねく正しく知る仏たちに呼びかけていることばで、『一夕話』では「三藐三菩提」のよみかたを、「さみやさぼだい」とつめてよむのが読みくせになっていると書いているが、現代の訓はつめないで字余りにしてよむのが一般になっているようである。 [#1字下げ] 前大僧正慈円[#「前大僧正慈円」はゴシック体](一一五五─一二二五) 関白藤原忠通の六子。兄に関白兼実があり、甥に良経がいる。十歳のとき父の死にあい十一歳で叡山にのぼり覚快法親王に師事し、翌年出家。道快と称したが、のち慈円と改めた。建久三年(一一九二)権大僧正・天台座主となって以来、法界と朝廷とをむすぶ第一の実力者となって活躍した。若いころ西行に教えをこうと「密教を学び給はば先づ和歌をよみならひ給ふべし、和歌を詠まざれば、密教の奥旨は得られぬ」とさとされたという。俊成、定家、家隆らとも交流し、定家はその仏教思想を慈円から多く学んでいる。独自の史観によって書かれた史論『愚管抄』はよく知られている。家集に『拾玉集』がある。勅撰集に二百二十余首入っている。 〈96〉入道前太政大臣《にゆうどうさきのだじようだいじん》 [#5字下げ]新勅撰集 巻十六・雑  落花をよみ侍りける [#1字下げ]花さそ|ふ《う》 あらしの庭の 雪ならで ふり行くものは 我身なりけり  春の嵐にさそわれて、桜の花のしきりに散っている庭は、雪が降りしくようにみえるが、おもえばほんとに「ふりゆく」ものは、私じしんであった。  花さそふあらし、は桜の花を誘って散らす嵐。あらしの庭、は嵐の吹いている庭。ふり行くもの、は、「降り」と「古る」とかけている。古くなってゆくものはの意。作者は西園寺公経《さいおんじきんつね》。 「ふり行く」のところに歌の中心があるわけで、散る花を雪に見立てて降りを引き出し、そこへ重ねて、古りゆく身を通わせて転換させた技巧である。花吹雪とか花の嵐などということばもあるのだから、花を雪にたとえてわるいわけではないが、「あらしの庭の雪」という言いかたにむりがあるのではないか?  小野小町の「花の色はうつりにけりな」を本歌としているわけではないけれども、思いおこさせる歌である。小町の方が内容形式ともにすぐれている。 [#1字下げ] 入道前太政大臣[#「入道前太政大臣」はゴシック体](一一七一─一二四四) 西園寺公経のこと。内大臣藤原実宗の次男で母は藤原基家の女。定家の妻の弟。閨閥関係から鎌倉と結び、後鳥羽院には疎んぜられ、承久の乱では鎌倉方に密通したため監禁されていたが、乱後は権勢を張り、太政大臣に任ぜられ、従一位に叙せられた。寛喜三年(一二三一)病気になって剃髪し、法名を覚空と称した。北山に西園寺を建立し、吹田の別荘には有馬から温泉をはこばせたと言われる。定家の晩年は、種々の面で彼から便宜をうけている。勅撰集に百二十首近い歌が入っている。 〈97〉権中納言定家《ごんちゆうなごんさだいえ》 [#5字下げ]新勅撰集 巻十三・恋  建保六年内裏歌合、恋歌 [#1字下げ]こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくやもし|ほ《お》の 身もこがれつつ  待てど暮せど来ないひとを、なお待つ身の私は、松帆の浦の夕凪ぎの浜辺で焼く藻塩草《もしおぐさ》のように、わが身を焼き焦《こが》しているのです。  まつほの浦、は淡路島東北端にあり。「まつ」には人を待つの意もかかっている。夕なぎ、は特に瀬戸内海沿岸に著しいが、夕方海風と陸風と交替する時、一時海辺一帯が無風状態になる現象。朝なぎもある。やくやもしほの、は焼くや藻塩の、で焼く藻塩草のようにの意。「や」は詠歎の助詞。藻塩はモシオグサから採る塩。海藻を集め、乾かして簀《す》の上に積み、潮水を汲みかけて萎《しお》れさせる。これがモシオグサ。潮の染みついた藻を焼いて、水にとかして、煮て塩をとる。「藻塩火」「藻塩焼く」「藻塩の烟《けむり》」などの語あり。万葉集巻六、笠金村《かさのかなむら》の長歌に、「淡路島松帆の浦に朝なぎに玉藻刈つつ夕なぎに藻塩焼きつつ海人《あま》をとめありとは聞けど……」の句あり。定家の歌もそれから採っている。身もこがれつつ、は私の身は、藻塩草が焦がれるように、思いこがれている。と両方の意味をこめている。  建保六年内裏歌合のときの作という新勅撰集の詞書は誤まりで、建保四年|閏《うるう》六月九日内裏百番歌合のとき、順徳院の歌と合って勝ったものであるとは、石田吉貞氏が考証している。  この歌は、女の立場でうたっているものとみるべきであろう。定家としては晩年の作として自慢の歌であったらしいことは、みずからつくったいくつかのアンソロジイに収録していることからも知られる。宗祇も、貞徳も、季吟もいっせいにほめている。しかし、たとえば芭蕉の意見を筆録した俳論書『わすれみづ』(黒冊紙)では、「定家卿五首の秘歌に『こぬ人』を入るといふ説有り。此秘といふは、ただ難なき歌を出したる所をいふとや」とある。この歌の客観的評価は、まずこの「難なき歌」というあたりとみるべきであろう。  ついでに言えば、右の「定家卿五首の秘歌」というのは、徳川時代初期に、二条家において成立した秘伝で、「百人一首五歌の秘事」とも言われ、人麿の「〈3〉あし曳の」、仲麿の「〈7〉あまの原」、喜撰の「〈8〉わが庵は」、忠岑の「〈30〉ありあけの」、定家の「〈97〉こぬ人を」の五首をさすものである。 [#1字下げ] 権中納言定家[#「権中納言定家」はゴシック体](一一六二─一二四一) 第㈽部参照。 〈98〉従二位家隆《じゆうにいいえたか》 [#5字下げ]新勅撰集 巻三・夏  寛喜元年|女御入内屏風《にようごじゆだいびようぶ》 [#1字下げ]風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける  楢《なら》の葉に風がそよそよと吹いているならの小川の夕暮の眺めのなかで、みそぎをしている人びとのいるのだけが夏らしい風景である。  ならの小川、は京都上賀茂神社の前を流れる川。みそぎ、は身滌《みそそぎ》の約、禊祓《みそぎはらえ》、川水で身を洗い罪・穢《けが》れをきよめること。六月と十二月の末に行なわれるのが習わし。ここは六月末の夏越《なごし》の祓《はらえ》(六月《みなづき》祓、荒和《あらにこ》の祓とも言う)の神事の行なわれているところ。しるしなりける、は証拠であるという意、「ける」は詠歎の助動詞「けり」の連体形で、「みそぎぞ」の、「ぞ」を係りとする結びである。ならの小川のあたりは秋のように涼しいが、みそぎをしているのだけが夏の証拠だ、という意である。  この歌は、詞書にもあるように、寛喜元年十一月十六日、藤原道家の娘|※[#「立+尊」、unicode7AF4]子《そんし》が後堀河天皇の中宮として入内する時の屏風歌である。このいきさつについては、定家の日記『明月記』にくわしく記されていて、そのくだりは石田吉貞氏が『百人一首評解』に紹介している。屏風歌全三十六首のうち、家隆は七首うけもった。しかし定家のみるところこの六月祓の歌以外はすべて駄作であるのに、作者じしんは得意がっているらしい。「前院(後鳥羽院)の御時天下第一の歌に用ひらる。時移り事去る」と定家はしるした。家隆全盛時代はもう去ったという意味である。家隆はこの時七十二歳、定家六十八歳である。  この歌は、八代《やつしろ》王女の「みそぎする ならの小川の 川風に いのりぞわたる したに絶えじと」(古今六帖)、および源頼綱の「夏山の 楢の葉そよぐ 夕ぐれは 今年も秋の 心地こそすれ」(後拾遺集巻三)を本歌としていることは『拾穂抄』でも言っている。 [#1字下げ] 従二位家隆[#「従二位家隆」はゴシック体](一一五八─一二三七) 藤原家隆。父は正二位権中納言光隆、母は太皇太后宮権亮藤原実兼の女《むすめ》。二男で幼名を雅隆といった。俊成の子として養われ、定家が生まれるに及んで家を出た定長(寂蓮)の養子となり、俊成に歌を学んだ。精進時代がながく続いたが、後鳥羽院が天皇として政治の実権をにぎってからは院の信任をあつく受け、官位ものぼり、歌人としても高い位置を得た。元久二年(一二〇五)和歌所の寄人となり、定家、雅経などとともに新古今集の撰者となった。歌人として定家と並称されるほどで、歌ひとすじの生涯を送っている。後鳥羽院が隠岐の島にながされてからは失意の底においこめられ、嘉禎二年(一二三六)出家して仏性《ぶつしよう》と号した。家集に『壬二集《みにしゆう》』がある。勅撰集には二百八十一首のこっている。 〈99〉後鳥羽院《ごとばいん》 [#5字下げ]続後撰集 巻十七・雑  題しらず [#1字下げ]人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思|ふ《う》ゆゑに 物おも|ふ《う》身は  世のなかのことをあじきなく思うものだから、いろいろ物思いをする私には、あるひとはいとおしく思われ、あるひとはうらめしく思われたりするのである。  人もをし、はいとおしく思われる人もいるの意、「をし」は「愛《お》し」又は「惜し」、こころのひかれる状態。人もうらめし、は「恨めし」、人に対して否定的・消極的な感情。あぢきなく、は味気なく、うまみがないこと、つまらない、面白くない。世を思ふゆゑに、は「あじきなく世を思う故に」である。このところはしかし、「あぢきなく」を、「物おもふ身は」にかけて解する説もある。  建暦二年十二月の作であることが知られている。鎌倉ではすでに北条氏の勢力が動かぬ力を確立しはじめた頃で、後鳥羽院の心に種々の憤懣が鬱積しはじめていただろうことは想像される。当然、作者のそういう心情へ結びつけて理解しうる歌であるけれども、それを前提にしなくてはわからない歌というわけではない。一般的な生活体験のなかで、かなりよく共感しうる心理をうたっている。「人もをし人もうらめし」「世を思ふ──物おもふ」などの並列的反復の句法をあざやかにつかいこなしているところなども凡手ではない。後述するように、この歌とつぎの順徳院の歌は、為家があとから入れかえたものと思うが、後鳥羽院の多くの作のなかからこの一首をえらび出した為家の批評眼もさすがと言うべきである。 [#1字下げ] 後鳥羽院[#「後鳥羽院」はゴシック体](一一八〇─一二三九) 第八十二代の天皇で高倉天皇の第四子。母は七条院藤原殖子。名を尊成《たかひら》という。元暦元年(一一八四)に即位し、建久九年で譲位。いらい、院政をとった。かねてより村上・醍醐の二朝の時代を理想とし、承久三年鎌倉幕府打倒を企てたが、事破れて同年隠岐へながされた。その地で十九年を過ごして没。多芸多才で書道、管絃、蹴鞠なども得意であったが、業績としては生涯の大半を傾けた新古今集の仕事があげられる。家集に『後鳥羽院御集』があり、歌論書『後鳥羽院御口伝』があり、隠岐に移されてから著した『遠島御百首』『遠島御歌合』などがある。勅撰集に二百五十首ちかく残っている。 〈100〉順徳院《じゆんとくいん》 [#5字下げ]続後撰集 巻十八・雑  題しらず [#1字下げ]百《もも》しきや ふるき軒端《のきば》の 忍《しの》ぶにも 猶《なお》あまりある むかしなりけり  宮中の古い軒端に生えている忍草《しのぶぐさ》をながめるにつけても、むかしのことが思い出されて限りなくなつかしい。  百しき、はもと「百敷の大宮」というふうにつかわれた枕詞であるが、それから独立して、単独に大宮、宮廷を意味するようになった。語源については、百敷《ももしき》(百官の座を敷く)、百磯城《ももしき》(多くの石で堅固に造った城)等の説あり。忍ぶ、は古いむかしを忍ぶ意味と、忍草の忍ぶを掛けている。忍草は「軒《のき》しのぶ」ともいう。猶あまりある、はいくらしのんでもしのびきれぬという程の意。  健保四年、作者二十歳のときの作と言われる。承久の乱はそれから五年ほど後におこるのだから、この歌の背後にも、当時の政治権力の暗い葛藤を想望しうるだろう。しかし、二十歳の青年の歌としては、あまりにも感傷的に懐古的でありすぎる。 [#1字下げ] 順徳院[#「順徳院」はゴシック体](一一九七─一二四二) 第八十四代の天皇で、後鳥羽天皇の第三子。名を守成《もりなり》といい、修明門院重子が母。ことのほか父の愛を受けて、承元四年(一二一〇)即位。承久三年父後鳥羽院の倒幕の計画にくわわり、失敗し、同年佐渡にながされ、二十二年のわびしい生活をその地で過ごして没。西行、慈円、良経、定家らに早くから導かれて歌才をみがき、また古代歌学の集大成をはかり、宮中の故実《こじつ》・制度をしらべたりした。歌集に『順徳院御集』があり、そのほか『禁秘抄』『八雲御抄』などがある。『順徳院御百首』は佐渡で詠んだ歌をまとめたもの。勅撰集には百五十四首のこっている。 [#改ページ]  ㈼ 小倉百人一首の成立ち   1 その成立まで  小倉百人一首の歌は藤原定家がえらびさだめたものである。ひとことで言って、小倉百人一首は定家がつくったものだ、というわかりやすい言いかたが、学問的な研究の結果から言っても基本的には誤まりではないということをまずはじめに言っておこう。すくなくとも、定家がつくったものではない、というよりは数等正しいのである。  しかし、こういう断定を下すことができるようになるまでには、徳川時代いらい、いろいろな意見が入り乱れ、定家の撰《せん》にあらずという説が一時は有力な学者たちによって支持されたり、もちろんそれの反論があらわれたりする過程で学者たちの研究もしだいにくわしくなって、現在の定説がほぼ固まるわけである。その推移をたどると、いささか推理小説もどきに興味ふかい変転さえもみられるのである。  はじめに、現在私たちが、小倉百人一首成立の事情について知るために、見のがすことのできぬ三つの論文をあげておきたい。 [#1字下げ]中島悦次「小倉百人一首撰修私考」(『国語と国文学』昭和十年二月号)。 [#1字下げ]風巻景次郎「百人一首の再吟味」(昭和十一年二月六日稿─『新古今時代』所収)。 [#1字下げ]石田吉貞「小倉百人一首」(昭和三十二年三月刊『藤原定家の研究』所収)。  これらの論文は、数えきれぬほど多い古くからの理論の経過のなかで、主要なものはすべて調べ、研究し、その成果のうえに確実に立って問題を前進させ、じぶんたちの理論をうち出している。もちろん、同時代者の研究をも、相互に検討しあっている。つまり、学問本来のすじを、正しくすぐれて踏んだうえにつくられたのがこれらの論文である。私の以下の叙述も、主としてこれらの論文にしたがいながら問題の所在をたどることにしたい。  文献のうえで「百人一首」ということばがはじめてあらわれるのは、|宗祇《そうぎ》(一四二一─一五〇二)の『百人一首抄』(一四七八)ならびに、『老のすさみ』(一四七九)という文章のなかである。一条兼良(一四〇二─一四八一)の著といわれる『榻鴫暁筆《とうでんぎようひつ》』という書物にも定家のえらんだ百首の歌のことが出ていて「今の世に百人一首と申し侍《はべ》るこれなり」という記述がある。兼良の方が宗祇より二十年ばかり先輩だから、その書物がほんとうに兼良の著書だとすれば、初出文献としてはこの方が先かもしれぬ。いずれにしてもしかし、「百人一首」ということばは十五世紀になってからつくられたことばということになる。それ以前は、「小倉山荘色紙形和歌」「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨《さが》山荘色紙和歌」「嵯峨中院障子色紙(形)」などとよばれていた。定家の日記である『明月記』、嘉禎《かてい》一年(一二三五)五月二十七日(定家七十四歳)の項に、つぎの一節がある。 「予|本自《もとよ》リ文字ヲ書ク事ヲ知ラズ、嵯峨中院障子ノ色紙形、故ニ予書ク可キ由、彼《か》ノ入道懇切、極メテ見苦シキ事ト雖《いえど》モ憖《なまじい》ニ染筆シテ之ヲ送ル、古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇|自《よ》リ以来、家隆雅経ニ及ブ」  これが、現在の小倉百人一首に関する定家じしんの記述とされているものであるが、この解釈をめぐってだけでもさまざまに意見が乱れることになる。 「彼ノ入道」というのは、宇都宮弥三郎頼綱中院入道|蓮生《れんしよう》のこと。彼は当時出家して、入道蓮生と名のっていた。この頼綱は定家の息子為家の妻の父である。関東の豪族である彼は、京都の嵯峨に宏壮な邸宅をつくった。「嵯峨中院障子」というのはその邸の障子をさすわけである。そこで、この定家の文章は、つぎのように解することができる。  宇都宮頼綱から、嵯峨の邸の障子に貼る色紙に染筆することを懇願されていた。じぶんはもともと字を書くことを専門的に習練したわけではない。きわめて見苦しいことになるのはわかっていたが、やむをえず書いて送りとどけた。天智天皇から、家隆・雅経までの歌を一首ずつえらんで書いた。 「嵯峨山荘色紙和歌」というよびかたは、そこから出ている。「小倉山荘」というのもおなじことで、小倉山は京都嵯峨にあるからにほかならない。  石田吉貞氏の調査によると、頼綱も定家もともに小倉山に別荘をもっていた。『明月記』では二つの山荘は、はっきり区別して記されている。小倉山荘が定家の別荘であり、中院山荘が宇都宮の別荘である。その位置は、小倉山荘が現在の二尊院と常寂光寺《じようじやつこうじ》の中間の二尊院に寄ったあたり、中院山荘が現在の厭離庵《おんりあん》のある地のすぐ東側、為家の墓と言われるもののあるあたりと推定している。為家は、岳父から中院山荘を譲られてそこに住んだ。  そこでこの、『明月記』に記録のある、宇都宮入道の別邸の障子のために書きあたえた色紙和歌が、「小倉山荘色紙形和歌」であり、「百人一首」であるということになっていた。その記事のあらわれる、もっとも古い文献は頓阿《とんあ》(一二八九─一三七二)の、『水蛙眼目《すいあがんもく》』である。 「京極殿《きようごくどの》(中略)又嵯峨の山庄の障子に、上古以来歌仙百人のにせ絵を書て、各一首の歌を書きそへたる……」  とある。京極殿というのは定家のことである。ここですでに百人各一首という数が出ているし、さらに障子に貼ったのは和歌だけでなく作者の肖像もつけたということになっている。そしてこの説はそれからのちずっと、宗祇においても、前述の『榻鴫暁筆』においても、東素純《あずまそじゆん》の『仮寝能寸佐美《かりねのすさび》』(一四九九年稿)においても、細川幽斎(一五三四─一六一〇)においても、江戸時代に入ってからの北村季吟の『百人一首|拾穂抄《しゆうすいしよう》』においても、戸田茂睡の『百人一首雑談』においても、契沖の『百人一首改観抄』においても、受けつがれたかんがえであった。  宗祇の書いた百人一首の註釈書である『百人一首抄』で注目すべきもうひとつの点は、つぎのところである。 「右百首は京極|黄門《こうもん》小倉山庄障子色紙和歌也。それを世に百人一首と號する也。是《これ》をえらびをかるる事は新古今集の撰定家卿の心にかなはず。其謂《そのいい》は歌道は古より世を治め民をみちびく教戒のはじめたり。しかれば実を根本にして花を枝葉にすべきことなるを、彼集《かのしゆう》はひとへに花を本として、実を忘れたるにより、本意とおぼさぬなるべし。されば黄門の心|顕《あらわ》れがたき事を口惜くおもひ給故《たもうゆえ》に、古今百人の歌をえらび我山庄に書《かき》をかるる物也。此抄の本意は実を相として、花を少し兼《かね》たる也」。  京極黄門とは、もちろん定家のことである。新古今集の仕上げ、とくに一度できあがったものを、後鳥羽院のさしずで改訂(切継《きりつぎ》)のおこなわれたことが、定家の気に入らなかった(後出)。宗祇はここで、そういうふうには言っていないけれども、この点は私も、百人一首との関連でかなり重要なモティーフになるとおもう。宗祇がここで言っているのは、「世を治め民をみちびく」ものとしての歌道というところに重点をおいている。儒教的な詩観がこのあたりに反映しているとも思われるが、同時に当時の歌道の宗家、二条家のイデオロギイをつたえた権威意識のあらわれともみられる。  当時はすでに二条家歌学において『詠歌大概』『秀歌之体大略』とともに百人一首は和歌三部抄として秘伝されはじめていた。宗祇はここで定家晩年の和歌理論としての花と実の説をもそのような実利的教戒理論から、基礎づけようとしている。花と実とは要するに、形式と内容、技巧と思想というほどの意味にかんがえて良いだろう。実を重く、花を軽くかんがえるようになったのが定家の晩年に到達したところで、その思想が有心体(後出)にも通ずるとかんがえるべきであろう。新古今集の撰の理論が、定家に気に入らなかったというのはその意味でも言いうることである。宗祇のかんがえは、教戒主義をもちこんだところは末流の家元権威主義によって歪《ゆが》んでいるけれども、新古今との対立の問題を指摘したところが重点になるだろう。  しかし、百人一首が定家の理想とする歌をあつめたとする宗祇説には契沖と茂睡が反論している。この二人は、伝統歌学に対する偶像破壊的な革新意見をもった理論家たちで、二条家系の権威主義に対する宣戦の意識がその発言のモティーフとして大きく働いていた。石田吉貞氏は、契沖の意見にほぼ賛成しつつ、親族の別荘の障子のためにえらんだのだから、歌道の模範としようとする意識はそれほどはたらいていたとは言えぬだろう。しかし、じぶんの好みの歌を、のびのびとこころゆくまでにえらぶということは、それだからありえただろうとかんがえている。  ところで、以上はすべて百人一首定家撰定説に立っているものであるが、安藤|為章《ためあきら》(年山)の著、『年山紀聞《ねんざんきぶん》』(一八〇四刊)は、定家撰定説にはじめて疑問を提出した意見である。この色紙形は宇都宮入道の懇望によって、定家卿が京で筆を染めたものである。「歌を選びたるも彼入道にや」。極めて見苦しき事といえども、なまじいに筆を染めてこれを送るとか、古来の人の歌各一首とある書きかたなどは、「ただ染筆のみにて、定家卿の撰とも見えざるにや。蓮生法師も歌よみて、集にも入たる人なれば、是ばかりの物|撰《えら》ばむことかたかるまじ」。そう書いている。これが、宇都宮入道撰歌説とよばれるものである。  この年山の説はしかし、いかにも無理な解釈である。風巻景次郎氏は、根拠のない印象批評にすぎぬと批判している。風巻氏も石田吉貞氏もともに、『明月記』から七十四歳当時の定家の健康状態などを推定して、めんみつに反論している。歌人としての位置では、勅撰集撰者であった定家と宇都宮入道とは大きなちがいがあった。下位のもののえらんだ歌を、上位のものに染筆だけさせるということは、定家の経済的パトロンとしての宇都宮入道のことをかんがえに入れるとしてもありえないことだろう。まして定家は生来鬼のような字しか書けぬ悪筆であったのみではない。老齢七十四歳で、老眼中風で足腰自由でなかった。字だけ書かせるのであったら、当代に他に名筆・行能その他がいた。歌のえらびかたの点で、『二四代集《にしだいしゆう》』・『新勅撰集』(後出)に関連させてみて、定家の撰とみることがもっとも自然である。宇都宮入道撰歌説はどうみてもムリである、というのが風巻氏と石田氏の説である。  しかし、こういう不自然な、非実証的な印象批評ふうな安藤為章説が、じつは当時の学界に、そうそうたる共鳴者を集めた。賀茂真淵の『宇比麻奈備《ういまなび》』、尾崎|雅嘉《まさよし》の『百人一首一夕話』、香川景樹《かがわかげき》の『百首異見』など。  それは、「時代の勢が、古学に対して批判的態度に出て居った頃であった為に、この偶像破壊的な、しかし放膽な言説が、燎原《りようげん》の火のように新派の学者を風靡《ふうび》した事であった」と、風巻氏は批判している。そして、この説は、関根正直博士の『からすかご』(昭和二年)の所説あたりまで痕跡を残している。  昭和三年になって、またひとつ新説が出た。小倉百人一首をつくったのは、宗祇ではないか、という意見である。京都帝大の、吉沢義則博士の説である。「百人一首の撰者など」という論文を、『国語と国文学』昭和三年一月号に発表した。  吉沢義則説には二つのテーマがある。ひとつは、『明月記』の文章は、はたして現在の小倉百人一首のことを言っているのかどうか明確ではない。歌の数も、百首とはどこにも書いてない。百首というのは、「障子の色紙形に書いたものとしては数が多すぎるようにも思われる」。もうひとつのテーマは、「今日の百人一首は定家の撰でもなければまた頼綱の撰でもないかも知れぬ。(中略)それやこれやから考えると、後人が明月記の文章から思いついた仮托の作ではないかと疑いたくなる。更に一歩踏み出すことが許されるならば、その人は宗祇ではなかったろうかと推想したくなる」というところである。  数についてのうたがいは、香川景樹も『百首異見』でのべている。景樹は元は百首より多かったのではないか。「これは後に次第する時余りを捨て、さるべき歌を百首となしたるにや」としるしている。吉沢義則説は逆に、百首よりすくなかったのではないかとかんがえているようである。『明月記』の「天智天皇より以来、家隆雅経卿に及ぶ」というところには、『年山紀聞』が注意しているが、彼は数についてうたがうところまでは行っていない。  現在の百人一首の歌のならべかたでゆけば、〈94〉に雅経がならび、〈98〉に家隆の歌がある。家隆のあとは後鳥羽院と順徳院の歌である。安藤為章時代にもすでにその配列であったことは『年山紀聞』の文章からも知ることができる。天智天皇は〈1〉にあげられているのだから、ここは「天智天皇より以来、後鳥羽院順徳院に及ぶ」とあればすっきりするところである。当然そこから、歌の数についてうたがいが出てきてよいところである。  中島悦次、風巻景次郎、石田吉貞三氏ともこの宗祇仮托説には、すくなくとも宇都宮入道撰定説よりも根拠ありと観ている。しかし、それもやはり、「新説であるとともに卓説である」けれども、「新しき仮説であっても、決定説ではない」(風巻景次郎)とみられることになる。三氏の、吉沢説への反論は、相互に関連しつつ、それぞれ独自のデータをもそろえ、独自のコースをたどって、結論はともに定家撰定説ヘ一致するわけである。その筋道を、それぞれの説にそって紹介しておこう。  中島悦次氏の、「小倉百人一首撰集私考」について。  ひとつの別荘の障子色紙百枚というのは、吉沢説のように多すぎる。嵯峨山荘のために書いた色紙は百枚よりすくなかったとかんがえることに充分理由はある。しかし、その色紙はいずれにしろその山荘を岳父からゆずりうけた為家を通じ、為氏から為世へ伝えられ、秘蔵されただろう。  ところで、定家は他にも歌の色紙をかいている。衣笠《きぬがさ》内大臣家長の口伝を弟子がしるした書物『つくゑのさう』(机の左右)によれば、定家は七十二枚の歌の色紙をかいて私蔵したことがわかる(逸見仲三郎「補修百人一首講話開題」──『国学院雑誌』大正十二年一月号、参照)。その他にも現存する色紙うたがある。  もともと、宗祇の『百人一首抄』の材料は、彼の師|東常縁《とうつねより》(一四〇一─一四九四)から文明三年に伝えられたものであるが、宗祇が、『百人一首抄』をつくった文明十年には、東常縁がまだ生きている。師の生存中に、弟子が偽作をでっちあげるとはかんがえられない。  細川幽斎の、「小倉山荘色紙形和歌講述」は、つぎのように書いている。小倉色紙は、東常縁までは彼のところに百枚伝わっていた。そのうち五十枚を、常縁は乞われて宗祇にゆずった。さらに残りの五十枚のうち、一枚だけを手もとに残して残りは一枚ずつ門人に渡した。焼失・紛失をおそれたからである。宗祇もそれをきいておなじように、四十九枚をじぶんの門人に分ち与えた。  百人一首のことは、『明月記』の記事からかぞえて、頓阿の『水蛙眼目』にあらわれるまで百数十年間消息を絶っていた。そのことをかんがえあわせると、為家に伝わった嵯峨山荘の何十枚かの障子色紙和歌と、その他の定家の染筆した和歌色紙何十枚か(それらをあわせると百枚をこえていただろう)とが、為家没後為氏─為世と伝わる間に百枚にまとめられて、伝説となった小倉山荘色紙形和歌の語とともに、継承されることになったということがかんがえられる。為世の弟子頓阿の時代にはすでにその形になっていただろう。それは頓阿から三代を経て常縁まで色紙の形で伝わった。常縁時代まではそれだから、「小倉山荘色紙形和歌」ぐらいのところが通り名であっただろう。  それを書物の形にしたのは宗祇であった。「百人一首」の名がそのときつくられ、やがて「小倉百人一首」の名称が固定することになる。百人一首の類書模倣品はすでに足利九代将軍義尚撰の「新百人一首」(一四八三作製)いらい数多くなる。それらと区別するためにも、「小倉」の称を冠することが適当である。けれども現行の小倉百人一首は、定家の『明月記』の記事とは無関係とかんがえるべきである。  以上が中島氏の説の概略である。この説の特色は、小倉百人一首と、『明月記』嘉禎一年五月二十七日の記事とをきりはなしたところである。それらの歌は定家のえらんだものであるが、定家は百首以上を色紙にかいていたもので、そのなかから現行の百首に限定したのは定家の子為家の子孫、たぶん為氏か為世であり、それを書冊の形にして現在の順序をきめ、「百人一首」と名づけたのは主として宗祇であり、多少は常縁も関係があろうとしているところである。細川幽斎の書いている常縁と宗祇が色紙を弟子に配ったという話などは、すこしものわかりがよすぎるようなところもあるが、この説でたいせつなところは、常縁まで色紙百枚が伝わったというところで、そのあたりまではそれほど不自然ではない。『明月記』の記事ときり離すことにすれば、後鳥羽院と順徳院の歌の添加されている問題も解決されるわけである。後の風巻・石田両氏も、中島氏のこの論文を充分に参考にしつつ、各自の論をすすめている。百人一首模倣書の最初のものは二条良基の「後撰百人一首」だという説があるが、足利義尚の「新百人一首」の方が古いという指摘その他、この中島氏の論文には多くの新しい事実や資料が紹介されている。  風巻景次郎氏の「百人一首の再吟味」について。  吉沢義則博士の宗祇仮托説は、新説・卓説であるけれどもやはり従来の説をあまり無視しすぎた行き過ぎである。とくに頓阿はすぐれた学者で、引用書などには偽書の絶対に無いことがたしかめられるのであるから、『水蛙眼目』の記述を無視するのはいかにも不自然である。  ひとつの別荘の障子に百枚というのは多すぎるというのもそれほど説得力はない。一本に一枚ずつ貼ったとは限らぬ。小さい色紙なら何枚も貼れたはずである。つまり、百枚が多すぎると断定するのは根拠がない。  新しい研究は、百人一首の作品一首ずつの検討という地道な作業から拓《ひら》かれはじめた。たとえば、中島悦次氏の「百人一首歌出典私考」(『国学院雑誌』昭和九年二月号)。久曾神昇氏「二四代集と定家の歌論書」(『国語と国文学』昭和十年七月号)など。  明らかになってきたことは、小倉百人一首の歌はすべて古今集から続後撰集までの、十代集にある歌であること。しかし、厳密に比較するとそれらの勅撰集に記載された原《もと》の歌とすこしずつちがっている歌がかなり多いこと(それらの実際については、㈵の作品鑑賞の際に指摘した)。そのことから類推すると、百人一首の原撰者が歌をしるすとき、原典に正確にあたって写したものではなく、自分専用のノートあるいはハンド・ブックのようなものがあって、そこからいわば孫引きして写しとっているか、耳馴れ口馴れて暗誦していたものを記憶によってしるすかしているらしいことは、中島氏の研究にてらしても明らかである。  ところで、定家には、八代集の秀歌を抜き書きしたハンド・ブック『二四代集』がある。八代集の作品から九十四首、百人一首に採っているが、そのうち九十二首までが『二四代集』の作品と重なる。おなじく定家のつくったアンソロジイ『近代秀歌』や『秀歌之体大略』と比較してみても、歌のとりかたや配列のしかたに一致するところが大きい。  ただ、源俊頼の「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ……」の一首は、『二四代集』でも『近代秀歌』でも『秀歌之体大略』でも「山おろしよ」と、「よ」が附いている。原本の『千載和歌集』には、「よ」が無い。このところだけでは定家私家版アンソロジイとのくいちがいはあるけれども、写本時代に、この程度の写しちがいはどこからでも入りこみうるだろう。そういう小さなデータにこだわるよりは、定家アンソロジイ群と、百人一首の大きな一致に正当に注目すべきであろう。「その時百人一首は、書史的な操作の帰結のみから考えるだけでも、定家と何等かの関係を持つものであるらしい事が、再び考えられてくるのである」。  かくて、百人一首撰定者を定家とかんがえるのがやはり自然であるということになるが、そうすればやはり例の『明月記』の記録を考慮することも順当ということになるだろう。  ただ、この嘉禎一年五月二十七日に、一度に百人分書いたかどうかは、絶対に断定しうる材料がない。現存する色紙を検討してみると、どうも一時の染筆ではないらしいことがうかがえる。一時に書いたのでないとすればいよいよ、定家の好みに合った歌を、自由にえらんで書いて行ったと判断される。  百人一首が、『秀歌大体』『秀歌之体大略』などとともに定家の和歌の理想を示した秘伝のひとつであり、しかもそれは新古今集風体に対抗して撰ばれたものとされるようになったいきさつについては、鎌倉時代でも南北朝時代でもなく、室町時代に入って、二条家の歌学の末統、堯孝《ぎようこう》─常縁─宗祇のころにあった。俊成から定家・為家と伝承された和歌の家・御子左家《みこひだりけ》は、為家の息子たちの代になって二条・京極・冷泉《れいぜい》の三家に分裂対立するようになった。室町時代に入って、すでに血統としてのそれらの家の末孫は歌学のうえでは姿を消したが、学統として御子左宗家を名のる二条家歌学が頓阿からうけつがれて宗祇までたどっていた。一方、二条家に対立する冷泉家の学統も|今川了 俊《いまがわりようしゆん》と|釈 正徹《しやくしようてつ》をイデオローグとして伝承されていた。  二条系が伝統的保守派であるならば、冷泉系は革新的自由派であった。革新的自由派はいつの時代にも理論的に強く攻撃的である。冷泉派の古典は新古今集であった。冷泉派の理論攻勢に対抗するものとして、百人一首の再確認がおこなわれたものである。歌論書としての『未来記』『雨中吟』が二条派によって公表される時期とそれは一致している(『雨中吟』は後述のように、定家が詠むべからざる風体を教え戒めた秘抄であるが、それが冷泉派に伝えられていて、この期に至り二条派が公表するいきさつにからみ、雨中吟偽作説が形成される過程を解きほぐしながら、それが定家の真作であると断定するまでに至る風巻氏の論文「雨中吟成立の再吟味」は、すぐれた学術論文でありつつほとんどスリルにさえも充ちていきいきとした推理である。芸術上の理論のあらそいが、いかに芸術外的要因によって動かされながら、なまなましく権謀術数に充ちたものになってゆくかをも思わせて、むかしも今もという感興をそそるなどといえは、学問上の労苦に充ちた作業を一挙に下世話の興味にひきおろすことになりかねないが、すぐれた学術論文とは、こういう姿で生きているものであるということを、ここで私はちょっと附けたしたかったまでである)。 『雨中吟』は新古今風であり、百人一首はまさに純粋に『新勅撰和歌集』(新古今集のあと、定家がひとりでえらんだ集)ぶりであり、『秀歌大体』『秀歌之体大略』ぶりである。かくして、冷泉系の伝えた『雨中吟』曝露《ばくろ》と、百人一首顕揚とを二条家がこのとき同時に行なって、冷泉系に対し定家正統を強調しようとしたモティーフがそこに明らかになる。よく知られた、冷泉系正徹の、「そもそも歌道において、定家を難ぜん輩《やから》は冥加《みようが》もあるべからず。罰を蒙《こうむ》るべき事なり」ということばなども、このような微妙に政略的とさえも言いうる正統あらそいのかけ引きのなかで理解してゆかなくてはならぬわけである。  このようにみてくれば、百人一首の性質について、新古今集否定、定家理想歌体説は、戸田茂睡や賀茂真淵が論じたように、 「末派の捏造《ねつぞう》したものでは絶対にないのであって、実に悠々数百年にわたる中世歌壇の歴史的事実が、深く反映した必然であったのである。そして右の様な説が可能となる根源には、定家自身の壮年時と老年時とで、和歌観照に顕著な変化が生じて居ったという事実が認められなくてはならない。それが各流派に於ける定家解釈の分裂を助長し得たのであった」。  そして、結論として風巻氏はつぎのように断定している。 「百人一首は定家自撰であると共にそれが即ち有心体の歌であるとする事によって、定家の歌風並びに定家の和歌観照の考察に一つの確実な足場を提供する事になるであろう」。  以上の風巻氏の論は、中島氏の「小倉百人一首撰修私考」発表から、ちょうど一年後に執筆されたものであるが、中島氏の理論を尊重しつつ、『二四代集』その他との関連をより重視することによって定家撰定説をさらに明確にし、一面では中島氏とはちがって『明月記』の記事との関係を主張しなおしたところに特色がある。とくに、前述したように『雨中吟』問題と併せかんがえて論述した点で、独自のリアリティを発揮している。ただ、百首問題については、例の「天智天皇より以来、家隆雅経卿に至る」を引用して触れそうな気配を見せながら、微妙な問題をそらしたようにみえる。それだからけっきょく数の問題についても、中島説にしいて同調することになったようにみえるところがある。この問題についての私としてのかんがえは、後にのべたい。  石田吉貞氏の「小倉百人一首」について。  吉沢義則氏の宗祇偽作説は根拠が薄弱であるが、二条派末流の偽作ではないかというかんがえは、かんたんには否定できない。もともと定家仮托の偽書は極めて多いのだから、とまず石田氏はかんがえる。『明月記』記事との関係の再確認、『二四代集』との密接なつながり、風体における『新勅撰和歌集』との一致、などの問題については風巻説に同意している。ただ、『明月記』記事に関係して、石田氏はその日一挙に書きあげたものと観ている点は、風巻説とことなっている。  新古今集への不満、花より実をとる説、そして歌道の規範・理想となすの説についてはどうか? 「思うに『百人一首』は、親族の別荘の障子の為のものであるから、歌の軌範を示すという様な意があったとは考えられない。又新古今撰歌に対する不満はあったとしても、この『百人一首』の撰歌の場合に、直接にそれが意識されたとも考えられない。しかし定家の名に於て、後世に残るものであるから、できるだけよい歌を撰んだことは考えられることであり、又勅撰集のように固くならずに、伸び伸びと好きな歌を撰んだことも考えられるから、定家晩年の好みが最もよく現われているということはできそうに思われる。(略)好きな恋歌を堪能するまでとっているなど、このことを物語っていると思われるのである」。定家晩年の傾向のことをかんがえれば、実のある歌に傾いていることも争そわれぬ。「故に二条派の人々の言っていることも、この点に関する限り、誤であると言って一概に斥《しりぞ》けることはできないと思われる」。  歌数百首の問題についてはどうか? 石田氏はここで、ひとつの新しい文献を紹介している。「定家自筆と称せられる古筆」としるして、書目、所在は明らかでないが、嘉禎二年三月二十六日に、家隆卿が訪ねてきて、内々約束してあった撰歌九十七首を書いて渡したという文章を、原文(漢文)で引用している。  ところで、当時流行していた障子歌というものはどういうものであったか。このことでも、石田氏は『明月記』のなかから、新しいデータを出している(石田吉貞氏と、村山修一氏は、古来のすべての定家研究者のなかでおそらく『明月記』をもっとも忠実に読みこなしている二人の学者であるだろう)。承元元年四月二十一日の項の最勝四天王院障子歌のばあい、寛喜元年七月二十九日の項の宇都宮神宮寺障子のばあい、さらに『歌書綜覧』にみえる室町殿障子詩歌のばあいの三つのデータから、障子一枚に、歌二枚・絵二枚が普通で、大きい絵のばあいには一枚のばあいもあったと考証している。  そこで小倉山荘の色紙のことをかんがえると、『水蛙眼目』の記述などによってかんがえて、おそらく障子一枚に歌と絵と各二枚ずつ貼っただろう。五十本の障子を必要とするわけである。多すぎるようにもおもうが、関東第一の富豪の京都の別荘だからそれくらいはおどろくにあたらぬと言いうる。  天智天皇より以来、家隆雅経卿に至るという書きぶりからは、「さして歌人とも申し上げ得ない天智天皇をあげ、そして又当代の雅経の程度までをあげるというあげ方が、相当の多人数を想像せしめる」。当時は、「初学百首」とか、「歌合《うたあわせ》百首」とかいうふうに、百首で区切ることが流行していたこともある。九十七枚などという半端な数はどうしてもかんがえられない。やはり最初から百首であったのではないか。そう、石田氏はかんがえる。  しかし、石田氏の説の、もっともつよいところは、宮内庁書陵部所蔵の写本『百人秀歌』をくわしく検討したことである。この材料によって石田氏は一挙に、色紙形から書冊形にまとめたのは宗祇であるという中島─風巻説をくつがえし、同時に歌の配列順序問題ならびに百首問題をも明確にしてゆく。  まず、『百人秀歌』とはどういうものであるか?  外題は、本文とは別筆と思われる朱書で、「百人秀歌 京極黄門撰」としるされ、内題は「百人秀歌 嵯峨山荘色紙形京極黄門撰」としるされている。書写は近世初期と思われ、奥書には、「上古以来の歌仙の歌一首思ひ出づるに随ひてこれを書き出づ。秀逸の詠、皆これを漏らす。用捨心に在り。自他傍難有るべからざるか」。これを漢文で書いてある。  内容は、現行の百人一首とだいたい同じであるが、つぎの点が異っている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰ 歌の順序が全体にわたって、かなり多く異っている。  ㈪ 後鳥羽・順徳両院の歌が無く、次の三つの歌が適当のところにそれぞれ入れられている。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   ○よもすがら ちぎりしことを 忘れずば 恋ひん涙の 色ぞゆかしき  一条院皇后宮   ○春日野の 下もえわたる 草の上に つれなく見ゆる 春のわか雪  権中納言国信   ○紀の国の ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに あひ見てしがな  権中納言長方 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈫ 源俊頼の歌は「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ……」ではなくて、次の歌が入っている。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   ○山ざくら さきそめしより 久方の 雲井に見ゆる 滝の白糸 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈬ 合計百一首である。 [#ここで字下げ終わり]  この『百人秀歌』は偽書か?(この考証をめぐって、あたかも前述の、風巻氏が『雨中吟』の真偽を考証したときとおなじような関係状況の展開されるのは、たいへん興味がある)。まずかんがえられることは、二条家の百人一首に対して、冷泉家がそれに似せてつくった偽書ではないかということである。しかし冷泉家ならば、「『新勅撰集』以来非難の的になっている両院を削除したものを、わざと作るというようなことはしないであろう」。奥書なども、『二四代集』の奥書や『秀歌之体大略』の前書などを参考としてかんがえて偽作らしくはない。  もともと、二条家側にくらべて、冷泉家側には偽書もすくなく、さらにこの書のことは一度も冷泉家側の文献にあらわれていない。冷泉家側の偽書ではなさそうである。二条家側は、百人一首を所有しているのだから、なおさらこの種の偽書をつくるとはおもわれぬ。定家の真作とかんがえて良いのではないか。  そこで問題は第二段階へすすむ。偽書でないとして、それならば百人一首より前のものか後のものかというと、前のものと推定される。なぜかというに、歌人の配列の順序をみると『百人秀歌』の方はきわめて粗雑に並べてあるが、「百人一首」の方はその点で時代順に整備されている。だから、まず『百人秀歌』があり、年代的誤まりを正して、更に歌人の入れ替えを行ったものが「百人一首」とかんがえられる。  さらに第三の段階へ問題をすすめて、嵯峨山荘の色紙との関係をかんがえてみると、この『百人秀歌』の順序が、障子歌として定家の定めた順序であると推定される。山荘障子歌は、一枚の障子に二首ずつ貼られただろうという推定は前述したが、この『百人秀歌』の順序は単なる年代順ではなく、二枚ずつ組みあわせるために配慮したと思われるフシがある。第一枚目に天智と持統父子、第二枚目、人麿と赤人、第五枚目行平と業平兄弟、第七枚目小町と遍昭、第四十四枚目俊成と西行、第四十八枚目良経と慈円、第五十枚目の家隆と定家等という組み合わせになるようにつくられている。最後に、新勅撰集の歌四首をならべた点、実朝の歌の配列位置などにも定家らしい苦心がうかがいうる。定家じしんの歌を百首目の最後においたところなども撰定者らしい配慮である。百一首目に公経の歌を加えたのは、「公経を除外することを憚って最後に至って加え、その代りに前の方から一人を除こうとしたものであろうと考えられ、そのような点には如何にも定家らしさが現れていると思うのである」。  草案『百人秀歌』で、百一首のメモができたから、いよいよ本番の色紙をかく段になって公経を入れ、そのかわりに除いたのが、前記の現在の「百人一首」にみえない一条皇后、国信、長方のうちの一人の歌であっただろう。俊頼の歌が別のものになっているのも、いよいよ色紙を書く段になって変更し、メモの方はそのまま訂正しないで残ったと見られるだろう。  そして、問題はついに、例の天智天皇より家隆雅経に及ぶの件にたどりつく。『百人秀歌』によったとすれば『明月記』のあの記事も、「公経に及ぶ」となるはずである。ここはたぶん、「家隆雅経」とかいたのは、家隆や雅経などのような現代の歌人というくらいの意味で、その二人に特にアクセントをおいているわけではないのであろう。「今を時めく入道殿下(公経)をあげるのは憚られたのではなかろうか」。  このようにして、『百人秀歌』の枠内でおさまっていれば、問題は比較的すっきりするのであるが、「百人一首」では最後に後鳥羽院と順徳院の歌が〈99〉と〈100〉にすえられている。『百人秀歌』によって問題を解こうとするかぎり、この問題についての考察はどうしてもさけられぬことになる。石田氏はそこを、つぎのように説明する。──『新勅撰和歌集』からも、嵯峨山荘色紙形和歌からも、両院の作品をのぞかせたのは九条道家である(承久の乱後の政治的配慮がからんでいることはもちろんである。石田氏はここでそれを明らかには書いていないが、もちろん考慮にいれているわけである。道家の指図を裏づける文献は存在しないらしく、石田氏も資料によって立証しているわけではない。それだからいよいよ、石田氏の断定に、承久の乱後の鎌倉への配慮を念頭においていることが推しはかられる)。それを、現行の「百人一首」におけるように、最後に両院の作品を入れたのは、建長四年(一二五二)、道家死後における、為家の工作である。  為家は青年時代、スポーツマンであった。蹴鞠《けまり》で後鳥羽院に愛されたことは前にのべた。順徳院にも殊のほか気にいられて実忠という名をつけてもらって改名さえしている。院が佐渡へ流されてからも連絡がたえなかった。九条道家とともに、乱後鎌倉との提携で政界に復帰したもう一人の権力者・西園寺公経もすでに死んでいる。両院の作品をくわえるのに、何のはばかるところもなくなった。  為家の撰した『続後撰和歌集』に両院の作品は採ってあり、「百人一首」へ入れたのもその歌集の作品からである。為家は、両院の作品を終りにおしこんで、前の方から二人の作品をのぞいた。『百人秀歌』に残る百一人のうち、一人は定家が、公経の作品をいれるときに除いた。これで、差引勘定が合うことになる。一条皇后、国信、長方の三人が「百人一首」から欠けているゆえんである。同時に配列を年代順に正して、現在の形にしたのも、そのときの為家の作業であっただろう。  石田氏の結論はつぎのようになる。現行、小倉百人一首百首の歌のうち、九十八首は定家が百一首のなかからえらんだ歌である。九八パーセントの撰定率であるから定家撰と言ってさしつかえなかろう。現在の「小倉百人一首」の形が決定されたのは、中島・風巻説よりもずっと早い、為家の時代である。  石田吉貞氏の研究は、とくに『百人秀歌』という新しい材料をつかったことによって、従来の研究を大きく進め、ほとんどゆるぎない強さに基礎づけたものと言いうる。『百人秀歌』については、有吉保氏の「百人一首の書名成立の過程について」(『古典論叢』昭和二十六年七月刊)というすぐれた論文もある(有吉氏は、『百人秀歌』を、小倉山荘色紙形和歌のあとにまとめたものであろうとみている点は、石田氏の意見と反対である)。しかし、石田氏がほとんどその生涯をかけて総合的な藤原定家の研究ぜんたいをバックにして結論した、小倉百人一首撰定者論は、この後相当に大きな資料があらわれたとしても、かんたんには崩れないものであろう。  上記の私の要約的な紹介ではうまくあらわせなかったところもあるが、重厚な老学究らしく、論のはこびは穏健中庸でありつつ、断定すべきところは明確に判断している。嵯峨中院障子色紙は、一枚の障子に二枚ずつ貼っただろうという推定を、歌人の組み合わせの点からかんがえて行ったところなどもすぐれた着眼というべきであろう。  風巻景次郎氏が、俊頼の「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ……」における、「よ」の移動を問題にしていることは前述したが、石田氏が『百人秀歌』に残る俊頼作品のことを言っているところからかんがえても、風巻氏の意見は補強されるようにみえる。『明月記』の記録から、嘉禎元年五月一日に、定家が宇都宮入道から嵯峨中院の別荘へ招待され、障子色紙はおそらくその時に依頼されたのであろうと推定している。それから約一カ月かかって五月二十七日にできあがるわけであるから、時間的にもだいたい適当である。  後鳥羽院・順徳院問題は、小倉百人一首のなかで、じつは微妙に厄介なものである。前に福井久蔵氏の、『大日本歌学史』(大正十五年刊)の説があって、中ほどの二人を削って両院をあとからくわえたものとし、久曾神昇氏にも、定家と両院の三人をあとから、くわえたとする説(「二四代集と定家の歌論書」──『国語と国文学』昭和十年七月号)がある。中島悦次氏は、百枚よりはかなり多くの、そしてあれこれの機会に定家が書きのこした色紙のなかから、子孫が百枚えらんだという推論でこの問題をうまくぼかし、風巻景次郎氏はその問題にふれかかったが途中で話をそらした形跡があるということは前に書いた。それだから、この問題についても、石田氏の論が具体的に、読者をなっとくさせる論証性をもっている。両院の作品が、あそこに入りこむ過程は、おそらく石田氏の推定どおりであろう。この点は石田氏の論のなかでも、もっともつよいリアリティをもって組みたてられていると、私はおもう。  しかし、両院を後人がくわえたということは、言うまでもなく、はじめに定家がくわえていなかったということである。定家が外したから、後代の誰かが差しかえたということである。小倉百人一首が、一〇〇パーセント定家撰というには、二パーセントの傷がつくのも、もっぱらそこに関係している。  定家は、なぜ後鳥羽と順徳を外したか? 実朝を入れ、家隆・雅経を入れ、公経はいったんできあがった草稿をさしかえてまで入れたのだから、後鳥羽と順徳を入れてもおかしくはない。歌人としての経歴、実績という点で、入れない方がおかしい。  安藤為章が『年山紀聞』ではじめて、「自天智天皇以来及家隆雅経」のところへ注目したのに、「当時の臣下なる故に」家隆雅経と書いたのか、などといってすましているのは、歴史的な事情にまったく目を向けていないもののことばにすぎぬ。だいいち、このところの文意はまったく不明である。上皇の名前をもち出すのは、はばかられるから、臣下の名をあげておいたというふうに為章がかんがえているのであろうか。はばかられる、というのなら、なぜそうなのか。かるがるしく天皇・皇族の名を口にするのはおそれ多いという、明治以後の天皇家神格化意識が、その時代すでに発生していたと解すべきであるのか? 十九世紀はじめの為章にすでにそういう意識がきざしていたとしても、もとは十三世紀前半の定家の文章に関することで、六百年後のイデオロギイによって、まったく非歴史的に類推していることになる。もともとこの定家の文章には「天智天皇」の名があがっているのだから、そのあとへ「順徳院」とあげておかしいはずはない。その方が、文章の形から言ってもバランスがとれて首尾一貫する。為章は、撰者について異説は出したけれども、後鳥羽・順徳の歌が、はじめから入っていたことには疑問をもっていないのである。  石田吉貞氏は、前にも書いたようにここのところを、「現代の歌人」というくらいな意味に、軽く解釈すべきで、今をときめく入道殿下の名をあげるのははばかられたのではなかろうかとかんがえている。つまり、文章のしんがりに、前太政大臣西園寺公経の名をすらあげるのはおそれ多いと、定家がかんがえたと推定しているわけであろう。しかし公経は、定家の二度目の妻実宗の女《むすめ》の弟である。古代の天皇の名前にならべて、じぶんの義弟の名前を出すのはおそれ多いとかんがえたかもしれぬが、天皇と名前をならべることがおそれ多い、はばかられるという意味なら、公経よりもはるかに身分の低い、参議雅経や、従二位家隆をならべるほうがもっとおそれ多いはずである。そうではなくて、このところでの石田氏の意識には、上皇・天皇の名前どころか、入道殿下の名前すら、そこへならべるのははばかられるということであろう。明治うまれの篤実な学者である石田氏に、その意識のはたらいたことはしぜんである。けれども問題を現実的・合理的に処理してゆくという点からみれば、石田氏の意識にもそこが盲点として残ってしまったのである。  定家は、なぜ後鳥羽・順徳を省いたか。その点について石田氏も、承久の乱後の政治的条件を計算に入れて解釈しているのは明らかであるということは前に述べた。後鳥羽・順徳は、鎌倉からしりぞけられて島流しにされた。京都は、鎌倉と提携した九条道家と西園寺公経が支配しはじめている。定家は九条・西園寺両家の庇護のもとに栄光ある老年をむかえることができた。『新勅撰和歌集』編集のとき、九条道家の命令によって、両院の作品は排除した。百人一首のときも、おなじ事情であった。──それが、石田氏のかんがえである。  天皇が発案者の形をとる勅撰集のばあいは、撰のしかたに政治的な配慮が入ることは事実であった。『新勅撰和歌集』のばあいは、道家が積極的にそれをやっていることは明らかになっている。しかし、道家の命令がなくとも、定家じしんそれくらいな配慮は充分にしただろう。──いや、じっさいにしているのである。  知られているように、『新勅撰和歌集』は完成までにずいぶん難行している。後堀河天皇の依頼で仕事に着手したのであるが、三年かかって完成に近づいたころ、天福二年(一二三四)八月六日、後堀河院が死んだ。撰者定家は、その翌日朝、悲痛な思いで家の庭で草稿を焼きすてた。しかし、奏覧本が残っていたので、貞永元年(一二三二)十月を形式的奏覧日とし、文暦二年(一二三五)三月に実質的に完成させたのである。  ところで、『明月記』寛喜二年(一二三〇)七月六日の条によると、道家から勅撰集撰修についての話があったのに対して、定家はつぎのようにしるしている。──今度の勅撰集の撰者は誰であろうか。道のため本懐ではあるが、自分としてはその希望はない。そしてもし近日撰進が行なわれたならば、撰者は困惑するに違いない。なぜなら、後鳥羽院等前代の御製は傑出しており、それを撰入することにすれば、歌数がきわめて多くなろうが、それでは鎌倉幕府に対するはばかりもあり、忌避されるであろう。かといって歌数を減らせば、世間のそしり、殊に藤原家隆、同秀能など後鳥羽院側近者の非難を浴びるであろう。しばらく撰進の時期を延ばすのが良策であろう(岩波文庫本、『新勅撰和歌集』解題、による)。  鎌倉の、北条泰時の長男時氏の死などがあって着手はおくれたが、貞永元年六月から、定家の手によって撰出のしごとがはじめられた。天福二年、ひととおりできあがったものに、道家・教実父子立会のもとに、百首が削除された。もっぱら鎌倉との関係を考慮して削ったものであった。越部禅尼などというひとは、この政治的な立場からの道家らの干渉を「かた腹いたやとうち覚え候き」と書き残している。  この禅尼は、俊成の娘で、『無名草子』の著者になぞらえられているひとであるが、思想的に反鎌倉派であったのかもしれぬとしても、定家の撰のしかたは、公的な勅撰集であるからには、政治的な関係はとにかくとして、文学の基準にしたがって、反鎌倉派であろうとも、すぐれた作品は採るという客観的な立場を堅持したのであろう。それだから、政治家の道家・教実が露骨に干渉したということになるだろう。定家は越部禅尼などと別の意味で、このたびの道家らの措置に、新古今集のときの後鳥羽院の措置とおなじように「かた腹いたやとうち覚え」たかもしれぬ。  しかし、小倉百人一首、つまり嵯峨中院障子色紙形のばあいにも、道家の命令がはたらいたとかんがえうるだろうか? 命令がなかったとしても、定家の処置をもっぱら政治権力との関係だけで解釈すべきであろうか? むしろ定家じしんの、個人的に感情的な拒否意識の方がより大きな要素とかんがえるべきではないか? 文学者といえども、もちろん血生ぐさい政治について、充分に配慮する。政治によっても生きる。しかし、政治のみによって生きるものでないことは、同時に美とか芸術とか文学とかいう、実体のない観念のみにすがって生きるものでもないことと同様である。政治的現実的な力への便乗や拒絶、個人の愛情や嫉妬や怨念、あらゆる明るいもの暗いものへの共感と反撥──それらすべての相反するもののせめぎあいのなかに、文学者の自律も成立する。  息子の妻の父親の別荘の障子をかざるために、和歌を書いてくれとたのまれて、百人一首の歌人をえらぼうとして、政治権力への配慮がまず働らいたとは、どうしてもかんがえられない。「伸び伸びと好きな歌を撰んだ」ということは、うたがいない。勅撰集のばあいとちがって、このたびは個人的に、気にくわぬ歌人を外すことは当然である。後鳥羽院は、定家にとって気にくわぬ、きらいなタイプの歌人であった。父親の後鳥羽院を外せばしぜんに順徳院も外すことになるだろう。かんがえて外すまでもなく、はじめから問題にならなかっただろう。  もはや言うまでもないことかもしれぬ。定家と後鳥羽院確執の問題である。元久元年、定家が後鳥羽院の点歌をそしり、それを家長たちが院に告げ口した事件や、新古今集完成祝賀会に定家が出席しなかったこと、そして承久二年には、定家に対する後鳥羽院勅勘事件(後出)もあった。そのほかにも、承元元年(一二〇七)に、後鳥羽院の計画した最勝四天王院障子用の名所絵撰定と和歌詠進のことがあり、定家は意気ごんでその仕事にあたり、作歌した。しかし定家の作品で、院が採用しなかったものもあった。例によって定家は不平で、院を批判したり非難したりした。それが院の耳にも入った。のち、『後鳥羽院御口伝』にも定家に対する非難は記録された。「定家は左右なき者なり」「傍若無人ことわりに過ぎたり。他人の言葉を聞に及ばず」などとしるされ、「惣《そう》じて彼卿が歌存知の趣、些《いささ》かも事により折によるといふ事なし。又ものにすぎたる所なきによりて、我歌なれども自讃歌にあらざるをよしなどいへば腹立の気色あり」と書かれている。定家を批判する後鳥羽院の態度には「憎悪という如き御感情さえうかがわれる」と久松潜一氏もかいている(『日本歌論史の研究』)。  新古今集の作品撰出の過程で、後鳥羽院が口出しするのをうるさく思ったり、意見の衝突したりするのはしょっちゅうで、定家は時どき和歌所出仕をサボったりしている。新古今集の撰が終って、竟宴《きようえん》が行なわれたのが元久二年(一二〇五)三月二十六日。しかし、それからも永いことかかって後鳥羽院の勝手なかんがえで作品の入れかえ(切継ぎ)が行なわれた。建永元年(一二〇六)十一月八日の日記に定家は、 「仰せによりて又新古今を切る。(出入|掌《てのひら》を反《か》えすかごとし)。切継を以て事となす。身において一分の面目無し。近日の和歌の沙汰、又耳目を驚かす」。  と書いた。プライドを傷つけられた定家の不快は並々でなかったことが知られる。「事により折によるといふ事なし」と批評されているけれども、文学者の見識、筋の通しかたというものは、そういうものなのである。公的な勅撰集のばあいと、私的な嵯峨中院障子色紙形のばあいとではちゃんと区別し、つまり「事により折による」区別をしているのである。百人一首をえらぶばあいの定家は、いやなものはいやだ、嫌いな人間は嫌いだと言っただけにすぎぬのである。政治などに関係なく、まったく個人的なモティーフを尊重したのにすぎぬわけである。  石田吉貞氏ばかりではない。中島悦次氏にしても、風巻景次郎氏さえも、その問題にふれなかった。中島・風巻両氏は、意識して避けたのであったかもしれない。それは、そうせざるを得ぬ理由があった。昭和十年代の論文であったということである。 [#改ページ]   2 その構成  平安朝和歌を代表する歌集として八集の勅撰和歌集がつくられている。ふつうに八代集と言われるのはこれらの八歌集のことである。小倉百人一首に関して言えば、八代集につづくさらに二つの勅撰集からも作品をとっている。八代集と、それにつづく二つの勅撰集をあわせて十代集という言いかたもされている。十代集のリストをつくってみると、つぎのようになる。 十代集一覧(上から書名/巻数/発案者/撰者/収録歌数/成立年) [#1字下げ]古今《こきん》和歌集/20/醍醐天皇/紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑/一、一〇〇首/延喜十三年(九一三) [#1字下げ]後撰《ごせん》和歌集/20/村上天皇/源順・大中臣能宣・清原光輔・紀時文・坂上望城/一、四〇〇首/天暦五年(九五一) [#1字下げ]拾遺《しゆうい》和歌集/20/諸説あり/諸説あり/一、三五〇首/長徳二年(九九六) [#1字下げ]後拾遺《ごしゆうい》和歌集/20/白河天皇/藤原通俊/一、二二〇首/応徳三年(一〇八六) [#1字下げ]金葉《きんよう》和歌集/10/白河上皇/源 俊頼/七一六首/大治二年(一一二七) [#1字下げ]詞花《しか》和歌集/10/崇徳上皇/藤原顕輔/四一一首/仁平二年(一一五二) [#1字下げ]千載《せんざい》和歌集/20/後白河法皇/藤原俊成/一、二八五首/文治三年(一一八七) [#1字下げ]新古今《しんこきん》和歌集/20/後鳥羽上皇/源 通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・僧寂蓮/一、九八〇首/元久二年(一二〇五) [#1字下げ]新勅撰和歌集/20/後堀河天皇/藤原定家/一、三七四首(諸説あり)/貞永元年(一二三二)(諸説あり) [#1字下げ]続後撰和歌集/20/後嵯峨上皇/藤原為家/一、三六八首/建長三年(一二五一)  収録歌集のかぞえかたには、諸本によって多少ずつ異同のあるものが多い。成立年次についても諸説あるものが多く、だいたいの標準を示した。古今集、拾遺集、千載集、新勅撰集には長歌と旋頭歌《せどうか》数首ずつを含む。  これらの集はそれぞれに編纂の方針もちがいがあるから、順次にその時代の代表的な歌をえらんだというわけではない。古今集から順によんで行けば、すこしずつ変化しながら新古今集に到達し、さらにつづいての二集によって鎌倉時代の歌風への転位がわかるというふうにつくられているわけではない。けれども、歌風・様式という点からみれば一脈通ずるものが通っているということになる。そして、なかでも古今集と新古今集がすぐれて代表的な集でもあり、様式的には共通した性格をもちつつ、相互に個性的な強さをも示している二つの歌集ということになるわけである。  小倉百人一首の九四パーセントまでは、これら八代集のすべてから抽出した作品によって構成されている。すくなくとも、藤原定家のかんがえで、なかでもすぐれた歌を撰び集めたということになるわけである。  そこで、この百首はそれぞれどの歌集から採られているかを表にしてみるとつぎのようになる(配列された順序にしたがって、1から100までの番号によって示す)。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、古今和歌集から採ったもの。 二十四首。    5・7・8・9・11・12・14・15・16・17・18・21・22・23・24・28・29・30・31・32・33・34・35・36  二、後撰和歌集から採ったもの。 七首。    1・10・13・20・25・37・39  三、拾遺和歌集から採ったもの。 十一首。    3・26・38・40・41・43・44・45・47・53・55  四、後拾遺和歌集から採ったもの。 十四首。    42・50・51・52・56・58・59・62・63・65・68・69・70・73  五、金葉和歌集から採ったもの。 五首。    60・66・71・72・78  六、詞花和歌集から採ったもの。 五首。    48・49・61・76・77  七、千載和歌集から採ったもの。 十四首。    64・67・74・75・80・81・82・83・85・86・88・90・92・95  八、新古今和歌集から採ったもの。 十四首。    2・4・6・19・27・46・54・57・79・84・87・89・91・94  九、新勅撰和歌集から採ったもの。 四首。    93・96・97・98  十、続後撰和歌集から採ったもの。 二首。    99・100 [#ここで字下げ終わり]  なお、中島悦次氏の「百人一首歌出典私考」および、「小倉百人一首序説」(『跡見学園紀要』第三集、昭和三十三年刊、所収)では、百首が十代集以外にも採録されている歌集、歌学書をめんみつに調査してそのリストをつくっている。  小倉百人一首の作家で、鎌倉時代に入ってから生れているのは源実朝と順徳院だけである(実朝は一一九二年生れ、順徳院は一一九七年生れで、新古今集の完成した一二〇五年には、彼らはともにまだ少年であった)。しかし、この二人の作品はやはり平安朝歌風の枠のなかでかんがえうるものであるから、小倉百人一首歌風の下限も、依然としてその限界を破らぬものとかんがえられる。  しかし、小倉百人一首にえらばれた作家のうち、その古いひとびとには、平安朝以前の作者が七人いる。天智天皇、持統天皇、柿本人麿、山部赤人、大伴家持、安倍仲麿、そして伝不明の猿丸大夫である。  これら七人の作品のうち、万葉集に原型があり、新古今集へ転載された持統天皇と山部赤人の作品については、わずかな助詞や助動詞の異同にすぎないけれども、転載された形がいかに微妙に新古今調に転化されているかは前にのべた。ここでは、他の五首について、平安朝歌風との関連のことに重点をおいてつけくわえておきたい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○秋の田の かり|ほ《お》の庵《いお》の とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇 [#ここで字下げ終わり]  この歌は『後撰和歌集』巻六・秋歌中に「題しらず、天智天皇御製」としてかかげられているものである。賀茂真淵は、『百人一首|宇比麻奈備《ういまなび》』で、万葉集巻十の「秋田刈る 仮廬《かりお》を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を誤まり伝えたものとの説をなし、香川景樹なども賛成して、ほぼ定説になっている。「露を詠《よ》む」と題する九首のうちの一首で、作者未詳の作品である。石田吉貞氏は撰者が天智天皇と持統天皇と父子の作品をはじめにならべ、さらに耕と織の二つの作業に対する天皇の関心をも対照させたかったのではないかとかんがえている。そういえばさらに秋の歌と夏の歌という対照にも気がつく。そういうことがあったかもしれないが、ここではやはり、真淵の言うように、万葉の歌の転化とみて、元の形がなめらかに調子よくなりながら「秋の田のかりほ」のところで、「刈穂」と「仮庵」とでことばを掛けた技巧が撰者の好みに合っている点を見のがしてはならぬだろう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○あし曳《びき》の 山どりの尾の しだり尾の ながながしよを ひとりかもねむ  柿本人麿 [#ここで字下げ終わり]  この歌も、万葉集巻十一の「物に寄せて 思を陳《の》ぶ」の分類で「思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を」の註に「或る本の歌にいはく、あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長長《ながなが》し夜を 独りかも寐む」とあるものが原型である。そして、これももとは作者未詳のものであるが、『拾遺和歌集』巻十三恋三に「題しらず、人麿」として入ったものである。万葉集での「長長し夜」のところは、万葉仮名では「長永夜乎」としるされていて、「ながき永夜《ながよ》を」と訓むことも古くから行なわれ、斎藤茂吉もそのよみかたをとっている。 「寄《ものに》[#レ]物陳《よせておもい》[#レ]思《をのぶ》」は、万葉集では恋愛の歌とは限らぬ。恋愛の歌の、万葉集での分類は「相聞《そうもん》」である。元の形の「思へども 思ひもかねつ……」はやはり、恋愛の歌とばかりは言いきれぬだろうが、拾遺集に入れた形はやはり「ながき永夜」よりは角がとれて恋愛の歌らしくなっている。そして変化した、ちょうどその度合に応じて平安朝好みになっているのである。  他の猿丸大夫、大伴家持、安倍仲麿の歌は、ともに万葉集には無い歌である。家持の歌は、『家持集』には入っているが、この歌集は他の作者の歌が多く記録されている作品集で、この「かささぎの わたせる橋に おく霜の……」という一首も、家持作かどうかはうたがわしいということになっている。家持は、言うまでもなく奈良朝末期の歌人で、万葉集編纂にもっとも大きく関係したひとでもある。万葉集に録された家持の作品には「春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯なくも」「わが宿の いささ群竹《むらたけ》 吹く風の 音のかそけき この夕かも」「現身《うつせみ》は 数なき身なり 山河の 清《さや》けき見つつ 道を尋《たず》ねな」などがある。これらの作品には、初期万葉作者たちとちがった自然や人間に対する認識、それにともなっての歌風における繊細や技巧があらわれている。初期古今集歌風へ流動的に連続してゆく姿をそこに見ることができるわけであるけれども、上記の歌と、小倉百人一首の歌とをくらべてみると、やはり前者は、より明らかに万葉ふうでもあり、家持らしいうたいぶりということになる。  猿丸大夫の歌と、安倍仲麿の歌とは、ともに古今集に見えるもので、特にここで言うことはない。  以上のことを綜合してつぎのように言うことができる。小倉百人一首には、ごく少数の奈良朝歌人と、鎌倉時代の歌人の作品が含まれているけれども、歌風ということで観ればそれは平安朝の歌人たちによって実現された文学(和歌)の美の意識によって統一された作品群である。  小倉百人一首の作者たちや、作品のテーマについて概括的な分類をしてみるとさらにつぎのようなことがわかる。  十代集はすべて、歌のテーマによって分類して各巻に集めるというスタイルをとっている。たとえば古今集についてみるとつぎのごとくである。 [#1字下げ]巻第一/春歌上 巻第二/春歌下 巻第三/夏歌 巻第四/秋歌上 巻第五/秋歌下 巻第六/冬歌 巻第七/賀歌 巻第八/離別歌 巻第九/羇旅歌 巻第十/物名 巻第十一/恋歌一 巻第十二/恋歌二 巻第十三/恋歌三 巻第十四/恋歌四 巻第十五/恋歌五 巻第十六/哀傷歌 巻第十七/雑歌上 巻第十八/雑歌下 巻第十九/雑体 巻第二十/大歌所御歌  こういう分類は各集によってそれぞれ多少ずつのちがいはあるが、春・夏・秋・冬、恋歌、賀歌、雑歌に分類するのは十集すべてに共通して、全十巻の『金葉集』と『詞花集』をのぞけば、離別・羇旅・哀傷の三部類を建てるのも共通している(『拾遺集』のみは、羇旅の分類を独立させてない)。そこで、小倉百人一首にとられた歌を、それぞれもとの歌集の分類にしたがって表にしてみるとつぎのようになる(数字は歌の数)。 [#表(img/fig1.jpg、横275×縦381)]  春夏秋冬の歌は、だいたいにおいて自然をうたったものとみることができるが、それを合計すると三十二首になる。それは、恋愛をうたった歌四十三首よりはすくない。さらにたとえば清少納言の「〈62〉夜をこめて」や、周防内侍の「〈67〉春の夜の」や、後京極摂政の「〈91〉きりぎりすなくや霜夜の」などは雑や四季に分類されているものであるが、恋の歌ともみられるものである。極端に言えば、四季の歌の多くは、その底に恋愛の感情、とくに失恋によるなげきをひそめていると思われるもので、モティーフによって実質的に分類すれば、恋の歌に分類しうるものは多い。そうしてみるとつまり、小倉百人一首のえらびかたは恋愛の歌にきわめて大きく比重をかけているということが明らかである。  さらに、四季の歌について言えば、八代集ぜんたいを通じて春と秋が、夏と冬にくらべて圧倒的に多い(多くの集において、夏と冬にそれぞれ一巻をあてているのに対し、春と秋はそれぞれ二巻をあてている)のは共通しているが、小倉百人一首においては秋の歌が圧倒的に多く、ちょうど四季ぜんたいのなかで半数をしめていることがわかる。それは、小倉百人一首の撰者の思想をも反映していることはもちろんであるが、同時に平安朝期の歌人が秋の歌においてすぐれて特色を発揮したことを思わせるのみではない。自然が生命の力に充ちて伸びてゆく春においてよりも、あるいは、はげしく闘争的な姿で自然がみずからを表現する夏や冬においてよりも、うらがなしくさびれ凋落《ちようらく》してゆく秋において自然をうたうとき、彼らの詩情がよりふさわしくなぐさんだことをも示していると言えよう。  古今集と新古今集での四季の歌と、恋の歌との数を比較してみると、四季の歌合計一〇七〇首(古今集三六四首、新古今集七〇六首)、恋の歌合計八〇五首(古今集三六〇首、新古今集四四五首)である。つまり、小倉百人一首においては、古今集や新古今集におけるよりも恋の歌の比重を大きくみているわけである。  さらにまた、それら四十三首において、どのような姿における恋愛がうたわれているかといえば、恋人を待ちこがれる時間のうらみがましいせつないおもい、思いのとどかぬ片恋のなげき、疎くなった恋人へのせつせつたるうったえ、逢う瀬のはかなく過ぎてゆくうらみ、などという形で、すべてあわれに悲傷するしらべのものばかりである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○すみのえの きしによる浪 よるさへや 夢のかよひぢ 人めよくらむ  ○あひみての のちの心に くらぶれば むかしは物を 思はざりけり  ○なげきつつ ひとりぬるよの 明くるまは いかに久しき ものとかはしる  ○いまはただ おもひたえなむと ばかりを 人づてならで いふよしもがな  ○ながからむ 心もしらず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそおもへ  ○こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくやもしほの 身もこがれつつ [#ここで字下げ終わり]  つまり、肯定的に積極的に恋愛のよろこびをうたう形でなく、失恋や衰ろえてゆく恋の末路をうなだれてふりかえりながら寂しむ姿において恋愛感情をうたうことが、彼らの美意識の生きる道であった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○難波潟《なにわがた》 みじかき蘆《あし》の ふしの間も あはで此世を すぐしてよとや  ○君がため をしからざりし 命さへ ながくもがなと おもひけるかな  ○瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ  ○なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひ渡るべき [#ここで字下げ終わり]  これらの歌では直情的にはげしく一途《いちず》な恋愛への没入、讃美、肯定がうたわれているとも言いうる。しかしそれすらも、人生そのものを難波潟に生いたつ蘆の短かい節の間のようにはかないもの、あるいは流れの速い滝川の水が岩にくだけ散るようにもろいものと観、さらに生命そのものは格別に惜しむものではないと観ることを前提としている。  地名をうたいこんでいる作品は三十四首ある。そのうち二十八首までは京都・大阪・奈良・兵庫周辺に限定されている。たごのうら(静岡県)、つくばねの峯よりおつるみなの川(茨城県)、みちのく(福島県)、いなばの山(鳥取県)、末の松山(宮城県)、雄島(宮城県)、がその他の六首にあらわれる地名である。山部赤人の「たごのうらにうちいでて見れば」の一首を別にすればいわゆる歌枕として知られた地名を修辞的に利用しているもので、作者が実際にその地にいて、写実的にその風景や自然の美をうたっているわけではない。京都に住む知識人貴族が、単なることばとしての地名を、知的・技巧的に三十一文字のなかへ、絵模様の一部、モザイックのひとこまとしてはめこんでいるわけである。遠隔の地名についてそうであるばかりではない。京都周辺の山や川についてさえもそうである。しきりにうたわれている逢坂の関や難波の海さえも彼らは現実にみたのではなかっただろう。平安朝歌人が淡路島を見にゆく時間よりもおそらく短かい日どりで、飛行機で海を越える旅行の自由になった現代の歌人が、それならばこれら平安朝歌人よりも多彩に美しい歌をつくるようになったかということなども、しぜんに思いあわされる。牛車で歩くよりほかなかった平安朝歌人の弱く狭い現実生活は、おのずから彼らの知的な空想力を刺戟した。束縛を自由に転化しようとした彼らの意志がそこに在っただろう。恋愛をさえも、なげきや恨みの形で消極的に限定することが、彼らの感情をもっとも美的に自由に羽ばたかせるからくりであったのかもしれぬ。三十一文字の美を実現するために、現実の恋愛と、自然の風景とを犠牲にすることをえらんだのが平安朝歌人の誇りであった。  百人の作者たちの性別をみるとつぎのようになっている。  男性 七十九人 女性 二十一人  彼らを身分・出身によってわけてみるとつぎのようになっている。 [#1字下げ]天皇 八人(女 一)、親王 二人(女 一)、摂政・関白 四人、大臣・官吏 五十人、僧侶 十二人、神官 一人、母・女房 十九人、その他 四人(人麿、赤人、猿丸大夫、蝉丸)、  大臣・官吏というのは、河原左大臣源融や、鎌倉右大臣源実朝などから、六位で縫殿介という官職を与えられた文屋康秀や、やや伝不詳ではあるが、壱岐守《いきのかみ》という役についた春道列樹などまでを含むわけである。康秀以下十七人がもっとも身分の低いところである。  女性作者については、平安朝時代のことであるから、右大将道綱母とか相模とかいうふうにしか署名がないわけである。その他の歌人のなかで、蝉丸だけが、伝も不明で官職のない一種の放浪詩人であったらしい。この作者を唯一の例外として、小倉百人一首の作者はすべて、貴族・身分のある官吏、知識階級に属する人びとというわけである。  晩年の定家は、花よりも実を重んずるかんがえかたになっていた。風巻景次郎氏はそのことを「広い古典主義に転じた」といっている(「定家為家の撰集と万葉集」)。「詠歌大概」では、古今集・伊勢物語・後撰集・拾遺集などの歌、人麿・貫之・忠岑・伊勢・小町の作品の尊重すべきことを言っている。平安朝歌風のうちでも、古今集を古典的とし、新古今集を新風とすれば、後者よりも前者を重んずるかんがえかたに行ったとみるべきであろう。百人一首に、古今集の歌をもっとも多く採っているところからも、七十四歳の定家の好みはおのずから知られる。百人一首をえらんだ立場はまた、おのずから有心体の理論(後出)にも通ずるというのも、風巻氏のかんがえかたであった。  同時にしかし、百人一首に関して言えば、恋愛の歌が圧倒的に多いことも観てきたごとくである。定家歌論における妖艶体の問題に注目して、定家晩年の理想を有心体と妖艶体の両概念でかんがえようとした石田吉貞氏の解釈は、そこに苦心があったのであろうとおもう。 「詞《ことば》はふるきをしたひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて……」という『近代秀歌』の一節をひいて、有心体の理想とかんがえようとしたのは、『日本歌論史の研究』における久松潜一氏である。「定家の有心論は心を中心としながら詞を重んじ、心と詞との弁証法的な発展が有心であるとも言えるのである」。  青年時代には、新儀非拠達磨歌《しんぎひきよだるまうた》とまで言われるほど前衛歌人であった定家も、七十代になると古典的な、地味にいぶしの利いた歌風を求めるようになった。いや、青年時代に思いきったアヴァン・ギァルド歌人であったからこそ、老年期の沈静が在りえたと言うべきであるかもしれない。老年が、青年期の横溢と吸収のうえに結実するものであるとすれば、つまり、若木の時期に根を張り葉を繁らせた度合に応じて老木がそれにふさわしい実を稔らせるものであるならば、定家の晩年も、単純に形式よりは内容を、ことばよりはこころをとは言いきれぬものであるかもしれない。 [#改ページ]  ㈽ 藤原定家とその時代   1 乱世の記録『明月記』  九世紀から十二世紀末までの四百年間にわたる平安朝時代の、歴史的な性格を、ごく大ざっぱに言えばつぎのようなことになるだろう。  大化の改新(六四五)から大宝律令の制定(七〇一)によって秩序をととのえた、古代律令制国家体制が崩れはじめ、荘園経済体制への移行が、奈良朝末期から平安朝初期にかけて進行する。律令制機構のなかで徐々に覇権を確立してきた藤原氏一族がやがて政権を掌握して、摂関政治時代を現出する。平安朝貴族の繁栄は、十世紀末から十一世紀初頭にかけての時期、わが世を望月の欠けたことのない状態にたとえた藤原道長の時代において最高潮に達する。  同時にまた、律令体制末期の混乱のなかから、中央・地方の秩序維持のために、地方豪族や武士が実力を蓄積しはじめ、その代表的な勢力としての源氏と平家が対立しつつ、やがて武家政治の時代としての鎌倉時代へ移る。古い宮廷と新しい武家との二つの勢力の間にはさまって、あるいはそれらを適宜に利用しながら、貴族階級が繁栄から没落へ向う四百年間が平安時代ということになる。経済的には荘園寄食者にすぎず、政治的には皇室の影にすぎず、武力の面では源氏か平家の依存者にすぎぬ貴族階級は、実質的には生命の基盤をもともと持たぬ存在にすぎなかった。そういう階級のつくりだした文化の典型的な性格が、観念的な芸術としての和歌に、ほぼ代表的に反映している。  平安朝時代の美意識が、「あわれ」とか「幽玄」とかいうことばであらわされてきたことはよく知られている。それならばしかし、その「あわれ」や「幽玄」の内容や意味はどういうものかということになると、これまた専門の学者たちによってそれぞれに研究されたり論じられたりして、複雑に入り組み、微妙にくいちがったり結びついたりしている。そういう細かなところまで今ここで入りこんでゆくつもりはないが、それらのことが論じられるとき、ほとんどきまって源氏物語のような代表的な小説とともに、古今集から新古今集に至る歌集の作品がひきあいに出されるという、これも誰でも知っていることには、ちょっと注意しておきたい。源氏物語において特徴的なことは、それが当時の貴族階級の優美になやましい生活の物語であるということであるが、勅撰歌集の作品もだいたい宮廷を中心とする貴族階級とその周辺に属する作者たちによってつくられたのである。勅撰ということばが示すように、天皇や上皇の発議によって、撰者たちがえらばれるという過程をとることによってもそれは知られる。万葉集における、東歌《あずまうた》のような性質のもの、作者のわからない地方の農民や下級武士、あるいはその妻の作品などというものは、もうほとんど姿を消す。「読人しらず」としるされた作品はあるけれども、その性質はちがってきている。それだからつまり、「あわれ」や「幽玄」は、平安朝貴族の生活と現実のなかでうまれ、育てられ、表現された美の意識であるにちがいないということが、ここでかんがえられる。  貴族階級としての独特に個性的な美の意識が形成されたということは、それ自体、おなじ時代と社会において、他の階級がうまれ育ちはじめたということをも意味する。つまり、世のなかの組みたてがそれだけ複雑になった。天皇が野原へ出て、草摘み娘に直接によびかけるというふうなことは、どうみてもおこりそうもない。草摘み娘や木樵りの青年たちは、彼らじしんの物語や歌をもちはじめた。たとえば『今昔物語集』は、『源氏物語』とはちがって、民間に語りひろめられた当時の変った話、ふしぎな話などを雑然と集めた小話集である。芥川龍之介がそこから材料をとって、初期の短篇「鼻」「芋粥《いもがゆ》」「羅生門」「偸盗《ちゆうとう》」などいわゆる王朝ものを書いたことはよく知られているが、『今昔物語集』の千余篇に及ぶ小話は、とてもとても「あわれ」や「幽玄」の枠にはおさまらぬものばかりである。  あるいは、『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』のことなどもしぜんに思いあわされる。平安朝時代、民間でうたわれ、口ずさまれた民謡やわらべうたなども多く集められている。やくざな息子をもった親のなげきが、つぎのようにうたわれている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○我が子は二十《はたち》に成りぬらん、搏打《ばくち》してこそ歩《あり》くなれ、国々の搏党《ばくとう》に、さすがに子なれば憎《にく》か無し、負《ま》かいたまふな、王子《おうじ》の住吉西の宮。 [#ここで字下げ終わり]  バクチ世渡りの息子で、このうえもなく手を焼くが、さすがにじぶんの子供だから憎くはない。国中のバクチ仲間と争って完敗することのないようにと神だのみをしているわけである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○媼《おうな》の子供の有様は、冠者《かざ》は搏打の打ち負けや、勝つ世無し、禅師《ぜじ》は早《まだき》に夜行《やこう》好むめり、姫が心のしどけなければいとわびし。 [#ここで字下げ終わり]  この老母は、もっとつらい。長男はバクチで負けっ放し、次男は日の暮れぬうちから悪所通い、末娘もしどけない日常というのだから母親のおもいはひたすらにわびしい。「あわれ」や「幽玄」の結晶してゆく時代と社会の背景あるいはその裾野は、このように複雑でもあり、深くも広くもあったのである。  桓武天皇が京都(平安京)に都を移したのは七九四年であるが、その十年前、七八四年にも、七十年間つづいた奈良の都を長岡京へ移している。長岡京の規模は比較的小さかったけれども、十年間に二度の都移りは国民に巨大な負担になった。  さらにさかのぼって十四年前、七七〇年は女帝称徳天皇が死に、例の道鏡と女天皇とのはなはだかんばしくない関係がようやく結末に来た。道鏡を追放して、新しい光仁天皇をつくるために、藤原百川を中心とする一族がめざましい活躍をして、しだいにその家が政治の実権をにぎるきっかけをつくる。  長岡京時代の桓武天皇は、坂上田村麻呂をくりかえし東北地方征伐に派遣した。一方では戦争、一方では首都の造営であるから、税金をとりたてられ、労役や兵役にかり出される国民は生活的に追いつめられてゆくばかりであった。姨捨山伝説などはこの時期の農民の苦境を反映している。つまり、四百年の平安時代も、そのような複雑さにおいて出発しているということである。  四百年の間に、天皇は五十代の桓武天皇から八十二代の後鳥羽天皇まで三十三人がかわっている。藤原氏の勢力がしだいに伸びて、一〇一六年には道長が摂政となり、全盛期をむかえる。絶頂はしかし下り坂のはじまりでもあって、十一世紀後半の前九年の役(一〇五一─一〇六二)、後三年の役を経て、武家としての源氏の勢力が着実に力をたくわえはじめ、保元の乱(一一五六)から平治の乱(一一五九)によって源氏と平家の勢力が入れかわるが、おごる平家は久しからず、一一八〇年には源頼朝や木曾義仲の挙兵があって五年後には壇ノ浦での平家滅亡ということになる。  宮廷、貴族間の陰謀や争闘はいくつもくりかえされている。藤原薬子の乱(八一〇)とか承和の変(八四二)とか安和の変(九六九)などがあり、菅原道真の九州追放(九〇一)はもっともよく知られた悲劇的事件である。生活に追いつめられた下級武士や地方農民の浮浪化、群盗化は時を追ってはげしくなる。それは数多い局地的叛乱をもひきおこす。応天門焼失事件(八六六)は政治的にも利用されたが、治安の乱れは首都平安京にも及んでいた事実を反映しているだろう。  九三五年ころから五年間にわたる東国でのクーデターによって平|将門《まさかど》が、一時はその地域での天皇を名乗るまで成功したのも、おなじころ瀬戸内海一帯から九州に及んで君臨した藤原|純友《すみとも》の勢力にしても、中央政治権力者の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》に苦しめられた民衆の支持がなくてはかんがえられない。聖職者の集団である寺院さえも、莫大な寄進地荘園を併呑し、僧兵をたくわえて民衆に対する巨大な搾取機構に化してしまった。このような支配的現実に対照させてのみ、源信《げんしん》(恵心僧都《えしんそうず》のこと、一〇一七年没)の「往生要集《おうじようようしゆう》」の思想や、市井遊行の念仏者|空也《くうや》(九七二年没)の出現や、専修念仏をイデオロギイとする法然(一二一二年没)の浄土宗の発生やは理解しうるものである。  平安朝貴族の生活をとりまいているもの、その基盤はそういう現実にほかならなかった。ひとたび現実へ下りてゆけば、鴨長明《かものちようめい》が『方丈記』で描いたような無惨な情景が溢れていた。それは美的に、幽玄やあわれを成立させうる世界とは無縁であつた。現実へ、徹底して泥まみれになることを覚悟で入りこんでゆけば、『今昔物語集』のような、あるいは『梁塵秘抄』の一部にうたわれたような世界を通じて、もうひとつの、まったく別の文学や芸術の形に到達しうることはあるにしても、それは宮廷人や貴族の手にはもともと余ることであった。彼らは、経済的には富裕な、都会に住む知識階級にほかならなかった。芸術・文学は、つねに異質的なものを自己に対置して、新しく動くことを忘れたとき頽廃《たいはい》におちいるほかないけれども、同時につよく自己に執してそれを主張することなくしては成立しえないという矛盾した構造をもつものでもある。なぜなら、芸術はつねに新しく形成することであるのだから。  平安朝歌人たちが、じぶんたちの生活の環境と条件とを捨てて、無智な、貧しい浮浪者や地方の農民のなかへ入ってゆかなかったのは、彼らが文学者・芸術家であったということにもよっている。つまり、彼らはじぶんの生活と現実を肯定し、あるいは定着させることから出発した。あわれや幽玄の美的世界をつくるために、彼らは遥か下方の貧しく混乱した庶民の世界を捨てたのではない。彼らが、じぶんの世界をまず肯定し、そこから出発したことによって、やがてあわれや幽玄がつくられるに至った。  しかし、知識人である彼らは、その見聞を通じて、御簾《みす》をへだてた外の世界、甍《いらか》高い彼らの門を一歩出た巷に、どんなに無惨な風が吹いているかをも知らなかったはずはない。彼らのうたう、|みそひともじ《ヽヽヽヽヽヽ》のなかに影をおとす、うらがなしくも弱々しい調子、華やかに麗わしくあるはずの素材をさえも、はかなさや脆《もろ》さでいろどってしまわなくてはいられなかった調子には、彼らが意識的・技巧的に実現しようと目ざしていた美的世界と、直感的・知的に理解していた現実世界とのギャップに傷ついたものの姿が客観的にあらわれている。  藤原定家は、こういう平安朝時代の末期にうまれた、特色ある歌人である。  小倉百人一首の撰定者がこの藤原定家であることは先にのべた。では、藤原定家とはどういうひとか。  藤原定家のよみかたは、「ふじわらのさだいえ」ともよみ、「ふじわらのていか」ともよみ、どちらでもよいことになっている。代表的な文学辞典などでも、「さだいえ」の項目でかかげているものと、「ていか」の項目でかかげているものとあり、たがいに他のよみかたをも併記している。  定家は応保二年(一一六二)に生れている。二条天皇のとき、後白河上皇(のち法皇)院政時代である。父は藤原俊成、母は藤原親忠の女《むすめ》である。母は鳥羽天皇の皇后美福門院に乳母としてつかえ、加賀と呼ばれていた女性で、はじめ藤原為隆の妻であった。俊成は為隆の父為忠のところへ和歌の交際で出入りしているうちに、彼女と親しくなり、為隆の出家後結婚した。  俊成にはその他、妻や妾がはっきりわかっているだけでも四人はいる。そのなかには為忠の女などもいるわけであるから、俊成は為忠の娘とも結婚したが、為忠の息子の妻とも結婚したわけである。その他にも俊成の子をうんだ女性は数人いると、定家の研究家石田吉貞氏はしらべて報告している。おなじく石田氏の調査によると、これら妻妾から生れた俊成の息子・娘はすくなくとも二十七人はいる。たいへんないきおいである。そのうち定家とおなじ母から生れた兄弟妹は八人いる。  父の俊成は、よく知られた当時の歌壇の第一人者で、歌道における幽玄の説をとなえ、後白河院の信任をうけ、『千載和歌集』の撰者となり、九十歳のとき(建仁三年)には後鳥羽院が主催して和歌所で祝いの宴をひらいてもらったりした。  平安朝末期歌壇では、六条家と御子左家《みこひだりけ》との二つの流派系統が対立することになるのであるが、俊成と定家父子があいついであらわれた御子左家がしだいに優位に立つことになるわけである。  六条家は藤原|房前《ふささき》の子魚名を祖とした家で、道長を中心とする摂関家とはかなり遠縁で、藤原氏全盛期にはむしろその傍流であったらしい。九代目|顕季《あきすえ》(一〇五五─一一二三)の代になって、彼の母が白河天皇の乳母となった頃から勢力を得た。顕季は六条烏丸に住んだからその家を六条家というようになった。和歌流派としての六条家もこの顕季からはじまり、その子|顕輔《あきすけ》は『詞花和歌集』の撰者となった。顕輔の子清輔・重家・季経のころが六条家の勢力のもっとも伸びた時代で、後鳥羽院をとりまく源通親・通具父子勢力と結んで、御子左家をおさえた。そのあと、重家の子有家は新古今集撰者となり、知家(有家の兄顕家の子)は、定家の子為家と歌論のうえで対立し、知家の子行家は『続古今和歌集』撰者にもなったが、そのころから六条家はしだいに衰えはじめ、行家から四代目の行輔は才能も乏しく早死にしたためもあって、和歌の家としての六条家はそこで姿を消す。南北朝なかごろである。六条家の特色は、和歌の学問的研究、考証|訓詁《くんこ》に力をそそぎ、古典としての万葉集研究を重んじていた。  六条家に対して、定家の生れた御子左家は道長の六男長家の子孫である。醍醐天皇の皇子源兼明が左大臣となったとき住んだ邸を、御子左第(天皇の子の左大臣の家の意味)と言っていたが、その屋敷を長家がゆずりうけて家の名もそのままうけついだものである。長家─忠家─俊忠を経て四代目に俊成が生れた。御子左家が和歌の家筋となるのは俊成からであるから、その道においては六条家の方が一足早く出ていたわけである。  定家の子為家の息子たちの代になって、御子左家は為氏が二条家を、為教《ためのり》が京極家を、為相《ためすけ》が冷泉家《れいぜいけ》をたててたがいに対立した。為氏と為教は、為家の正室宇都宮入道の女を母とした兄弟である。為相は父の後妻、安嘉門院四条(阿仏尼)の子である。為家の死後、荘園細川荘相続問題をめぐって、二条家と冷泉家に争いがおこったとき、京極家の為教は、兄の為氏に対立して阿仏尼と冷泉家を応援するということになるのであるが、歌道のうえの本家争いがこういう結果を招いたわけである。  その対立はやがて、次の代の二条家為世と京極家為兼の時代に至って、宮廷の二つの対立勢力をバックにして争うことになる。つまり、二条家は大覚寺統《だいかくじとう》(亀山天皇の子孫)と結び、京極家は持明院統《じみよういんとう》(後深草天皇の子孫)と結ぶ。この大覚寺統と持明院統の対立がやがて南北朝の争いになるわけであるが、南北朝対立時代に入ると、二条家は吉野へ去った大覚寺統の後醍醐天皇から離れ、京都に残って持明院統・北朝勢力につかえるのである。つまり、歌道のうえでの本家争いに、政治上の勢力あらそいがからまり、時の勢いにつれて適当に便乗したり離れたりするわけである。日本の歌学史のうえでもっとも興味ある部分で、野村尚吾氏の小説『乱世詩人伝』は、このあたりを材料にしている。  京極家は、為兼のあと、その子忠兼の代までつづいたが、そのあと閑院家に復帰して絶えた。歌学・歌風のうえでは京極家の方が革新的なところがあり、二条家は対立的に保守的であった。勅撰集は、為家の撰した第十『続後撰和歌集』のあと、二十一代集まで刊行されるわけであるが、第十六集『続後拾遺集』(一三二五成立)ころまで二条家の勢力が維持されている。勅撰集最後の『新続古今和歌集』(永享一一年─一四三九年成立)ころに至って、歌道の家としての二条家の正統は姿を消すことになった。しかしその門下からはすぐれた歌人や理論家がつぎつぎあらわれる。頓阿(一三七二年没)、平(東《とう》)常縁《つねより》、宗祇(一五〇二年没)、牡丹花肖柏《ぼたんげしようはく》(一五二七年没)などであった。二条家の流れは彼らによって近世初期まで和歌の主流をなしていた。  以上の概略の説明によっても明らかなように、定家がそういう時期の御子左家にうまれたということは、歴史的な意味をもつことがらであるとさえも言いうるのである。定家がすぐれた歌人であったから歴史をつくった、あるいは歴史的な存在になったということも、もちろんある。けれども同時に、その時代のはげしく転変する姿、歴史そのものが定家をつくったという半面も存在するのである。  定家の生れた一一六二年といえば、すでに平安朝も末期である。藤原氏の全盛をきわめた摂関政治の時代もすでに去って、法皇による院政時代に移り、源氏と平家がたがいに法皇をたてて張りあう時代になっていた。都会の貴族にかわって、田舎ものの荒武者が新興勢力として政治の実権をにぎりはじめていた。落ちぶれはじめた貴族階級は、芸術や文学のはかない城にたてこもって、みずからの誇りをわずかにかかげるよりほかなかった。しかも、その文化の城さえもしばしば文学以外の権力者の力によって左右される状態になっていた。十二世紀後半から十三世紀前半にかけては大事件が多い。一一六二年に生れた定家は、一二四一年八月二日に、八十歳で死ぬわけであるが、この時期の歴史的な事件を年表ふうにひろってみると、つぎのようなことになる。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一一五六(保元元)年 保元の乱。  一一五九(平治元)年 平治の乱。  一一六〇(永暦元)年 源頼朝伊豆に流される。  一一六七(仁安二)年 平清盛太政大臣となる。  一一七七(治承元)年 鹿ケ谷陰謀発覚。  一一八〇(治承四)年 福原遷都。源頼朝伊豆挙兵。木曾義仲信濃挙兵。頼朝鎌倉に入る。  一一八一(養和元)年 平清盛死。  一一八三(寿永二)年 義仲京都入り。平氏西国に逃げる。  一一八五(寿永四)年 平氏壇ノ浦で滅亡。頼朝、義経を追放。  一一八九(文治五)年 頼朝、衣川に義経を攻め、奥州藤原氏をも滅ぼす。  一一九二(建久三)年 頼朝征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。  一一九三(建久四)年 曾我兄弟の復讐。  一一九六(建久七)年 源|通親《みちちか》の陰謀による政変(九条兼実失脚)。  一一九九(正治元)年 頼朝急死。梶原景時の変。  一二〇三(建仁三)年 比企能員《ひきよしかず》の乱。北条時政執権となり、頼家修禅寺に幽閉される。実朝将軍となる。  一二〇四(元久元)年 頼家死。  一二〇五(元久二)年 北条義時執権となる。  一二〇七(承元元)年 九条兼実死。法然・親鸞《しんらん》流罪。  一二一三(建保元)年 和田氏の乱(北条氏の制覇)。  一二一九(承久元)年 実朝、鶴岡八幡宮にて殺さる。  一二二一(承久三)年 承久の乱。後鳥羽・土御門・順徳三上皇配流。  一二二七(安貞元)年 このころより地震多く饑饉深刻となり天変地異の様相あり。  一二三二(貞永元)年 関東|御成敗式目《ごせいばいしきもく》(貞永《じようえい》式目)制定。封建法の先駆となる。 [#ここで字下げ終わり]  平安朝末期から鎌倉時代初期にかけてが定家の生きた時代である。一度追われた源氏の勢力が、もう一度勢いを盛りかえして平家を追う。あわただしく都移りがおこなわれたり、むくつけき木曾の山奥の荒武者が都に乱入したり、幼い天皇が神器をいだいて海の底へ沈んだり、昨日まで天下に号令していた上皇が、今日は淋しい絶海の孤島へ移されてしまう。そういう混乱を通じて、しだいに政治の中心は京都から鎌倉へ移る。しかし、その鎌倉でも兄弟が争ったり、甥が叔父の将軍を暗殺したりして安定した政権が確立せず、間もなく実権が源氏から北条氏へ移ることによって、中世的封建体制が確立しはじめる。そういう時代であった。  権力者たちが、自分の位置と勢力に不安定を感じているということは、彼らが陽の当る場所にいる間は、生活を享楽しようということでもあった。後鳥羽院はなんと言っても当時の代表的な人物のひとりであるが、その享楽生活の姿も壮大をきわめたものであった。後鳥羽院とは言っても、建久九年(一一九八)に土御門《つちみかど》天皇に位をゆずって上皇になったときまだ十九歳にすぎぬのである。建仁二年(一二〇二)に久我通親が急逝し、後鳥羽院の親政は強化された。  建仁二年十月に後鳥羽院は大炊御門京極《おおいみかどきようごく》に新しい御所を新築した。ところが翌年二月二日の夜、火災で焼けた。藤原定家の日記『明月記』にはこのときのことを、「これを案ずるに、もしくは攘災か、今度造営の体|頗《すこぶ》る尋常に非ず、金銀の過差、国土の衰弊、ただなる事にあらず」とかいている。つまり国民が貧乏して困っているのに大金をかけてケタ外れにりっぱな御殿を新築したのをうらんで何者かが放火したのではないかというわけである。おなじ月の二十三日には、また上皇御所に放火したものがあった。  有名な水無瀬殿《みなせどの》と言われる別荘は正治二年(一二〇〇年)ころ完成したらしい。この水無瀬殿は京都からも比較的近いからひんぴんとして出かけているし、鳥羽離宮や宇治方面へはしょっちゅう出かけた。そのたびにお伴をつれてたいへんな行列である。土御門天皇即位のとき、用途欠如のため儀式延期というほど宮廷の財政状態も楽ではなかったらしいが、後鳥羽院の豪遊だけはたえず、とどこおりなく行なわれていた。  遊楽先では遊女や白拍子《しらびようし》が招かれておどりや舞いが披露されて夜の宴会となる。はじめは神歌|郢曲《えいきょく》などのとりつくろった歌や舞いでコケラを落すが、興がすすむにつれて座も歌も踊りもやわらかに乱れ、やがて、宴果ててのちの個人的なクライマックスに達するのは、昔も今も変りはない。建仁二年には、定家が随行を命ぜられた水無瀬行きだけでも四回に及んでいる。  村山修一氏の『藤原定家』は、『明月記』の記述によって、おなじ年七月十六日よりの水無瀬御幸のことを、つぎのように記している。 「翌七月も十六日より御幸あり、この際召された白拍子は余り『上品《じようぼん》の物共』ではなかったという。十九日に召された白拍子も最下品《さいげぼん》といわれ、夕方になって白拍子一人を宿に預かるよう下知あり、元来遊芸の輩を好まぬ定家は、別に小宅を借りて宿せしめた。恐らく白拍子を預かった公家は他にもあったであろうが、下賤の遊女が次第に上皇のお気に入ったことは、おのずから風紀の紊乱も想像されるのである。」  宴会が終ってから、公家たちの宿ヘ一人ずつ白拍子を割当てたというのは、後鳥羽院がスイをきかせているわけである。気むつかしい定家はそっぽを向いてニガ虫をかみつぶしていたらしいが、上皇に言わせれば話せぬ男というものであっただろう。なにしろ上皇は、お気に入りの白拍子のために、二条殿の跡に新宅を造ってやったりしているくらいなのであるから。  ピクニックに出かけた先でのあそびには、あらゆる工夫をこらした。鶏合せ(闘鶏のようなものであろう)、競馬、相撲、蹴鞠、笠懸《かさがけ》、小弓、水練、狩猟、囲碁などのほか、隠れ遊び、鬼ごっこ、双六など子供のあそびまでした。  熊野御幸は、もっとも大がかりな旅行であった。建久九年(一一九八)から始まり、承久三年(一二二一)正月の最終回まで三十一回出かけている。十カ月に一度くらいずつ行ったことになる。旅行往復は二十日以上を要している。大臣・参議などという顕官を多勢おともにつれ、おともがまたそれぞれ従者をしたがえ、宿泊の先々で神社を参拝したあと踊ったりうたったりし、リクリエーションしてねり歩くわけである。建暦元年(一二一一)の御幸のとき、小松原宿というところの粮料(飯米。費用一切を米に換算したわけであろう)として一日四十九石が支払われたというのだから、たいへんな額である。  公家、貴族の生活も華やかさと乱脈をきわめるようになって行った。承久の乱後、目ざましい繁栄を示したのは西園寺家で、公経は太政大臣になった。元仁元年(一二二四)北山に豪壮な別荘をつくった。その建築のため牛十七頭で引く巨石を運ばせたがこの石には霊魂が宿っていて、動かしたあと風雨が止まず、流行病のたたりがはじまったと民衆は信じた。別荘落成で大宴会がもよおされる。会合があると、かならずバクチの開帳されるのが当時のならわしで、定家の息子の為家も青年時代にはさかんに車座の仲間になった。バクチに負けて、母親に約束していた天王寺参りをとりやめなくてはならなくなったりした。公経は、摂津の吹田に湯治と称して出かけ、有馬から毎日二百樽の湯を運ばせて遊興の限りをつくした。  権門の子女の間にはオウムを飼うことが流行していた。すべての公家、貴族が金持ちで贅沢ができたというわけではない。むしろ彼らの多くは没落にさしかかっていた。温室育ちで汚れを知らなかった世界へ、ひとたび頽廃が入りはじめると免疫性をもたぬだけに、崩れかたははげしく急激である。 『明月記』は、そういう世相をも批判的に記録している。左大臣藤原公継は、落書大臣とあだ名された男であるが、定家は「貪欲恥を忘れ、心操凶を挟む。下女を以て妻となし、子息禽獣の聞えあり」とかいている。藤原降盛は他家で酒をごちそうになって泥酔して乱暴をはたらき父から勘当され、源親友は父の家へ強盗に入ったり、妹と通じたり他人の妻を横どりしたため父雅行に殺され、朱雀通《すざくどお》りに棄てられた。  芥川龍之介の「羅生門」「偸盗《ちゆうとう》」などは、公家につかわれていた侍が、失業して群盗の仲間になる話であるが、そのようなことは当時として珍らしいことではなかった。下級武士どころか、かなりの身分のものすら強盗をはたらくということがしばしばあったことを『明月記』は記録している。上皇の御所に永くつとめた者の息子が強盗に入ったり、参議別当少将藤原定平が馬二頭を盗んだりした。  荒れているのは上流社会だけではない。人間どもが荒れているのだから、自然までおとなしくしていてはソンだと思っているのかとおもわれるほどである。鴨長明の『方丈記』には、安元三年(一一七七)四月二十八日の暴風の夜、都に大火がおこって平安京の三分の一を焼きはらい、治承四年(一一八〇)にも大きな辻風のあったことを記録している。その年福原遷都があり、古い都が荒れはじめる。ひきつづいて二年越しの養和の大饑饉(一一八一)が来る。春から夏にかけて旱天、秋は大風洪水、五穀ことごとくみのらず。 「これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む」。「乞食《こつじき》、路のほとりに多く、愁《うれ》へ悲しむ声耳に満てり」という有様であった。  饑饉のあとにはかならず流行病がはびこる。相当な身なりをしたものさえ、家ごとに乞い歩く群をみかけるようになるが、歩いているものがたちまち道に仆《たお》れる。「築地《ついじ》のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ数も知らず」。屍体を片づけるものもないから腐臭が天地に充ちることになった。 「また、いとあはれなる事も侍《はべ》りき。さりがたき妻《め》・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々《まれまれ》得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳《ち》を吸ひつつ臥《ふ》せるなどもありけり」。  嘉禄・安貞年間(一二二五年ころ以後)の饑饉はさらに永く悽惨《せいさん》をきわめたものであったらしい。寛喜二年(一二三〇)には美濃・信濃・武蔵で六月になって雪が降って二寸も積ったところがあった。七月になっても寒さ去らず、全国に及んだ。そうかと思うと冬になって暖くなり、十一月に麦が稔り、桜が咲き、筍《たけのこ》が生えてたべられるようになり、十二月になって蟋蟀《こおろぎ》が鳴き、ホトトギスや蝉が鳴いたという。  乱世というほかはないわけであるから、身分の高いものでも弱ければ物乞いにまで身を落すよりほかなかったかわりに、強いものは身分の上下にかかわらず追剥《おいはぎ》、盗賊と化し、盗賊となればひとりより群をなすのが有利であった。公家、貴族の邸のねらわれたのは当然であるが、宮廷御所もぞくぞくと真昼間から荒された。夜になるといよいよ百鬼夜行で、異様な風態の追剥強盗があばれ廻ったから、身の丈四メートルもある松明《たいまつ》のお化けが出たとか、目は猫で体は犬の「猫胯《ねこまた》」というお化けが出て、一夜のうちに七、八人の人間をとらえて喰うという話などが巷にうわさされた。 『明月記』は、定家の個人的な日記であるけれども、これらの乱世の姿をも、簡潔な筆で描きながら記録している。深い怒りやなげきが、おのずから行間にうかびあがる。みにくく乱れた現世からのがれて、美の世界へ孤立することが彼のねがいであったが、それを求めれば求めるほど、逆に暗い社会の姿に目がひかれるという矛盾をどうしようもなかった。そこに文学者としての定家がいた。文学者というものは、いつの時代でもそういう矛盾において生きるものである。現実を否定するために、現実にこだわらざるをえぬ。批判するために、知らなくてはならぬ。じぶんだけのための記録のなかで、外周りの風景におのずから筆が向く。定家の乱世記録は、おのずから彼の時代と社会に対する批判でもあった。 [#改ページ]   2 定家の生涯  定家をとりまく、社会と現実の姿は以上のようなものであった。そういう時代環境のなかで、定家そのひとはどのように生きたか。  定家の生れたとき、父の俊成はすでに四十九歳であった。そのころ、俊成は経済的にゆたかで、家族もぜいたくな生活を送ることができたようである。荘園経済がまだ安定を保ちえた時代であった。二十二歳ころまで、独身時代は父と同居して、安穏な生活であった。結婚してからも十四、五年、三十六、七歳ころまでは子供もすくなく、父から分けてもらった荘園からの収入で充分ゆっくり暮すことができた。  しかし健康のうえでは、少年時から病気で苦しんだ。十四歳のとき赤斑という病気にかかった。これは当時流行した「あかもがさ」のことで、本居宣長の『玉勝間』に「赤疱瘡《あかもがさ》」は、「今の世に|はしか《ヽヽヽ》といふ瘡なり」とある。十六歳のときには天然痘にかかっている。このときは重態であぶなかった。このひきつづいた二回の大病から、生涯病弱な体質になってしまったようである。『明月記』には病気や健康不良の記録が多い。消化不良、脚気、咳病などに悩みつづけている。  十代の末ころから咳病がしばしばあらわれている。風病ということばもひんぴんとしてあらわれる。五十歳すぎるまで、ちょっとした気候の変化でたちまち咳病や風病になやまされる記録がおびただしい。これは明らかに結核性の呼吸器病をもっていたものと思われる。五十代は比較的病気に悩まされることがすくなかったらしいが、六十代に入って老衰現象があらわれはじめる。六十九歳のとき、軽い中風にやられて、起ち居が不自由になった。  それでも七十二歳のとき『新勅撰集』をえらんでいたのであるが、眼病におそわれ、視力が極度におとろえはじめた。七十五歳からのちは日記が無いからくわしいことはわからぬが、おそらく日記を書く力もうしなわれるほど体力もおとろえ病臥していたのであろう。それでも八十歳まで生きつづけたのであるから、病身のひととしては、当時の医学のことなどもかんがえあわせればおどろくべきことである。定家の家系には長命者が多く、父の俊成は九十一まで生きているし、もっとも若くて死んだ祖父の俊忠が五十三歳であった。  公家・官吏ならびに歌人としての生活をみてゆくと、五歳のとき従五位下の位を与えられ、翌年|紀伊守《きいのかみ》に任ぜられ、このとき定家と改名した。十四歳のとき、父俊成が右京大夫の役を辞職し、かわりに定家を侍従に任命してくれるように交渉して許可された。  このころは、平氏全盛時代で、任官はしたけれども定家にとって将来にそれほど明るい見通しがもてるわけではなかった。ただ彼は和歌作者としてはさすがに少年時代から教育もされていたし、才能も示しはじめていた。十七歳ころからすでに歌人としてみとめられるようになり、十八歳のとき父から古今集伝授をうけた。二十歳ころにはかなり名声があがりはじめ、歌合《うたあわせ》に出たり、百首歌というのをつくりはじめたりした。とくに二十一歳のときの「堀河院題百首」では名をあげた。  一一八〇年、定家十九歳のとしには、以仁王《もちひとおう》の令によって伊豆の頼朝、木曾の義仲が兵をあげはじめ、国中が騒然としてきた。平氏の没落の最終段階に入るわけだけれども、いわゆるマルス(軍神)の蹄の音の高い時期は、ミューズ(美の女神)にとっては迷惑な時代というものでもあった。  その年二月五日から、『明月記』は書きおこされているが、九月の記に、「世上乱逆追討耳に満つといえども、これを注せず。紅旗征戎《こうきせいじゆう》吾が事にあらず」と書いた。終りの文句は『白氏文集《はくしもんじゆう》』の一節から引用したもので、紅い戦の旗をひるがえして白刃をひるがえす血なまぐさいことは、じぶんにとって無関係なことだというほどの意味である。文学者としての誇りを示そうとしたものであるとも言いうるが、ことさらに対抗的なポーズを示しているところにはやはり時の勢いを嫌悪しつつ無関心ではいられなかった姿もみてとることができるのであろう。  幼少年時代を、経済的にはゆたかな、知的な家庭に育ったが健康にはめぐまれなかったという条件は、彼を気位は高いが、神経質な怒りっぽい、しかも内向的な人間にそだてて行ったらしい。  寿永四年(一一八五)十一月二十二日夜、宮中で少将源雅行と、ささいなことで争いとなり、腹をたてた定家はやにわに燭台をふりかざして雅行になぐりかかるという事件をひきおこした。そのために謹慎を命ぜられ、暮から正月にかけて自邸にこもっていた。父の俊成が八方へ運動して三月ころまでにどうやら許しが出た。宮廷社会における父の実力ということもあったが、青年歌人としての定家の才能のみとめられていたこともあったのであろう。しかし、一一八五年という年は、平家が壇ノ浦で滅亡し、源氏が返り咲きはじめた年でもある。政権交替につれて、親幕派の九条家が勢力を回復しはじめ、それへ結びついた定家にも運が向いてきはじめたということもあった。翌年、定家は九条兼実の家の家人《けにん》となっている。九条兼実は、当時の公家のうちもっとも時代感覚の鋭敏なインテリで、いち早く鎌倉政権の新しい意義をみとめ提携の手をうった。  俊成が『千載和歌集』撰を完成したのはその翌年一一八七年であるが、その集に定家の作品は八首採られている。二十六歳の青年歌人として、それはかがやがしい栄誉であった。先輩歌人の西行が、「宮河歌合《みやがわうたあわせ》」の判詞《はんし》を定家に依頼したというのもこの年頃とされている。  このころから約十年間、二十五歳から三十五歳ころまでが、定家にとってはめぐまれて安定していた時代である。パトロンとしての九条家の栄えていた時期に照応する。結婚生活に入ったのは二十二歳ころからで、その翌年は子供も生れているが、係累もすくなく経済的にも安定していた。歌人としてもいよいよ名があがり、生涯でもっとも多く作歌した時期である。いわば流行作家時代であった。作品の数が多いというだけではなかった。いわば実験的に革新的な作歌技術のうえでの冒険も、思いきってこころみた時期であった。伝統的な形式や手法を無視する青年歌人の偶像破壊については、もちろん保守派から非難があった。「新儀非拠達磨歌」として批判された。根拠のない新風のだるまうただというわけである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○春もいぬ 花もふりにし 人に似て また見ぬやどに 松ぞのこれる  ○心うし 恋し悲しと しのぶとて ふたたび見ゆる 昔なき世よ  ○たのめぬを 待ちつる宵も すぎはてて つらさとぢむる 片敷の床  ○長月の 月の有明の しぐれゆゑ あすのもみぢの 色もうらめし  ○鴨のゐる 入江の波を 心にて 胸と袖とに さはぐ恋かな [#ここで字下げ終わり]  こういう歌が、だるまうたとして批判されたわけである。「病を犯したうた」とも言われた。偶像破壊的に革新的でありうるために、才能のある青年歌人であることは、まず必要な最初の条件である。しかし、すべての才能ある青年文学者が伝統破壊的に前衛的になるとはかぎらぬ。定家がそのとき、そのように強気になりえたのは、生活の条件においても積極的な環境にめぐまれていたことと無関係ではあるまい。  鎌倉幕府と九条兼実との連合による安定期は建久七年(一一九六)で終ることになる。源通親は、かねてから九条兼実に対抗して政権奪取をねらっていた。彼は養女在子を後鳥羽院に入れ、在子は為仁親王を生んだ。そこで通親は後白河法皇の熱愛した丹後局や法皇の子承仁法親王らと結托して、兼実に叛意ありと上奏して、その一族を追放することに成功した。兼実の娘で後鳥羽院の中宮になっていた宜秋門院任子は絶縁され、兼実の弟の天台|座主《ざす》慈円もその地位から追われた。在子の生んだ為仁は土御門天皇になった。京都における幕府の出先機関の長であった藤原|能保《よしやす》父子の死は、いよいよ幕府と朝廷との結びつきを弱めた。つづいて正治元年(一一九九)の、頼朝の突然の死によって、後鳥羽院と通親の勢力は自由に伸びることになった。  このような政権の移動は同時に、九条家の勢力にしたがっていた定家の不遇にもなった。のみならず、定家にとって、経済的にも苦しい時期がこのころからはじまる。経済的に苦しくなった原因も政変に関係している。荘園からの収入が、彼らの生活をささえるものであったが、九条家関係者の所領に対しては保護が与えられなくなった。地頭の妨害がはげしくなって、収入が阻害されがちになった。泣く子と地頭には勝たれないと言われた、彼ら地方官吏は、中央の統制力がゆるむにつれて地方ボス化して行ったわけである。  洪水や暴風雨で農地収穫が減少したということもあった。それにくわえて、結婚後一家をかまえてすでに十二、三年経った定家の家族も大勢になった。妻子が多くなれば、使用人もふえた。そのころの日記をみると、賀茂の祭にまともな寄附もできなかったから恥ずかしくて見物にも行けなかったとか、家に雨もりがはげしくて寝る所もないとか、傘がなくて雨の日に外出できなかったとか、宮中の五節の儀式の夜、礼服がないので略服で参内してはずかしかったとか、外出用の牛車につける牛がないので馬で出かけたとか、その他いろいろ困窮のことがつぎつぎと記入されている。  女性的にグチっぽく、ボヤキの定家とでもいうところも、この歌人の性格にはまぎれもなく存在するが、とにかく親がかりの時代とはちがって、生活のうえで経済的に苦しみはじめたのは事実である。正治・建仁年間(ほぼ一二〇三年ころまで)が、もっとも苦しい時期であったようである。  しかし、この不遇時代というのはまた、ある意味では定家がもっとも現実的に生きた時代であったとも言いうる。つまり、「紅旗征戎吾が事にあらず」という調子で高ビシャに現実をあしらっているわけにゆかなくなり、地上へ下りてきて汚辱や妥協やに身をさらさざるをえなくなった時期でもあった。  文治五年(一一八九)、定家は九条家の後援によって左近衛権少将という位に昇進し、正治二年(一二〇〇)には正四位下を受けたが、それいらい十数年まったく地位は停止してしまった。それが不平でもあり、いらだちもあった。ほぼ建仁二年(一二〇二)ころのものと推定される「転任所望事」という上申書が、いま重要文化財として東京国立博物館に残っている。内蔵頭か、右馬頭か、大蔵卿かのどれかに就任させてくれと具体的にかいている。その前の年の暮に七日間、日吉神社に参籠《さんろう》して中将昇進を祈念しているのだから、願いは切実であった。  後鳥羽上皇に乳母としてつかえた藤原兼子は、上皇の信任があつく、権勢を誇っていた。白拍子や遊女を、上皇にうまくあっせんしたのも兼子である。彼女にワイロを贈ることが、立身出世の秘訣のひとつであった。慈円の『愚管抄《ぐかんしよう》』に、「京ニハ卿二位ヒシト世ヲトリタリ、女人|入眼《にゆうがん》ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ」とかいているのは兼子のことで、承元元年に従二位のくらいを与えられたから「卿二位」と言われた。大僧正雅縁というひとは、興福寺別当の地位を得ようとして、彼女に水田三十町歩をおくって目的を達したという。こういう例は他にいくらも数えられた。定家は彼女のことを日記で、狂女と罵倒しているが、栄達のためにはやむをえぬと妥協して彼女に懇願の手紙を書いたり、病気見舞いに行ったりしたが、はかばかしい贈物ができなかったとみえて、建仁二年七月の除目《じもく》(中古における大臣以外の官職任命の儀式)にあたっても、定家のところへは、好いしらせがなかった。  なかば公然と、当時ワイロ買官がおこなわれていたことはすさまじいもので、定家も「只富有の者官を買うのみ」などとかいている。このころでは「賄賂《わいろ》厚縁之人」でなければ官途につくことはできぬとか、貧者は皆捨てられるとかボヤきながら、けっこう彼もあまりパッとしない贈物などをときどき然るべきところへはとどけていたらしい。「単衣重二領、紅袴一腰、生小袖二領」を贈った記録を日記にのこしている。  建仁二年秋に通親が急逝した。そのためというわけでもなかろうが、閏《うるう》十月二十四日になって、定家は左近衛権中将に任ぜられた。十四年目にようやく一階級あがったわけである。定家四十一歳の秋である。  歌人としての定家の位置が、後鳥羽院の主催する和歌サロンのなかで上りはじめるのもこのころからである。もっとも、村山修一氏は後鳥羽院の和歌に対する愛好も、白拍子の舞いや鶏合せに寄せる興味と本質的に変るものではなかったと観ているようである。 「上皇の和歌に対する興味は正治元年(一一九九)より俄かに表面化し、同二年及び建仁元年(一二〇一)を最頂点とし、承元元年(一二〇七)に入ると全く低調化し去るので、専制君主の気まぐれな和歌愛好熱が、政治的・経済的苦難期に入った定家を大いに勇気づけたのである」。  正治二年八月、院初度《いんしよど》御百首という和歌のサロンがひらかれることになった。定家はこのメンバーに加えられることを切に望んだ。そのために|つて《ヽヽ》を求めていろいろ運動して、手ごたえはあった。しかし、六条家の季経らの妨害によって、通親のつくった歌人リストから、定家は外された。父親の俊成が大いに怒って、有名な「正治奏状」を書いて直接上皇に提出した。はげしいいきおいで六条家の歌人どもを攻撃し、彼らの無学ぶりを曝露したものであった。父親の奮闘でようやく定家もサロンにくわえられることになった。定家は北野天神に願をかけたり、お礼参りをしたりした。慎重につくった百首はさすがに出来がよくて、院の気に入った。建仁元年には千五百番歌合が、おなじく後鳥羽院主催でもよおされ、そのときには定家は判者をつとめるようになっている。  建仁元年七月には和歌所が再興されて定家もその寄人に任命された。そして、新しい勅撰集をえらぶ仕事がはじめられ、定家も撰者の一人に任ぜられた。それがやがて『新古今和歌集』になるわけである。しかし、新古今集のできあがる元久二年(一二〇五)までには、定家と後鳥羽院の間には、その歌集の作品のえらび方をめぐってさまざまな対立があらわれはじめている。  その前年の八月、源家長らが、定家は上皇の和歌に対する見解に批判を加えていると後鳥羽院に告げ口して、ミゾが生じはじめた。元久二年三月二十六日に行なわれた、新古今集完成祝賀会に定家が出席しなかったのは、そのあたりのいきさつにも関係があるだろう。  歌集の完成後も、後鳥羽院のさしずによって、いわゆる「切継《きりつぎ》」が行なわれた。歌を入れかえたり変更したりするわけである。気位の高い定家が、そして後鳥羽院の歌人ならびに批評家としての実力にうたがいをもちはじめていた定家が、こころよく思わなかったのは想像にかたくないところである。この不和は、さらにのちの、小倉百人一首撰定にも尾をひいてくる事実のように私はおもう。  その後も、和歌についての二人の意見の相違は持ちこされ、ついに承久二年(一二二〇)に、院の勅勘《ちよくかん》事件というものがもち上る。二月十三日、宮廷の歌会の折、定家が「野外の柳」という題でつくった、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○道のべの 野原の柳 したもえぬ あはれなげきの けぶりくらべや [#ここで字下げ終わり]  という歌が、物議をかもした。官途栄進意のごとくならぬ不満を歌に托したというわけである。上皇の逆鱗《げきりん》にふれ、閉門を仰せつかり、和歌の詠進もさし止めるという処分であった。  話を、もう一度前へもどそう。元久元年(一二〇四)、父俊成が九十一歳で死んだ。その翌年に、鎌倉の将軍実朝との交際がはじまり、彼に和歌を教えるようになった。つまり、文学のコースにおいて、朝廷との関係に破綻が生ずる一方では、鎌倉との関係があたらしくひらけるということにおのずからなったのである。もっとも、勅勘事件までは、朝廷との関係がそれほどひどくなったわけではなく、相変らずつとめに出、歌もそれぞれの折には求められたり詠進したりしてつづいてはいるわけである。  承久の乱は、定家が後鳥羽院から勅勘をうけた年の翌年におこっている。後鳥羽上皇と兼子がそこで政界から姿を消す。没収された院の管領地は莫大なものであった。北畠親房の『神皇正統記』は皇統の回復を主張して、代々の幕府政治を否定する史観に立って書かれた書物であるが、それさえも後鳥羽上皇の専制者としての態度にはきびしい批判をくわえている。頼朝が高官の位置に上り、守護の職についたのも上皇が就任させたのである。頼朝が私的に位をぬすみとったというわけではない。頼朝死後、北条義時は執権として人望にそむかなかったから、臣下にはまだ欠点があったとは言いがたい。「一往のいはればかりにて、追討せられんは、上の御とがとや申すべき」と書いている。  この乱のおこった承久三年には、定家もすでに六十歳になっていた。この政変によって九条家の勢力がまた政界上層部にかえり咲いた。六十歳の定家にもう一度幸運が廻ってきた。しかもこのときは、西園寺家が九条家とともに政権をにぎった。西園寺公経は定家の妻の弟であり、九条家の当主道家は西園寺公経の娘を妻としていた。そればかりか、定家の息子為家は関東に勢力のある宇都宮頼綱の娘を妻としていた。頼綱の妻は北条時政の娘であり、その家は莫大な財産をもつ豪族であった。  定家の家計はめきめきと好転してきた。土地を買ったり、別荘をつくったり、交際も派手になった様子が『明月記』の記事から知ることができる。そして、そのころから八十歳で死ぬまで二十年間は、生活的に安定して、歌人・学者としてのしごとが順調にすすめられた。日記にはまだ時どき貧乏をなげく記事があらわれたりするが、それはむしろむかしの貧窮時代をときどき思い出し、ああいう生活へ逆もどりしたくないとねがうこころから出るまじないのことばのようなものにすぎぬ。病苦をうったえる記事はいっそうひんぱんにあらわれるようになるが、客観的に言えば恵まれた老年というべきであった。  家族のことをかんたんにしるしておく。  妻は二人めとっている。|季能卿 女《すえよしきようのむすめ》というのがはじめの妻で、二十二歳ころ結婚したらしい。彼女は六条家の出である。男の子を二人生んでいるが、十年ほどで別れたらしい。平凡な女性であったらしく、息子たちも目立った人物にならなかった。兄の光家は三十歳になってもまだ仮名の字も書けないと、定家がなげいている。  建久五年(一一九四)、定家三十三歳ころには、はじめの妻と別れ、西園寺家の実宗女と結婚しているらしい。これは、かなり熱烈な恋愛によっている。定家のあとを継いだ為家は彼女の産んだ息子である。他に子を二人うんでいる。  上記二人のほか、定家が妻同様にしていた身分の低い女性は他に数人あり、子供はすべてで十人ほどあった。  為家という息子は、なかなか愛すべきタイプの青年であったらしい。彼はスポーツマンで社交家でもあった。蹴鞠がうまくて、遊びの好きな後鳥羽院に気に入られ、近習五人のひとりになった。そのかわり、歌道の勉強などはそっちのけであそんでばかりいたから、愚痴っぽい父親はなげきかなしんで、世をはかなむほどであった。承元元年(一二〇七)、十歳のときから後鳥羽院に出仕している。出世は父親より順調で、嘉禄二年(一二二六)には参議になっている。しかし、二十代なかばころからは心をいれかえて勉強をはじめ、『続後撰和歌集』の撰者となり、『続古今和歌集』の撰者の一人にもなっている。学問上の業績も残した。建治元年(一二七五)、七十八歳で死んだ。 [#改ページ]   3 文学者・藤原定家  定家は、小心で内向的な人間であった。愚痴っぽく陰性で、生涯病気のことや貧乏を、老年になってかなりゆたかな生活にめぐまれてからも口ぐせのようにボヤいていた。頽廃した世のなかを怒り、それを批判するだけの意欲を残さぬわけではなかったが、じぶんから世の中を改革するための行動には出なかった。政治家どもの愚劣にはあきれかえって日記のなかでは彼らへの罵詈讒謗《ばりざんぼう》をあびせて孤独にうっぷんをはらしていたが、じぶんや息子の処世のためには適当に彼らにとりいることも辞さなかった。  しかし、じぶんの本領とこころえる和歌についての信念と理論のうえでは、最高の権力者後鳥羽院と最後的には妥協しなかった。彼の小心と内向性は、和歌についての持続的な勉強と研究に役立った。定家が、父親の俊成ほど絢爛《けんらん》多彩な才能にめぐまれていたかは疑問であるが、彼の慎重でねばり強い努力は、父親を超えるとも劣らぬ業績を残すことになった。俊成にくらべると、女関係の地味な姿にもそれはあらわれている。少年時代から健康にめぐまれなかったこともあったが、定家は享楽をしりぞけ、ストイックな自己抑制者として生き、病気にでもなれば祈祷かおまじないしか方法の無いような時代に八十歳までかかって、多くの和歌作品や、学問上のしごとを残した。  石田吉貞氏は、『藤原定家の研究』のなかで、定家の和歌作品のすべてにわたって、詳細な制作年次別リストをつくっているが、さらにそれを三期に分けて概括し計算している。それをここにかりて写しておこう。 [#表(img/fig2.jpg、横99×縦385)] (カッコのなかの数字は、一カ年平均の歌数、回数を示す。なお、和歌はこの他、年代不明のもの三百首ほどあり)  石田氏は、青壮年期をさらに前期と後期に分け、ほぼ二十五歳ころまでが前期、初学時代で、このころはさすがに父親俊成の歌風に従って勉強していた時代、そのあとが前述した「達磨歌」新風時代とみている。初老期に彼の独自な歌風が確立し、いわゆる有心体の特色が発揮されるのもその時期であるが、老年期には作品もすくなく、歌風のうえでもさしたる変化なく終った。とくに注目すべきことは、「定家の歌風の変るのは、現実生活が悪い方に変化し、精神的に深刻な苦悩を受け、限りなき暗黒に面した時であった」。老年期は生活にめぐまれ、作家活動のうえでも制作態度につよい変動を必要とするようなモティーフがなかったというのも、石田氏の特色ある見解である。  俊成が、「幽玄」の美を和歌の理論と作品のうえで主張し、定家は「有心」をとなえたということはよく知られている。しかし、幽玄と有心とは、どのように関連するか? あるいは別の美の原理なのであるか? 有心は幽玄のうちに含まれるものか? 一部分重なりあいながら、それぞれ独自の中心をもつものなのか? そういう問題になってくると、学者によって細かいところでそれぞれ意見がちがい、高度に専門的にかつ微視的な議論になってきて、いまだに解釈が安定しているとはおもわれない。私たちとしても今ここで、その問題へ深入りする必要はあるまい。  しかし、俊成にしても定家にしても、彼らが和歌によって創る美の世界は、現実を拒否し、それからのいわば逃避の世界であることに変りはなかった。現実世界の暗さ、汚れ、乱れは貴族社会においてもいちじるしかったことは前にもくりかえし説明した。  当時の仏教が説いた末法思想や百王思想は、そういう彼らの敗北的感傷主義を合理化した。釈迦の死後千五百年で正法の支配する世が終り、人間世界は崩れ滅びるという思想、国王百代にして世は乱れるという宿命観が当代の仏教者によって教えられていた。空に妖星があらわれたり、夏雪が降り、冬になって筍の生えるような天変地異もつづいた。まさに末法の世はちかい。八十一代安徳天皇は、アメノムラクモノツルギとともに壇ノ浦に沈んだ。まさに百王説は前兆を現わしはじめた。「往生要集」や、「北野天神縁起絵巻」や、「病草紙《やまいのそうし》」などには、当時の息ぐるしく絶望的な民衆の現実感覚がよく反映している。生きている限り、なんらかの汚穢《おわい》にかかわることなくてありえぬ人間の存在にとって、善根を積んだものが来世に救われるという思想は現実的ななぐさめにはなりえなかった。来世での救済を説く仏教思想は、現世の絶望を刺戟する役にしか立たなかった。それが、当時のインテリを支配した思想であった。はかない現世の、政治的な悪徳へ対決する気力はどこからもうまれるはずはなかった。現実にそむいて、美の世界へのがれることが、むしろ積極的な良心でさえもあった。  俊成と定家との、歌をつくるときの精神集中のためのそれぞれの書斎における工夫についての特徴的な話がつたわっている。俊成は、夜ふけに、燭台の灯をあるかなきかに細くして、古びた直衣《のうし》をうちかけ、それも古びた烏帽子《えぼし》を耳まで深くかぶり、「脇息により、桐火桶《きりひおけ》をいだき、詠吟の声しのびやかにして、夜たけ(夜が深くなる)、人しづまるにつけて、打ち傾き、よよと泣き給へるとなん」というわけである。ここから俊成の歌風を、「桐火桶の体」と名づけるようになった。  いっぽう定家は、「南面を取り払ひて、真中にゐて、南を遥かに見はらして衣紋正しくきて案じ給ひき」ということが、『正徹物語』(歌論書、正徹著。一四三〇年成る)に見えている。俊成の桐火桶に対して、定家は南面の体というところである。父が夜の歌人なら、息子は白昼の歌人である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○夕されば 野べの秋風 身にしみて 鶉《うずら》なくなり 深草の里 [#ここで字下げ終わり]  右の一首は、俊成三十七歳のときの作品であるが、幽玄とは、こういう歌によって代表される美であるという。  幽玄とか有心とか言っても、彼らがその概念を理論的に説明したり解説したりしているわけではない。歌合の判詞(歌合は、二人の作者の歌をならべて、どちらがすぐれているかを判者が判定する一種のコンクールであり、それだから判詞のなかで判者の理論がのべられる)などにあらわれることばの端々を通じて、彼らがどのようなかんがえをいだいていたかを綴りあわせつつ推定するよりほかないようなものである。いきおい、論理的な明確さを欠いたり、解釈するひとによってちがいができたりすることを防ぎえない。  のみならず、あれこれと定家の歌論などをしらべたり、読みあわせたりしてゆくと、有心とは、歌にうたわれた内容について言うのか、あるいはうたいかたの形式について言うのか、そのどちらでもあるようにもみえるというふうな曖昧さが出てくる。久松潜一氏は『中世歌論』で、若い時代の定家は「宮河歌合」の判詞などで、有心体というとき、「心なやます」とか「心深い」とかいう意味において、歌の内容について語っているが、『毎月抄』などになると和歌十体を形式的に分類するための用語としている点を指摘している。  そうは言いながらも、有心を、定家が和歌においてもっとも重視し、彼じしんの和歌理念の中核としたことも、ほぼすべての研究者の一致した意見である。それならば、どのような歌を有心の理想としたか?『定家十体』と題する著書のなかで、「有心様」の例としてあげている歌は四十一首あるが、そのうちから引くとつぎのような作品がある。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○ながらへば また此ごろや 忍ばれむ うしとみし世ぞ 今は恋しき  藤原清輔  ○山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水  式子内親王 [#ここで字下げ終わり]  定家自身の作品では、つぎの歌などをみずから誇りにしていたようである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峯にわかるる 横雲の空  ○こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくやもしほの 身もこがれつつ [#ここで字下げ終わり]  そのほか、定家の歌を、「やさしさ」とか「妖艶」とかいうことばで特徴づけることも行なわれている。晩年における恋の歌重視のことなどもきわだった傾向にかぞえられる。しかし、それらの特徴は、一つ一つ切り離されてばらばらに存在するのではなくて、どこかでつながりながら有心の理論へ通じ、あるいはそこから派生するという関係になるようである。ただ、その複雑な廻路を整理して明らかにするところまで、現代の定家研究が到達しているとは言いがたい。  結局のところ、有心ということばの概念を明確にしようとすればするほど、逆にあいまいや混乱におちいるよりほかないもののようにみえる。こういう事情を、第三者としてやや冷酷にかんがえてゆくと、有心体とは、主張者の定家にとって、和歌のうえでの綜合的な理想のごときものとして、直感的にはつかまれていたものではあったかもしれぬが、現実的・具体的にはめったに実現しがたい、いわば見果てぬ夢のような存在としてかかげられていたというふうなものではなかったか?  風巻景次郎氏が、「自筆本近代秀歌の考察と有心體」と題する論文で、つぎのように結論しているのは、その意味で有心体の姿のない実態を、すぐれて微妙に規定したことばである。 「ここに有心體というのは、詞は古きを慕い心は新しきを求むる態度であって、新古今時代の新造語造句を避け、三代集の正調を規範とした風体である。そして自筆本近代秀歌、秀歌之體大略、百人一首、新勅撰集に通ずる風体は、まさに用語上の新奇を避け(『毎月抄』にも「大方歌にうけられぬは秀句にて候」といって居る)、三代集の正調を規範としたものである事は明白である。  以上の様な次第で、私は自筆本近代秀歌の秀歌例は、定家の歌に対する鑑識標準の変化を知る上に重要であり、しかもそれが定家の有心体の具体例であるらしい事を感ぜしめる点で一層重大であると感じるのであるが、更らに、この有心体の規範が明確に成立した時は、定家が作歌から隔りはじめた時であり、しかも新古今時代の理想とは明らかに別箇の理想を立てた事を推定し得る点で、又随って有心体は定家の理想であり乍ら、自分は容易にそれを読み得なかった風体である事をも推定し得る点で、それは更らに一層重大な意味を持ち得るものであると思うのである。定家をして作歌から離れしめた原因が、同時に又定家をして有心体の観念を成立せしめたのであった」。  定家の和歌作品における、技法・形式上の特徴もいくつかかぞえられる。主なものを実例によって、かんたんに説明しておきたい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  1 名詞止めの技法。初期の作品に多くみられる。歌の終りに名詞が来る形で新古今集に至って特に目立つようになった技巧である。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   ○五月雨に 水なみまさる まこも草 みじかくてのみ 明くる夏の夜 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  2 句切れの技法。初句切れ、二句切れ、三句切れ、四句切れとそれぞれの種類がある。初句切れ、三句切れは特に新古今集で目立つようになった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   ○をしまじよ 桜ばかりの 花もなし 散るべきための 色にもあるらむ(初句切れ)   ○すぎぬるを 恨みは果てじ 不如帰《ほととぎす》 鳴きゆくかたに 人も待つらむ(二句切れ)   ○うき雲の はるればくもる 涙かな 月みるままの ものかなしさに(三句切れ)   ○春雨の ふる野の道の つぼすみれ 摘みてを行かむ 袖は濡《ぬ》るとも(四句切れ) [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  3 本歌取《ほんかとり》。定家の後期において特色を発揮する技法で、彼は特にこの部類を重視した。古典についての正確な知識を必要とする作歌術である。観念的であり、書斎的であった平安朝期の歌人が、学問と芸術を調和させたような、この作歌技法を考案したことは、注目すべく独創的なことである。歴史と文化が、一定の高さまで進んだ段階で、この種の文学上の技法のあらわれるのは、古代ローマ時代の文学いらいあらゆる国々にみられるものである。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   ○駒とめて 袖うち払ふ かげもなし さののわたりの 雪の夕ぐれ [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    この歌の本歌は、万葉集の「苦しくも ふり来る雨か 神の崎 さぬのわたりに 家もあらなくに」である。  4 その他、序詞・枕詞・掛詞の使用なども目立つ技法であるが、それは定家において特にきわだつものというよりは、平安朝期和歌においで一般化したものであり、小倉百人一首にその例は多い。 [#ここで字下げ終わり]  定家の著作、編纂書についてもひととおりメモしておく。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  1 拾遺愚草 上・中・下、ならびに「員外」、全四巻。自作三千六百五十三首のほか、他人の作品百七十六首も収録している。岩波文庫版『藤原定家歌集』(佐佐木信綱校訂)におさめられている。文献考証については風巻景次郎「拾遺愚草成立の考察」、「定家歌集補遺の研究」(『新古今時代』所収)が精細をきわめてすぐれている。  2 新古今和歌集 編纂歌集。撰者の一人として参加。  3 新勅撰和歌集 編纂歌集。  4 近代秀歌 歌論書。承元三年成立。源実朝に贈った書。千六百字ほどの歌論に、秀歌例六十八首を附したもの。現行流布本、岩波文庫版『中世歌論集』『日本古典文学大系』第六十五巻所収。  5 毎月抄 歌論書。承元元年成立。衣笠内大臣藤原家良に贈った書。約七千字の歌論。現行流布本、同前。  6 詠歌大概 歌論書。成立年代未詳。『近代秀歌』より後の著とみられる。漢文でしるされ、約三百字。その写本にはかならず『秀歌之体大略』(六十三首)がそえられている。現行流布本、同前。  7 秀歌大体 詞華集《アンソロジイ》。成立年代未詳。定家六十五歳から七十歳ころまでの撰とみられる。後堀河院に贈ったものであることはほぼ確実。百十一首をあつめている。  8 二四代集《にしだいしゆう》 詞華集。建保三年(一二一五)から四年ころの間に成立とみられる。座右において観照するために秀歌を抄出したものと推定しうる。八代集のなかから千八百三首、歌人総数三百六十八名の作品を抄出している。  9 小倉百人一首 詞華集。  10 定家十体 歌論書。和歌の様式を幽幻様・長高様・有心様・事可然様・麗様・見様・面白様・濃様・有一節様・拉鬼様の十体に分けてそれぞれ例歌を自作によって示したもの。偽作説がつよかったが、久曾神昇、久松潜一、石田吉貞氏らはほぼ真作説をとっている。  11 未来記 歌論書。「理非分明ならず、風体よろしからぬ歌」として、詠むべきでない歌の例を春・夏・秋・冬・恋に分け各十首ずつあげたもの。鎌倉時代末期、二条家系のつくった偽書と見る説が有力。  12 雨中吟 歌論書。「ゆめゆめ学ぶべからざる風体」として、自作十七首をあげているから、『未来記』とおなじ性質の書である。江戸時代までは尊重されていて、明治になって偽書説が有力になったが、風巻景次郎氏の研究「雨中吟成立の再吟味」(昭和五年)いらい真書説が有力になった。  13 その他の歌学書──愚秘抄・三五記・愚見抄・桐火桶 これらの書は偽書とする説が有力であるが、なかにはそう言いきれぬ要素もあって、学者の説がいまだに動いている。一般的に言って、真書でなくてはまったく価値のないものとも言いきれぬもので、偽書ならば偽書として、それのつくられ伝承された理由と経過を明らかにしてゆくことによって、文学史上の問題を解明する材料になりうるわけである。  14 明月記 日記。治承四年(一一八〇)二月五日(定家十九歳の年)から嘉禎元年(一二三五)十二月、七十四歳までの日記。なお、今は伝わらぬが、歌論書のひとつにも『明月記』があったらしいことが推定されている。日記の方は、はじめは『照光記』と名づけられていたらしい形跡がある。寿永元年(一一八二)より文治三年(一一八七)まで、文治五年、建久元年(一一九〇)、さらに建久四年より同六年までなどの脱落部分がある。明治四十四年に、国書刊行会から出版された活字本があるが、その後も断簡が多く発見されている。 [#ここで字下げ終わり]  以上のほかにも、他人の質問にこたえたり、歌の批評をしたりした小論文のあることが知られている。鎌倉時代初期に書かれた、筆者不詳の『無名草子』をみると、定家はかなり多くの物語(小説)もかいていることが知られる。 「又定家小将の作りたるとて、あまた侍《はんべ》るめるは、ましてただ〔け〕しきばかりにて、むげにまことなきものに侍るなるべし。『松浦《まつら》の宮《みや》』とかやこそ、ひとへに万葉の風情にて『宇津保』など見る心地して、愚かなる心も及ばぬ様に侍るめれ」。  と批評している。大部分はとるに足らぬものであるが、『松浦の宮』とかいう作品だけは相当のできばえだというわけであろう。この『松浦宮物語』だけは現存していて、石田吉貞氏は、「それは異国情緒を愛し、巫山《ふざん》雲雨的恋に憧れる純浪漫的なものであるが、これによってその他の物語も推すことができるのではないかと思われる」と書いている。 [#改ページ]  ㈿ 和歌史上の小倉百人一首   1 「歌よみに与ふる書」  正岡子規の「歌よみに与ふる書」を私がはじめてよんだのは、中学三年生の夏であった。中学三年生というのは、いわゆる反抗期のまっさかりである。「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」というような、ズバリと断定的な言いかたが、反抗期の少年のこころをつよくとらえた。その年ごろの少年にとっては古いもの、過ぎ去ったものを破壊し、否定することがこのうえもない快感をよぶ。 「『人はいさ心もしらず』とは浅はかなる言ひざまと存候」  というのは、百人一首にある、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほひける [#ここで字下げ終わり]  という歌であるとわかる。子供のころおぼえた歌が、こういう調子でこっぱみじんになるのが痛快であった。子規の意見に共感することによって、じぶんじしんも大人になったような気になるのである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○月みれば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど [#ここで字下げ終わり]  この一首については理窟におちいっているからだめだ、と子規はかいている。「箇様《かよう》な歌を善しと思ふは其人が理窟を得離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今の所謂《いわゆる》歌よみどもは多く理窟を竝べて楽み居候。厳格に言はゞ此等は歌でも無く歌よみでも無く候」というのである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○心あてに をらばやをらむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 [#ここで字下げ終わり]  この一首の意味を教えられたのも、子規によってであった。「初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣《きずかい》無之候」「今朝は霜がふつて白菊が見えんなどゝ真面目らしく人を欺く仰山的《ぎようさんてき》の嘘は極めて殺風景に御座候」と、子規はぽんぽんとえんりょのない調子でかいている。  なるほど、そういう意味の歌かと思い知ったことは新鮮なおどろきでもあった。それまで意味も内容もかんがえる必要のない、唱歌のようなものとして百人一首の歌をよんだりきいたりしていたが、ことばがつかわれ、文字に書かれたものだから、なるほど意味があるわけだと、いまさらのようにおもった。父の書棚には『日本文学叢書』というのがあって、頭註のついた万葉集や古今集もあった。それまでひらいてみたこともなかったが、そういうおどろきにさそわれてひっぱり出してみるようになった。 「心あてにをらばやをらむ」という上の句の見当もどうやらついた。なるほど意味を理解したうえでかんがえてみると、いよいよ子規の言いぶんに筋がとおっている。「一文半文のねうち」もない歌だ。嘘も、上手についた嘘ならおもしろく、それだけ文学としての価値もあるが、この歌の嘘は「つまらぬ嘘なるが故につまらぬ」。だいたい、小さい事を大きくいう嘘が「和歌腐敗の一大原因と相見え申候」と、子規のタンカは胸のすくようないきおいである。はげしい偶像破壊の情熱のこめられた子規のこれらのことばは、子規がそれをかいたときから三十年後の中学生のこころにも、確実に火をつけた。  子規によって火をつけられた、古今集・新古今集歌風への、批判というよりは否定的なかんがえかたは、私じしんの文学についてのかんがえかたのうえに、ほとんど決定的な影響力をもった。青年時代を、ずっとそのかんがえかたの延長・発展のうえで過ぎてきたと言っても良いほどのものである。それだから、現在でも、いわば体質のようなものとしてそれは残っているはずである。  けれども、文学や芸術についてのかんがえがすこしずつ進みひろまり、じぶんの好みというふうなところから離れ、やや客観的に、そしていわば歴史的にその姿や流れを全体として見とおして行こうとする立場を求めるようになったとき、子規から教えられた見方だけではやはりいろいろな不便や不都合があり、せまく偏《かた》よる部分ができてくることをしだいに感じるようになった。あるいは、そういうせまい偏よりのようなものがあったからこそ、子規のあのときの議論が、あれだけの情念と迫力をもつことができたのだということがわかるようになった。あの情熱とあの迫力は、つまりあの偶像破壊のまじりけないちからは、あのときの正岡子規という文学者において必然でもあり、かけがえのない真実でもあったということもわかるようになった。それだからこそ、われわれはそこをたよりがいのある確実な足場として、そこから出発し、さらに新しいかんがえかたへ進むことができるのだとかんがえるようになった。そういうことがすこしずつ私にわかりはじめたのは、あの革命的な歌論を発表した子規の年ごろを、私じしんが、すでに通り越したころからであった。  萩原朔太郎は、昭和八年に発表した「小倉百人一首のこと」という文章でつぎのように書いている。 「最近或る雑誌で、小倉百人一首に関する批判とその愛好歌とを、歌壇の各方面に問合せた答を見るに、百人中九十人迄は、頭から百人一首を軽侮して居り、愚劣な駄歌ばかりだと言って一蹴して居る。少し以前にも、中原綾子女史の雑誌『いづかし』で同じ題目の解答を見たけれども、やはり歌壇の名家たちが、一様にそろって百人一首の歌を軽侮して居る。甚だしきは、そんなものをかつて知らず、一度も読んだことさえないと、さも侮辱した態度で公言して居る女の偉い歌人先生が居た。  僕は専門の歌人ではない。だが小倉百人一首の妙趣すら解らないで、ひとかどの歌よみ顔をしている現歌壇の諸家たちには、少しく奇異の念を抱かざるをえないのである。何となれば百人一首の選歌は、主として古今集以後新古今集に至る迄の、勅選八代集中の代表的秀歌を採り、且つそれが実際にまた、音楽的の美しい声調を盛って居るからである。(略)して見れば、百人一首が解らなければ、新古今集時代の歌が解らず、新古今集が解らなければ、拾遺集も千載集も、概して平安朝後期の歌風が、一般に解らないという推論になる。  現歌壇の諸家たちは、しかし何故に百人一首を軽蔑し、さも詰らない歌のように言うのだろうか。その理由を聴《き》くと選歌の大部分が題詠歌で、洒落《しやれ》や語呂合《ごろあわ》せ(即ち掛詞)を主としたところの、無内容の遊戯歌だと言うのにある。しかし芸術というものは、本質的に一種の美的遊戯なので、遊戯を忘れて芸術のエスプリは存在しない。芸術から遊戯を除けば、そこには何の恍惚もなく陶酔もなく、単に乾燥無味の現実的実感が残るばかりだ。そしてこんなものは美──すくなくとも詩美──の範疇《はんちゆう》に属していない。僕は昔からアララギ派を排斥し、現歌壇の伝統的先入見を啓蒙するのも、彼等のこうした自然主義的|妄見《もうけん》を一掃して、眼界を明徹にさせたい為に外ならないのだ」。  萩原朔太郎のことばに、私も共感する。百人一首などは知らぬ、よんだこともないと公言する女流歌人のあらわれるに至ったのは、大正初年いらいの、いわゆるアララギ派歌壇制覇のいきおいを前提として理解しなくてはならぬ、末流エピゴーネン現象にほかならぬ。子規の、短歌革新いらい、約半世紀の年月は、こういう奇矯《ききよう》な便乗派も生むに至ったということである。  けれどもしかし、四十年後の百人一首を知らぬと称する女歌人の存在まで、子規が責任をもたされるすじあいはないのでもある。末流に衰弱現象があらわれようと、あのときの子規の仕事は、そのものとしてすぐれた意義をもっていたこともまた、明らかなことである。 「歌よみに与ふる書」を、正岡子規が発表したのは明治三十一年である。実質的にはそれが、子規の短歌革新の最初のノロシのような役割を果たすわけである。すでに子規は、根岸の家で、明治三十五年秋の死まで、ついに起つことのできなかった永い病牀生活に入っていた。  だいたい子規は、明治二十八年の日清戦争に、つとめていた日本新聞社から従軍記者を志願して出かけたことが、むちゃくちゃな乱暴というほかはなかった。すでに病気のきざしがあった。医者が不賛成で、社でもなかなか許可しなかったし、自分でも無理は自覚していた。しかし彼はせつじつに行きたがった。  じぶんの生涯で、もっともうれしかったことが二つある。ひとつは、明治十六年(十七歳のとき)東京遊学を許されて出発ときまったとき。もうひとつは、「初めて従軍と定まりし時」と、のちに子規じしん書いている。三月三日に東京を発って広島へ行き、そこに一カ月以上滞在し、近衛師団附きとして四月十日に宇品を出港している。戦局はすでに、李鴻章《りこうしよう》狙撃事件のあと馬関《ばかん》(下関のこと)で休戦協定が成立していた。金州城、旅順などを往来し、五月十日には講和成立の報に接し、その十四日には帰国のため佐渡国丸に乗船した。十七日に船の甲板からフカの泳いでいるのを見物しているとき突然に喀血した。二十三日、ようやく神戸に上陸し、タンカで神戸病院に収容された。そんな状態でいながら、紀行文や俳論やその他を執筆しつづけ、須磨、松山、広島などと転地したりしながら、十月になってすこし調子がよくなると大阪から奈良に寄り(「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句はそのときの作である)、月末に東京へ帰った。  それいらい満七年、子規にとってのべつまくなしの闘病生活がはじまる。じぶんで歩くことはほとんどできず、俥に乗せてもらってときどきは外出したが、終りの三年くらいにそれもできなくなって寝たきり。あまつさえ、カリエス性の病気で化膿し、体じゅうのガーゼ、ホウタイのとりかえがたいへんで、そのとりかえに一時間くらいかかる。客のいるときでも大声でおいおい泣きわめきながらそれをすますと、たちまちまた俳句や短歌や、文学芸術のことについての議論や制作に熱中するという猛烈な生きかたであった。のみならず、子規の文学のしごとのうえでの稔りある実質の、集中してゆたかに発揮されたのは、この明治二十九年以後のことでもあった。  正岡子規といえば、法隆寺の鐘の音をききながら柿を喰っていた風流人、へちまの水の辞世を残した俳人、藤の花房が畳のうえにとどかなかったという、わかったようなわからぬような和歌をつくった歌人ということで常識化されそうな気配が、しだいにつくられているけれども、そんなナマやさしいものではない。ごちそう主義と称し、日本人はもっと牛肉を喰わなくてはダメだと主張して、じぶんでもさかんにそれを喰った。柿は特に好きであったが、すべて果物もさかんに喰い、明治三十年ころパイナップルやバナナもたべている。酒もたばこもやらなかったけれども、到来物のシャンパンは、来客のときあけて、じぶんでもちょっぴりなめている。病人のじぶんだけが、魚でも肉でも上等なものを喰い、看病の母と妹は、台所の隅で味噌汁と漬けもので食事をすませている。病人の喰べ残しがあったときだけ、彼女たちの食卓の端にそれがのる。そういうことも書き残している。申しわけない、あいすまぬなどと感傷的なことは書いていない。座敷に寝たままでいる子規は、台所にひそかな音をたてながら食事をしている母と妹の食卓のありさまを、見ないでも、ちゃんと知ってはいた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○我口を 触れし器は 湯をかけて 灰すりつけて みがきたぶべし [#ここで字下げ終わり]  友人の、香取秀真にそういう歌を書き送った子規は、じぶんのことも他人のことも、なにもかも知っていた。生活や現実について、そういうふうにこころを細かく動かし、はたらかせながらも、それに負けたり溺れたりはしなかった。ガーゼやホウタイとりかえの痛みには大声で泣きわめいて、それが終ればたちまち文学へもどって行った。わずか三十五年しか生きなかった正岡子規の生涯と、日本の文学史に消えることのない俳句・短歌革新者のしごとは、そういう現実と生活のなかからつくられたものであった。  ベッドに、六年間寝たままの、三十歳の青年が、和歌・俳句のようなもっとも重く伝統的な文学の部類に、あれだけ巨《おお》きく根本的な革新のしごとをやってのけた。明治期というのはそういう時代であった。  正岡子規は、もっともすぐれた意味での啓蒙家であった。もっともすぐれた意味でというのは、はげしく徹底的に、男性的に断定的な偶像破壊者でありつつ、破壊しっ放しではなかったということである。  正岡子規は、古今集・新古今集によって代表される平安朝歌風をはげしく拒絶して、そのかわりに、万葉集によって代表される奈良朝歌風を復活させようとしたのである。古今集・新古今集歌風が江戸時代に入って衰弱して末流化し、まったく技巧的なあそびになってしまったこと、それが宮廷を中心とする御歌所和歌(堂上派)と結びついて、無視しがたいいきおいをなすに至ったことに、子規はおおいがたい短歌の衰頽をみた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○夕霞 たなびきくれし 山松は すみ絵のよりも おぼろなりけり  ○打むかふ 硯《すずり》の海の なかりせば わがおもひ川 いづちやらまし [#ここで字下げ終わり]  旧派の歌はこういう調子であるから、なんとも始末におえぬものというほかはなかった。明治の、新しい人間の生活や感情をかよわせることのできるうたいぶりでないことは、誰の目にも明らかであった。  こういう衰弱の根源は、一千年にちかい年月を支配してきた平安朝歌風の、非現実的な技巧主義にあると子規はかんがえ、それを革新するためにはより古い奈良朝歌風を復活させることだとかんがえた。すくなくとも、「歌よみに与ふる書」以後の子規の理論は、明確にそういうかんがえかたでおしすすめられたものである。  明治維新は田舎ものによって遂行された革命だということは一般に言われている。こういう比喩的な言いかたには学問的な正確さを欠くところが無いとは言えないけれども、それだけに一面の真実を鋭く表現しているところもあるもので、おもいあたるふしはいろいろにある。うたぶりを田舎ふうと都会ふうということで対立させてみると、万葉集が田舎ふうで古今集・新古今集が都会ふうというふうにみることはほぼなっとくしうるところである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○世の人は 四国猿とぞ 笑ふなる 四国の猿の 子猿ぞわれは [#ここで字下げ終わり]  とうたった子規は、まさに田舎ものであった。松山藩の、下級武士の息子で、彼はあった。田舎ものの力がなんらかの意味で目立って役立った明治維新によって出発した時代に、田舎ものの子規が、田舎ふうな短歌の様式をかかげてその革新運動にのり出してきた。田舎ものふうであったから、野人《やじん》礼にならわずというおもむきもあったが、生気にはあふれていた。しかし、その、あらあらしく素朴に直線的な太い力は、さすがに周囲をおどろかせたり当惑させたりした。  新聞『日本』の社長|陸羯南《くがかつなん》は、太っ腹な進歩的日本主義者で、子規の才能をみとめ、生活のうえでも終りまで子規の面倒をみたひとであるが、「歌よみに与ふる書」がじぶんの新聞にのったときには、いささか面くらって、反対意見を書き送った。子規もそれに対しては、ねっしんに長い手紙を書いて自説を主張した。  十回にわたる「歌よみに与ふる書」の連載の終ったあと、三月二十五日に、子規はじぶんの家ではじめての歌会をひらいた。しかし、そのとき集まったのは高浜虚子、河東碧梧桐《かわひがしへきごとう》、石井露月など六人のひとびとすべて俳句の弟子たちばかりであった。そして、つぎの歌会のひらかれるまでには、翌明治三十二年三月十四日まで、一年間待たなくてはならなかった。根岸短歌会と称して、その後はほとんど毎月、明治三十三年十月までに十八回の歌会をひらいている。岡麓、伊藤左千夫、長塚節らが集まってくるようになって、その歌会はしだいに実質的に充実を示してゆくようになった。  伊藤左千夫は、子規よりも三歳年長で、旧派の歌人としてもかなりの勉強をしていた。それだから、はじめ子規の歌論とはむしろ反対の意見をもっていた。明治三十一年に、左千夫が新聞『日本』へ歌論と和歌を発表したとき、子規はそれらをはげしく批判した。明治三十三年正月に、左千夫がおなじ新聞へ短歌を投稿し、子規の撰で三首入選した。そして、一月七日の子規庵の歌会に左千夫がはじめて参会した。はじめて子規そのひとに会って、左千夫はいっぺんで子規の人間に傾倒した。そのときから年長者の左千夫が子規の弟子として生涯その道を歩むことになった。茨城県の地主の息子で、まだ二十歳を出たばかりの病弱の青年長塚節も、左千夫より二カ月ほどあと、子規を訪ねて、その弟子となった。子規は明治三十五年秋に死ぬのであるから、左千夫や節と、子規との交流は三年足らずのものであったが、明治以後の短歌史の流れのうえでの、もっとも大きな流派と運動は、そのあたりからはじまったのである。  根岸短歌会は、子規死後もつづけられ、明治三十六年に左千夫を中心として雑誌『馬酔木《あしび》』を発行したが、四十一年一月に廃刊し、同年九月『アララギ』を創刊し、その雑誌とその結社がいらい現在までつづいて、アララギ派といわれる短歌の流派をなしているわけである。つまり、明治から大正を経て昭和につらなるアララギ派は、正岡子規の病牀のまわりに十人足らずの歌つくりが集まって歌会をはじめた根岸短歌会にはじまり、その正統をつぐもので、正岡子規から岡麓・伊藤左千夫・長塚節・島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明などをへて現在へつながっているわけである。この根岸短歌会からアララギ派までを通じて、万葉歌風尊重主義の旗が高くかかげられて来たのである。  子規の病牀のまわりに集まった、たった六人の歌の会からはじまって、これだけ大きな、これだけ永続きした集まりになったということは、その歌風が明治から昭和にわたる時代とその人びとのこころを、それだけつよくとらえたということにほかならぬ。「歌よみに与ふる書」にはじまった子規の議論と語調は、他人の家ヘワラジ足で踏み込むような無躾《ぶしつけ》が無かったわけではないけれども、踏み込まれた家の方にもそれだけの弱さがあった。子規のはいていたワラジには、すがすがしい、土の香さえにおっていた。金具を打ったいかめしい固い軍靴《ぐんか》のようなものではなかった。 [#改ページ]   2 万葉集歌風と古今集・新古今集歌風 [#5字下げ]──小学校時分から私たちは教えこまれている。「万葉」はいい、「古今」「新古今」は遊戯的でいかん。装飾的でいかん。この再認識が必要である。──『高見順日記』  万葉集歌風(奈良朝歌風)と、古今集・新古今集歌風(平安朝歌風)ということを、これまでのところ自明のことのようにして私は語ってきた。ここでそのことをひととおり書いておきたい。  げんみつに言えば、古今集と新古今集も、それぞれ別の歌集であるのだから、それぞれの個性があり、その歌風がまったくおなじだということはありえない。しかし、そういうふうに細分してゆけば、歌の姿や形というものは各作家によってそれぞれの個性があり、さらに言えばおなじ作家の作品でも一首ずつにそれぞれの個性があるとみなくてはならぬ。歌風とか歌の様式とかいう概念は、そういう細分主義とは別の方向で概括的にかんがえることによってつくられるかんがえかたである。  そうは言いながらしかし、ここでも私たちはもうひとつの事実に気がつく。細分化を徹底させて行けばついに一首ずつの歌というところへ行きつき、それでは歌風という概念が成り立たなくなってしまうとおなじように、共通する性格や要素を大きくまとめてゆく概括方式も、徹底させて拡大してゆけば、ついにそれは五七五七七、三十一音形式の和歌(短歌)文学とでもいうふうな、まったく形式的に抽象的な規定に行きつき、ここでもまた統一的な歌風というかんがえかたが成り立たなくなる。だから、万葉集歌風とか、古今集・新古今集歌風とかいうのは、それらの両極端の中間のところで成り立たせる平均的な概念とでもいうふうなものである。「万葉集歌風」ということばを私はここでつかったが、万葉調とか、万葉様式とかいうことばも、ほとんどおなじ意味のことばである。「古今集・新古今集歌風」という言いかたについても、もちろんおなじである。  そこで、万葉集に対して古今集と新古今集をひとまとめにして対称をつくるのはどういうわけかという問題が出てくる。その組みあわせをばらばらにして、つぎのような図式をつくってみよう。   A 万葉集──古今集   B 万葉集──新古今集   C 古今集──新古今集  A、Bの二項においては明らかに歌風のちがいがよみとれる。しかし、C項の二つの歌集の歌風の距離は、AB二項の距離よりもはるかに小さい。それだから、この三つの図式は平均値をとってまとめることができる。つまり、C項を消去することができる。それゆえ、A項とB項をひとつにして、  万葉集──古今集・新古今集  という図式に一本化することができる。この、古今集・新古今集歌風を綜合したものが、小倉百人一首ということになるというのが私のかんがえであり、具体的にそれを説明することが、ほかならぬこの書物の中心の目的である。  そこで、話を元にもどそう。  もっとも見やすいことから言えば、これら三つの歌集の、それぞれに成立した時代ということがある。成立年代というようなことでも厳密には学者のあいだにそれぞれの説があって確定できないものもあるが、そのことを承知のうえで、ほぼつぎのようにかんがえておけばよいだろう。  万葉集──永年かかって、多くのひとが編纂に関係したことは明らかであるが、大伴家持によって大体現在の形ができ、さらに何人かの人の手が加わっているらしい。家持の最後の手入れは奈良朝の末、宝亀八年(七七七)から翌九年まで。その後の人が多少手を加えたとしても、ほぼ七九〇年ころまでには完成したものとみられる。平安京遷都は七九四年であるが、いずれにしろそれ以前に完成していたとみられる。したがって収録されている作品のもっとも新しいものも奈良時代末期までのものである。古い時代の作品ということになると、これも正確には規定しがたく、記紀歌謡にすぐつづく古いものから集められていると見られるが、天平宝字《てんぴようほうじ》三年(七五九)正月一日の日附をもつもっとも新しい歌から逆にかぞえて四百年ほどまでさかのぼることができるというのが学者の研究でほぼ一致するところである。二十巻で、歌数は約四千五百首(長歌、短歌、旋頭歌その他をあわせて)。  古今和歌集──醍醐天皇から勅撰の依頼のあったのが延喜五年(九〇五)四月十八日であると、紀貫之のかいた仮名の序文にみえている。しかし収録されている作品や詞書《ことばがき》の日附などには延喜十三年のものなどもあるから、完成したのは延喜十四年(九一四)ころではないかとみられている。万葉集以後の作品集ということが編纂の原則となっているのであるが、わずかな数ながらダブっているものがある。しかしこの集の中心となっているのは、いわゆる六歌仙時代と、それにつづく撰者時代におけるその作者たちの作品である。六歌仙とは、遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰・小野小町・大伴黒主の六人で、その時代とは承和元年(八三四)から仁和二年(八八六)までということになっている。撰者(天皇から撰進をたのまれたのがこのひとびとである)とは紀友則《きのとものり》・紀貫之《きのつらゆき》・凡河内躬恒《おおしこうちのみつね》・壬生忠岑《みぶのただみね》の四人。その時代とは仁和三年(八八七)から延喜五年(九〇五)ころまでということになっている。二十巻で歌数は千百首余り(数は諸本によって多少の出入りあり)。  新古今和歌集──後鳥羽上皇が、建仁元年(一二〇一)十一月に源|通具《みちとも》・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原|雅経《まさつね》・僧寂蓮の六人に依頼した。一応完了して祝いのパーティがおこなわれたのが元久二年(一二〇五)三月二十六日である。しかし、現行の形におちつくまでには、後鳥羽上皇の積極的な意見を中心としていわゆる「切継」(改訂)がくわえられて承元四年(一二一〇)までかかっている。編纂の方針は、古今集とちがって万葉集時代の歌も含めて代表的な作品をとるということになっているが、中心は言うまでもなく当代の作者のもので、古い歌もその集の作風にあてはまるものを採るという結果になっている。二十巻、歌数はだいたい千九百八十首とかぞえられている。  以上によって明らかなことは、万葉集が奈良朝時代末期に編まれてほぼそのころまで四百年の歌を代表しているとすれば、古今集と新古今集は平安朝時代四百年の歌を集めてその歌ぶりを反映しているとみることができるということである。新古今集の完成したのは時代のうえから言えば鎌倉時代に入ってから(建久三年、一一九二年が頼朝による鎌倉幕府の成立の年である)ではあるが、それは政治のうえでの時代区分をもとにして分類するときのくいちがいである。  すべての芸術は多かれすくなかれ、その作者の生きた時代や社会の姿や思想を反映するものであるが、文学作品はとくにそうである。それだから、万葉集が奈良時代の歌集であり、古今集と新古今集が平安時代の歌集であるということには、すでにそれだけでも、それぞれのちがいと個性の存在することを充分に予想させる。  文学作品を理解するために、政治的・社会的にその時代がどういう事件、どういう変動を経過させたかということを理解してかかることも有効なことではあるが、時代とその人間性は文学作品に反映するものであるから、私たちは文学作品そのものの側から逆にその時代の姿をさぐることもできる。万葉集第一巻第一首目の雄略天皇の作といわれる歌はよく知られている。 [#1字下げ]籠《こ》もよ み籠《こ》持ち 掘串《ふぐし》もよ み掘串持ち この岳《おか》に 菜摘《なつ》ます児 家聞かな 告《の》らさね そらみつ 大和《やまと》の国は おしなべて われこそ居《お》れ しきなべて われこそ座《ま》せ われにこそは 告《の》らめ 家をも名をも  この一首についても、いろいろな訓《よ》みかたがあって、学者によってすこしずつちがうようである。訓みかたのちがいによって、解釈もちがってきて、とくに終りのところを、あなたの名前を私に告げなさいと解するひとと、私の名をあなたに知らせようと解する説とがある。私がここで写したのは『日本古典文学大系本』の訓みかたである。「家聞かな 告らさね」のところがなんとなく気がかりで、古くから親しんできた、「家聞かな 名告らさね」のほうにみれんが残るが、こういうところはしろうとだからしかたがない。それにひきかえてこの訓みでは、「われにこそは 告らめ」となっていて、あなたの名前を私に告げなさいという意味ははっきりしている。  要するにこの歌は、天皇が春の野原で籠をもち、土を掘る竹ベラかなんかをもって草摘みをしている少女に呼びかけている恋愛の歌である。私は大和の国すべてを治める天皇だ。この私にあなたの名前をおしえて下さいというくらいな意味に解してさしつかえないだろう。天皇の権力と威光が、その当時どのくらいのものであったかも、専門の学者ではない私にはよくわからぬ。雄略天皇というのは、かなり野性的にいくらか暴力的なところもあったひとらしいから、オレはお前にじぶんの名前をつげる。オレはこの国を治める天皇だ。文句はなかろう、ついてこいというくらいのことはあったかもしれぬ。すくなくとも、「われこそは 告らめ」と訓んで、そこをそのように解釈すれば、天皇らしい威厳も出るが、そのかわりはなはだ強引なおしつけの調子にもなるだろう。  それを反対に、「われにこそは 告らめ」と訓めば、天皇が思いがけなく健康なうつくしい女性をみとめて、すっかり彼女にこころを奪われ、なりふりかまわず、私は天皇です、どうぞあなたの名前も教えてくださいと夢中でよびかけている姿がうかぶ。そういうふうにみれば、私は大和の国をおしなべておさめる天皇ですと言い放っているところなども、ヒケラかしや圧しつけとして響くのではなくむしろ、じぶんのためにすこしでもプラスになるようなデータをならべたてて、なんとか彼女の心をひきつけようと心をくだいている無邪気な姿とさえもみえる。  もちろん、雄略天皇とその長歌が、万葉の時代やその作風を代表するものとは言いきれないだろうし、そもそも、この作品が雄略天皇の作品か、ということにも不安定なところがある。天皇の愛情表現だから、底ぬけに明るく積極的なのはあたりまえだといってしまえばそれまでのようなところもある。つぎに、女性の歌をあげよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○秋の田の 穂の上《へ》に霧《き》らふ 朝霞 何処辺《いづへ》の方《かた》に わが恋ひ止まむ  |磐 姫皇后《いわのひめのおおきさき》  ○あかねさす 紫野行き 標野《しめの》行き 野守は見ずや 君が袖振る  額田王《ぬかだのおおぎみ》  ○しきしまの やまとの国に 人二人 ありとし思《も》はば 何か嗟《なげ》かむ  作者不詳  ○我《あ》が面《おも》の 忘れむ時《しだ》は 国はふり 嶺《ね》に立つ雲を 見つつ偲《しの》ばせ  東歌《あずまうた》 [#ここで字下げ終わり]  前二首は宮廷の女性の歌、あとの二首は名も知られぬ、身分の低い作者のものである。東歌の一首は、防人《さきもり》として出征する夫か恋人におくった歌であろう。あなたが遠い宿営の地で私の顔を忘れそうになるような時には、国境の山々の嶺に溢れ立つ雲を眺めながらおもい出して下さいというほどの意味である。 「しきしまのやまとの国に……」の歌については古くから、国中にあなたのような方が二人いるならこんなになげくこともないのに、あなたはただひとりだからこのようになげきかなしむのです。というふうに解釈されるのがふつうである。  しかし私は、はじめてこの歌を知ったとき(それは、高等学校のときの教科書で知ったのであるが)、ぜんぜん反対に思いこんでしまった。つまり、しきしまのやまとの国には、あなたと私と二人がいる。このよろこびと幸福があれば、なにをなげくことも思いわずらうこともありはしないという意味に。つまり、手ばなしの恋愛讃歌である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○吾はもや 安見児《やすみこ》得たり 皆人の 得がてにすとふ 安見児得たり  藤原|鎌足《かまたり》 [#ここで字下げ終わり]  それは巻二にある歌で、安見児という絶世の美人をめとることができたときの歓喜をなりふりかまわずひとすじに宣言した歌である。いくらかアホらしい楽天主義のようなところもあるが、その自己肯定に古代的な明るさがあるだろう。前の歌を、私がほとんど直感的にあのようにうけとったのも、鎌足のこの一首からの影響があったのかもしれない。文法のうえからも、そうよんで、どうも誤まりではないような気がする。この短歌は、長歌につけられた反歌で、その元の長歌の方をよむといよいよそのように解する方が良いような気がする。学生時代の、じぶん勝手な解釈に未練が残りながら、いろいろ評釈書をのぞいても私の味方はあらわれなかったから不承不承にあきらめかかっていたとき、斎藤茂古の『万葉秀歌』で、明治になってからの服部躬治の『恋愛詩評釈』での解釈を発見した。 「天地の間に存在せるはただ二人のみ。二人のみと観ぜむは、夫婦それ自身の本能なり。観ぜざるべからざるにあらず、おのづからにして観ずべしとす。夫婦はしかも一体なり。大なる我なり。我を離れて天地あらず、天地の相は我の相なり。既に我の相を自識し、我の存在を自覚せらば、何をもとめて何をなげかむ。我は長《とこしな》へに安かるべく、世は時じくに楽しかるべし。蓋《けだ》しこの安心は絶対なり」。  服部躬治はそのようにかいている。斎藤茂吉は新派和歌当時の万葉鑑賞の見本を示すために引用しただけであると、軽くイナしているが、すくなくともこの一首に関する限り、服部躬治のほうが万葉集とその時代の人情をよりよく理解してよみとっているようにみえる。  要するに、万葉集の歌にもどこか土の匂いがする。宮廷人の発想においてさえも、愛の告白を籠や掘串ととりあわせてうたい、苦しい恋愛をうたうのにも秋の田の稲穂のうえにうっすらとゆれうごいている朝霞にことよせてうたい、皇后が夫の弟にむかって、はなはだ危険なよびかけをうたうときにも、あかねさす柴野とその野守を点景としている。土くさく、生活的に直接的・直線的である。  古今集の時代になると、恋愛はもうこういう姿ではまったくあらわれてこない。明るい陽のもとで、まともに相手によびかけるというふうではなくなる。源氏物語の「蛍」の巻には空薫物《そらたきもの》のほのかに匂う夜の几帳《きちよう》のなかへ、薄紙につつんだ蛍をかざして女性と逢曳きする場面がある。あえかにほのぼのとしてはいるが、土の匂いなどというものとはまったく離れてしまったものであることは言うまでもなかろう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○名にしおはば いざこととはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと  在原業平  ○うたた寐《ね》に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき  小野小町  ○あふことは 雲居《くもい》はるかに なる神の 音にききつつ 恋ひわたるかな  紀貫之  ○ありあけの つれなくみえし 別より 暁《あかつき》ばかり 憂《う》き物はなし  壬生忠岑  ○ほととぎす なくやさ月の あやめ草 あやめもしらぬ 恋もするかな  読人《よみびと》しらず [#ここで字下げ終わり]  古今集での恋愛はこのようにうたわれている。つまりここでは、恋がはかないもの、たえだえにあわれなものとしてうたわれている。むかしの恋人の消息は都鳥にたずねるよりほかないもの、恋人に逢うよすがは仮寐の夢や遠い空の雷の音にすがるほかないもの、暁の光とともにつれなく果てる恋、一瞬空をかすめて雲の奥へ姿を消すほととぎすの声のようにあやめも知れぬ恋──そういう姿で恋愛がとらえられている。光の消えたうす明りのなかに、はかなくたよりなく立ち迷っている感情である。  万葉集では恋愛の歌のことを「相聞《そうもん》」と言っている。相聞ということばを辞典にあたってみると、相問いかわすという意味であると説明している。つまり、恋愛の歌はもともと、相手(恋びと)に向ってよびかける歌である。本質的にそれは対話として成り立っているものである。古今集になるとそれは、独白《モノローグ》として、ひとりじぶんの内面でつぶやく調子になる。  もちろん、万葉の時代の恋人たちのすべてが、「吾はもや安見児得たり」という調子に、あるいは「しきしまのやまとの国に人二人」というぐあいに、天真らんまんにじぶんたちの恋愛をよろこび、祝福していたばかりではない。磐姫皇后の歌のように、くるしい恋情もあったし、失恋もあった。万葉集巻四には、笠女郎《かさのいらつめ》がつれない大伴家持にめんめんとしてかきくどくような調子でうったえている二十四首の連作がみえる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○わが屋戸《やど》の 夕影草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかな  ○みな人を 寐よとの鐘は うつなれど 君をし思《も》へば 寐《い》ねかてぬかも  ○相念《あいも》はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後《しりえ》に ぬかづくごとし [#ここで字下げ終わり]  夕影草に宿る露にふれても、夕方の鐘の音をきいても思いはつのるばかりだというふうに、身も世もあらずせつないおもいをしながらも、ある瞬間ふと、そういうじぶんをふりかえって、大寺の餓鬼のしりえにぬかずくものの姿になぞらえてみるだけの、一種ユーモラスな、自己を客観化する理性は残しているのである。  内にこもるため息、絶えいるようなつぶやき、なげきに充ちたはかなさで恋愛がうたわれる姿は新古今集においても変らない。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○玉のをよ たえなば絶えね ながらへば 忍ぶる事の よわりもぞする  式子内親王  ○難波潟 みじかき蘆の ふしの間も あはで此世を すぐしてよとや  伊 勢  ○おもかげの かすめる月ぞ 宿りける 春や昔の 袖の涙に  俊成女《しゆんぜいじよ》  ○けさよりは いとど思ひを たきまして 歎きこりつむ あふ坂の山  高倉院 [#ここで字下げ終わり]  高倉院の歌は、「思ひ」の|ひ《ヽ》を火に通わせ、その火を焚き増し、「歎き」のき(木)を樵《こ》り積《つ》む逢《あ》う坂(大坂)の山というふうに、ことばを幾重にもひっかけてつかっているわけである。昨夜逢ったばかりなのに、今日はまた朝から恋しいおもいが重なってなげいてばかりいるというほどの意味を、こういうふうに技巧的にまがりくねらせて腕をみせているところである。恋情の切なさを表現するためというよりは、ことばの唐草模様のようなものをつくることに作者の苦心とよろこびがかかっているというおもむきである。  万葉集から採った作品は、新古今集のなかに約六十首をかぞえることができる。そうは言ってもしかし、万葉集に万葉仮名で記録されたもとの歌と、新古今集に登載された形とでは、ほとんどすべての歌において異同がある。なかには大伴家持の歌を、山部赤人の歌と誤記しているようなのがあったり、作者不詳の歌に特定の作者をあてたり、その逆のばあいもあったりする。そういうことは問題外とするとしても、語法・用語の端々に見られる変動は、意識的な改作とか添削とかいう性質のものともちがい、万葉仮名の訓みにおける異訓というふうなものでもない。それだから、そこには新古今集時代の美意識にもとづく言語感覚がしぜんに作用して、いわば無意識のうちに、作為のはたらかぬ改作が徐々に進行して固定するとでもいう過程が存在したのではないか。  いずれにしろ、どのような作品が、どのような形で新古今集に採られているかを対比してみることが、二つの集の、それだから二つの時代の美意識の特質を微妙に、かつ特徴的に照し出すことにもなりうるはずである。ここではしかし、六十首すべてをならべることもないだろうから、目立ったものをいくつか例示するにとどめたい。前掲のものが万葉集のものであり、後の方が新古今集に記録されたものである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○春過ぎて 夏|来《きた》るらし 白妙《しろたえ》の 衣ほしたり 天《あめ》の香具山《かぐやま》  持統天皇  ○春過ぎて 夏来にけらし しろたへの 衣ほすてふ 天《あま》のかぐ山  同 右  ○田子の浦ゆ うちいでて見れば 真白《ましろ》にぞ 富士の高嶺《たかね》に 雪は降りける  山部赤人  ○田子の浦に うちいでて見れば 白妙の ふじの高ねに 雪は降りつつ  同 右  ○ぬばたまの 夜の深《ふ》けゆけば 久木生《ひさきお》ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く  同 右  ○うばたまの 夜の深けゆけば 久木生ふる 清き河原に 千鳥なくなり  同 右  ○ささの葉は み山もさやに 乱れども われは妹《いも》思ふ 別れ来ぬれば  柿本人麿  ○ささの葉は み山もそよに 乱るなり われは妹思ふ 別れきぬれば  同 右  ○時は今は 春になりぬと み雪降る 遠き山辺《やまべ》に 霞たなびく  中臣朝臣武良自《なかとみのあそんむらじ》  ○時は今 春になりぬと み雪降る 遠き山辺に 霞たなびく  (新古今集では、よみ人しらずとす)  ○ももしきの 大宮人は 暇《いとま》あれや 梅を挿頭《かざ》して ここに集《つど》へる  作者不詳  ○ももしきの 大宮人は 暇あれや 桜かざして 今日もくらしつ  (新古今集では、山部赤人作とす) [#ここで字下げ終わり]  ぜんたいとして、万葉集のうたいぶりは荒けずりでごつごつしている。新古今集のうたいぶりは角がとれてなめらかである。大宮人のレジャーには、なるほど梅よりは桜の方が現代的にふさわしい。「夏来るらし」と「夏来にけらし」がすでに前者の固さと後者のなめらかさをあらわしているし、「衣ほしたり」と断定しているのに対して「衣ほすてふ」と間接的にうたう形においてその対照はいよいよ明らかである。「時は今は春になりぬと」と「時は今春になりぬと」との対比は、助詞一字のちがいであるけれども、ちょうどそれは「目には青葉 山ほととぎす 初鰹《はつがつお》」という江戸時代の有名な素堂の句が、人びとによって口誦されているうちに「目に青葉 山ほととぎす……」となめらかになってゆく姿と似ている。「千鳥しば鳴く」と「千鳥なくなり」にもそれは言えようが、同時にこの対比は前者が動的で後者が静的な美意識にささえられていることをも示している。  そのことは、富士をうたった赤人の歌の対比においてさらに典型的にあらわれている。「田子の浦ゆ」は、田子の浦からの意味で、「田子の浦に」の静止に対してそこから船を漕ぎ出す姿を示している。「真白にぞ」と直接的に言い、「雪は降りける」と断定する形に対して、「白妙の」と修飾的に言い、「雪は降りつつ」と余韻余情を残そうとする形は、男性的に動的な美を求めるものというよりは、女性的な繊細をひびかせている。  人麿の一首は、直線的な万葉の美意識と、三句切れ技法を特色とする新古今集の意志をもっともよく表現している。つまり、万葉集の歌の方は第三句「乱れども」から下二句へ語法として連続しているから意味のうえでも、いま山中の笹の葉に風が吹いてざわめき乱れているが、わが思いはそれに紛《まぎ》れることなくひたすらに別れて来た妻のことにかかわっているというふうに直線的につながるのである。「乱れども」のところは、「みだるとも」「さわげども」「さやげども」などいろいろな訓みかたがあって古来やかましいところだが、斎藤茂吉の訓んだ「みだれども」が、第四句へのつながりの直接さをもっともよくひびかせているとおもう。  それに対して新古今集の「乱るなり」と、そこで一度終止する形(三句切れ)は、一種の倒置法のような効果になる。山深いひとりの旅路に、笹の葉ずれの音がさびしく鳴っている。別れてきた妻のことを思いながら、そのさびしい笹の葉のざわめきを私はきいている。新古今集のかたちは、より主観的でもあり、観念的でもある。  自然をうたった歌を対比してみると、万葉集と他の二つの歌集のうたいぶりのちがいは、さらにはっきりするだろう。  万葉集 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ○あしひきの 山河の瀬の 響《な》るなべに 弓月《ゆづき》が嶽《たけ》に 雲立ち渡る  柿本人麿歌集  ○石激《いはばし》る 垂水《たるみ》の上の さ蕨《わらび》の 萌《も》え出《い》づる春に なりにけるかも  志貴皇子  ○夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜《こよい》は鳴かず い寝にけらしも  舒明天皇  古今集  ○春日野《かすがの》の 飛ぶ火の野守 出でて見よ 今|幾日《いくか》ありて 若葉つみてむ  読人しらず  ○山がはに 風のかけたる しがらみは ながれもあへぬ 紅葉《もみじ》なりけり  春道列樹《はるみちのつらき》  ○山ざとは 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬとおもへば  源|宗于《むねゆき》  新古今集  ○心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫《しぎ》立つ沢の 秋の夕暮  西行法師  ○見渡せば 山もと霞む 水無瀬川《みなせがわ》 夕は秋と 何思ひけむ  後鳥羽院  ○雲は皆 はらひはてたる 秋風を 松に残して 月をみるかな  藤原良経 [#ここで字下げ終わり]  ひとことで言えば、万葉集の作者たちは自然をうたうばあいにもより自然的であり、古今集・新古今集の作者たちはより人間的である。前者は直接に手ぶらで自然のなかへ入りこんで行っている。後者は間接的に技巧的に自然を人間の方へ引きよせている。前者が素顔なら、後者は化粧をこらしている。  万葉集、古今集、新古今集それぞれの歌風の特色については、古い時代から専門的、学問的に多くの研究がある。たとえば、江戸時代の歌学者|橘守部《たちばなのもりべ》(一七八一─一八四九)の『短歌撰格』では、万葉集歌風では主語が上の句にあり、古今集では中の句、新古今集では下の句に在るばあいが多いという特徴を分析している。それは新古今集の歌で、たとえば前掲西行の「鴫立つ沢の秋の夕暮」という歌のように終りに名詞が来る(名詞止め、あるいは体言止め)ものが多いということにも関係している。万葉集は五七調を基本律として、一息にうたいきる歌風であるのに対して、古今集から新古今集へ進む過程で、七五調、三句切れ、一句切れの技法が多くなるとか、掛けことば、縁語の使用が目立つようになるとか、本歌取の作法が独立するとかいうふうに、学者たちの研究のすすむにしたがって、さまざまな微視的に専門的な分類がおこなわれている。写実的な万葉集に対して、古今集・新古今集は余情的・象徴的な歌風だというふうにも言われる。もののあわれとか幽玄・有心というふうなことばで古今集や新古今集の歌ごころをとらえようとすることは、もともと俊成や定家じしんによってはじめられたものでさえあった。  学者や専門家の研究が細かく正確になってゆくことはもちろん、必要でもあり有益でもある。けれどもまた、私たちのように専門家ではない一般の鑑賞家はそれなりに、分析的・専門的・微視的観点からすこし離れたところ、全体的綜合的なところから、いわば巨視的・直感的なよみかたによっても、歌風のちがいというものはほぼ正確によみとることもできるものである。時代と社会がちがえば、文学作品の姿や形もちがってくるのはあたりまえのことと言いうるのである。  詩人の萩原朔太郎は、短歌の理解においてももちろん素人ではなかった。しかし歌風のちがいという問題については学者ふう、専門歌人ふうとはちがって本質を大づかみにして区別するというやりかたでかんがえて「奈良朝歌風と平安朝歌風」という明快な論文をかいている。 「万葉集の特色は、内容から言えば自然率直、形式から言えば荘重|雄勁《ゆうけい》、態度から言えば直情直詠主義であった」。 「万葉集より約一世紀半を経て、此所に平安朝の新しい歌壇が興った。彼等はすべてに於て万葉のコントラストで形式からも内容からも全然独立した別趣の歌風を創造した。即ち平安朝の新歌風は、万葉の豪壮に対して優美を尊び、率直に対して趣向を好み、経験に対して空想を取り、自然に対して構成的の技巧を選んだ。しかもこの新しく開けた歌風は、古今集に始めて創立されて以来、七代の勅撰歌集を経て継承され、最後に新古今集によって爛熟至芸の極に達した」。  別の、「古今集に就いて」という文章でも、つぎのように言っている。 「日本短歌の全野を通じて、歌と呼ばれる者の範疇《はんちゆう》は二つしかない。一は即ち奈良朝歌風の歌である。そして前者は万葉集によって代表され、後者は古今集によって創始された」。  私たちのこれまで、万葉集歌風と古今集・新古今集歌風ということばで言ってきたものの内容は、右の萩原朔太郎の「奈良朝歌風と平安朝歌風」で総括されると言ってよいほどのものである。  かんがえかたがここまでまとめられて来れば、それはもうせまく和歌の作風のみに関してというよりも、芸術や文学全般に通ずる基本的に対立する二つの様式概念にまで拡大して、あるいはその総括的なかんがえかたのなかへ組みいれて整理することができるわけである。朔太郎が二つの「範疇」と言っているのもそのことである。  芸術史のうえでの様式についての基本的に対立する二つの範疇として分類されるものの名づけかたにも、古くからいろいろな理論がある。わりあいにポピュラーなものをあげれば〈現実的〉と〈浪漫的〉という名づけかたがある。現実的の方は、「写実的」というひともある。現実的あるいは写実的は、もともとヨーロッパの文学芸術思潮における Realism の訳語であって、それは人間の生活や思考のタイプとしては現実的生活的である。この傾向に発する芸術上の技法は写実的・写生的である。けれども、私のかんがえではリアリズムに対立する代表的な概念は、ロマンティシズム(Romanticism・浪漫主義)であるよりは、アイディアリズム(Idealism・観念主義、理想主義)であろうとおもう。それだから、ここのところは、現実的─浪漫的と対立させるよりも、|現実 的《リアリステイツク》─|観 念 的《アイデアリステイツク》と対立させた方がよいようにおもう。もっとも、こういうことばや用語についてのせんさくなども、わるくこだわれば瑣末主義におちいりがちであるから、言いならわした形で意味さえ通じればよいということにもなる。  そこで、このへんに根本のかんがえかたを据えて万葉集歌風をリアリスティックなもの、古今集・新古今集歌風をアイディアリスティック(またはロマンティック)なものとみてゆけば、類推的にいろいろな対立概念をあてはめることができる。たとえば男性的と女性的とかんがえることもできる。現に、万葉集の歌風は「ますらをぶり」であり、古今集のそれは「たをやめぶり」であるというふうな分類は古くからおこなわれている。農村的と都会的とか、平民的と貴族的とか、生活的と遊戯的とかとも言いうるだろう。万葉集を活動的に労働的な朝明けにたとえ、新古今集を華やかに淋しい夕映えにたとえた国文学者もいる。十八世紀の終りごろ、ドイツのフリードリヒ・シラーが素朴《ナイーブ》と|感  傷《センテイメンタール》ということばでかんがえた対立概念にもたどりつくこともできるだろう。そして、やがて私たちは芸術の目的についてのもっとも古い、そしてたえずくりかえされつつ今に至るも解決しない、あの無限の対立のところまで行きつくことになるだろう。つまり、人生のための芸術か、芸術のための芸術かという、あの永遠のアポリア(解決なき設問)のところまで。  ここで私はもう一度、前の章で述べたことへ話をもどさなくてはならぬ。  正岡子規からはじまって、アララギ派へうけつがれた万葉集歌風尊重、古今集・新古今集歌風排撃理論に私はつよく影響された。それは単純に、私の短歌についてのかんがえかたを決定したというのみでなく、文学全般についてのかんがえ方そのものを強く支配するほどのものであった。  しかし、文学や芸術のことに関しては、ひとりよがりとお山の大将がうまれたとき、それはもはや死んだもの、すくなくとも成長の能力をうしなったものとなり果てる。つまり、わけても芸術や文学においては、じぶんの対立物、いわば敵を、つまりあらそうべき相手をいつももっていなくてはならぬ。敵がいなくなったときは、じぶんの死だ。とすれば、敵こそはもっともすぐれた味方であるかもしれない。はやい話が、正岡子規があれだけ強くすぐれたいくさをはじめることができたのは、千年にちかい歴史をもち、すっかり老いぼれて骨と皮だけになっているくせに構えだけは大きく張って威張りくさっている旧派の和歌の牙城が存在したからだ。じじつ、ねらいはほとんど「歌よみに与ふる書」一発で旧派の急所を射抜いたとにらんだ子規は、三年経った明治三十四年一月には、ほんとうにたたかうべき相手は与謝野鉄幹一派であると、新聞で公言した。それが世に言う、「子規鉄幹不可併称説《しきてつかんふかへいしようせつ》」である。子規は「墨汁一滴」(それは新聞『日本』に連載したものである)でつぎのようにかいている。 「去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹子規と竝記し両者同一趣味なるかの如くいえり。吾《わ》れおもえらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは併称すべき者にあらずと。すなわち書を鉄幹に贈って互に歌壇の敵となり、吾れは明星所載の短歌を評せん事を約す。蓋《けだ》し両者を混じて同一趣味の如く思える者の為に妄《もう》を辯ぜんとなり」。  つまり、子規は、ほんとうにじぶんにとって対立しがいのある敵らしい敵は、一年ほど前に新詩社を結成して、雑誌『明星』を発行しはじめた与謝野鉄幹や晶子の一派であるとかんがえたのである。鉄幹も、旧派の和歌を否定し、新しい明治の短歌運動をねっしんにおしすすめようとしているこころざしでは子規とおなじで、むしろ子規より一足早く運動にすすみ出た青年歌人であった。のみならず、子規が万葉集歌風を主張するのに対して、鉄幹らの歌風は、生命をうしなった旧派・御歌所派とはまったく異るけれども、系統としては古今集・新古今集歌風によるものであった。  そうかと言って、子規と鉄幹が犬猿もただならぬ仲というふうにイガミあっているなどというものではなかった。子規は『明星』にしばしば寄稿もしている。短歌の運動のうえでは互いに妥協することなく敵になろうということで手紙をやりとりしうる仲であった。文学のうえでの、ほんとうの敵とか対立とかいうことは、そういうことである。もっとも強い敵こそが、ほんものの味方かもしれぬということは、そういうことである。  以上のことをひっくるめてかんがえたうえで私の言いたいことは、つぎのようなことである。子規が歌風のうえでリアリズム(万葉集歌風)に立ち、それをあれだけつよく、あれだけいきいきと主張することのできたのは、対立者としての鉄幹のようなたのもしいアイディアリズム(古今集・新古今集歌風)の主張者がいたからにほかならないのではないか。黒がなければ白も存在しえない。夜があるからこそ昼がある。マイナスのないところにはプラスそのものも存在の理由をもちえぬ。リアリズムとアイディアリズムとは、そして万葉集歌風と古今集・新古今集歌風とは、たがいに否定しあうことによって、じつは互いに生きる条件をつくりあうのではないか。どちらか片方が死ねば他方も死ぬ。  じぶんは万葉集の歌風が好きだ、その調子で短歌をつくりたいということはある。むしろあるべきである。しかし、そのことは古今集・新古今集の歌風と反対の立場に立つということを意味するのであって、それは逆にアイディアリズムの様式をより明確に認識し(その存在をより正確に認め)、そこから離れるということにほかならない。敵の存在を明確にし、それをくわしく知ることから、たたかいははじまる。  リアリズムとアイディアリズムとは、万葉集歌風と古今集・新古今集歌風とは、おなじ資格とおなじ条件で生存の権利を主張し、私たちがそれをみとめるべき基本的な二つのものである。価値の基準をあてはめて、こちらがすぐれているとか、あちらが上等だとかいう判断を下そうとしても、客観的にはそれは成り立たぬだろう。 「今の世、万葉風をよむ輩《やから》は、後世の歌をば、ひたすら悪《あ》しきやうに、いひ破れども、そは実に良き悪しきを、よくこころみ、深く味ひ知りて、然《しか》いふにはあらず、たゞ一わたりの理にまかせて、よろづのこと古《いにしえ》は良し、後世は悪しと定めおきて、おしこめてそらづもりに言ふのみなり」(本居宣長「うひ山ぶみ」)。  本居宣長の時代にも万葉集主義者はいた。彼らは、古いものならなんでもすぐれたもの、新しいものはみなマヤカシ、あるいは素朴なものはみな清らかで、技巧的・装飾的なものはみな不純なものというふうな乱暴な議論におちいりやすかった。技巧ということについて言うならば、歌である以上どのような歌でも思ったままをそのまま表現するということはありえず、かならず「言にあやをなして、ととのへていふ道」が文学の道であって、万葉集の歌とても、作者たちはすべて「よき歌をよまむと、求めかざりてよめる物」にほかならない。万葉ふうの歌と後世の歌とをたとえて言えば、前者は「白妙衣《しろたえころも》」のようであり後者は「くれなゐ紫いろいろ染たる衣」のようなものだ。白絹はその白さでめでたく、染衣もその染色によってとりどりにめでたいものである。それを、じぶんは白妙が好きだからといって染めた衣をひたぶるに悪いとすべきではない。「今の古風家の論は、紅紫などは、いかほど色よくても、白妙に似ざれば、みな悪しといはんが如し」とも宣長は論じている。  正岡子規は、宣長に批判された古風家とは別のもので、子規にはそれだけの歴史的な必然と必要があったのであるけれども、その歴史性をうしなって形だけを口真似するエピゴーネン(亜流)になると、二世紀ほどもむかしの宣長の批判が生きかえることになりかねない。萩原朔太郎が『恋愛名歌集』につけた諸論文や、「歌壇への公開状」その他の現代短歌批判で主張した平安朝歌風再評価への要求も、形骸化した奈良朝歌風尊重エピゴーネンヘの痛烈な批判として、二百年以前の宣長の理論に通ずるところがあるとも言いうる。  男性的なものが好きだというのも、じつはそのひとの内部に女性的なものが存在して、その女性的な要素が男性的なものを求めているのだとも言いうる。電気でさえも、プラスとマイナスの両極がたがいに求めあう、あるいはしりぞけあう力関係にバランスがうまれたときはじめて、灯がともるのである。 [#改ページ]   あ と が き [#地付き]久保田正文  うたがるたになった小倉百人一首とは、じつに優雅なあそびであったとおもう。私は、長野県の山奥、天竜川ぞいの地方にうまれて、そこに少年期をすごしたものであるが、そういう私の少年時代にも、正月のかるたあそびの思い出は忘れがたいものとして生きている。汽車も電車もどころか、自動車さえもみたことのない村にはまだ電燈もついていなかった。ラジオなどは、ことばさえもできていなかった。そういう時代の長野県の山奥の村にも、百人一首は確実に入りこんでいて、老幼男女の生活と、はなれがたく結びついていた。いろはがるたからはじまって、百人一首うたがるたまでの道は、そのころの少年にとってそれほど離れてはいなかった。  いろはがるたにしても、かんがえてみると、庶民の智慧をあそびにしたような性質のものであるが、百人一首に至っては、一千年のむかしの宮廷貴族の優雅な感情を材料にしてあそびの道具にすることによって、まなびのいとぐちにもしたようなものであった。百人一首で断片的におぼえた土地の名前や草や木や鳥や虫が、しぜんにあるいは突然に私たちの知識へ結びついてくる。小学校の教科書で学ぶことばや、唱歌の文句に再生したりつながったりする。わら草履をはためかせて、田圃の土手や畑の道に生えている草や木を材料にして手製の玩具をつくってあそび呆けていた少年たちは海さえもみたことはなかったが、泥んこの掌で古い時代の宮廷貴族の抽象的な思考や、恋の悩みを鷲づかみにしながら、木登りや草笛の世界へひきよせてのみこんでしまったようなものであった。  こんど、この書物をつくるために、しばらくぶりに百人一首の世界へもどって、私はそういう少年時代へ、たえず立ちもどる思いをくりかえした。電燈さえもついていなかったなどといっても、そのころからまだ五十年とは経っていない。半世紀に足りぬ時間が、それだけはげしい変化を内外に過ぎさせているのだということに、いまさらの感慨もあったが、「活動写真」さえ知らなかった時代の素朴な私たちの少年期の生活が、それほど貧しかったとは言えないだろうということをも、あらためてかんがえた。  同時にしかし、百人一首の世界から離れて永い時間をすごし、あらためてそこへ立ちもどってみて、少年時代に知ることのできなかった新しい発見、思いがけないたのしみの数々を見出すこともできた。古い友人に再会して、新しい交友のよろこびを発見しえたようなものである。この書物には、そういう私のノスタルジアのようなものとともに、新しい発見やよろこびやをも書きとどめたいとおもった。春から夏にかけて、私じしんとしてはしばらくぶりに充実してたのしい仕事のときをもつことができた。いくらかわがままで型やぶりのような書物になったフシもないわけではないが、それだけに私じしんにはこころゆくものになりえたつもりでいる。  多くの学者・専門研究者の業績になるべく広く目を通すように努力もしたつもりであるが、手のとどかぬ古い文献や論文などもすくなくない。とくに恩恵をうけたものについては、そのつど出典をあげたつもりであるが、いちいち名をあげなかった現代の文法学者の諸研究とともにあらためて感謝のこころをとどめたい。友人の奥田美穂・浅原勝・田村富穂の三氏に、文献さがしや原稿整理のことで協力をえたこともありがたいことであった。  上林吾郎氏にすすめられて、そもそもこのしごとは始められ、成り立ったものであった。青木功一氏の協力とともに忘れることのできぬものである。    一九六五年ながつき二八日 著者しるす。 〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年十一月二十五日刊